闇狩の血を継ぐ者 序
「いい?! 絶対に私の半径五メートル以内には入ってこないで!! これは約束よ、もしも破ったら絶交!!」
「厳しいですね。そんなに離れていては雪子さんを守れないじゃないですか」
「――っ、そういうこと言うのも駄目! 恥ずかしがらせて愉しむなんて、そんなの最低な趣味じゃない!」
「愉しむだなんて心外ですね。雪子さんを想うがゆえに僕は」
「み〜ど〜り〜く〜……ん」
赤くなったり青くなったり、そして今度は怒りに声を震わせて。
そんな忙しなく表情の変わる松橋雪子を相手に、敵意を剥き出しにされているはずの本人、緑光は笑みまで浮かべた余裕の態度で接していた。
同じようなやり取りを延々繰り返すことおよそ一時間。
外野席こと、二、三歩離れたベッドの上からただ黙って傍観していた高城岬と影見河夕は幾度目かの溜め息を漏らした。
「…あいつら、いつまであれを続けるつもりだ?」
「そんなの俺に聞かないでよ…」
ようやく生死の境から帰還した岬は、一度目の時に比べれば格段落ち着いた様子でベッドに上半身を起こしていた。
そのすぐ脇には河夕が座っていて、手を伸ばせば腕が取れる位置。その距離感が岬を安心させる理由でもあっただろう。
闇狩一族の総帥・影主。
それが河夕の本来の姿で、岬は闇狩一族の宿敵とされる是羅の魂を守る者だと知らされたのはほんの数日前のことだった。
それから今現在までに一言二言では到底説明できない事態が連続し、自分が犠牲にならなくても影主の命があれば是羅を封じることが出来ると知った岬は自分が助かったことを恨めしく思い、自分を心配し、助けるために手を尽くしてくれた人達に酷い言葉を投げつけてしまった。
謝ることもしないまま強制的に眠らされ、夢か現か判断のつかない世界に引き戻された岬は、もう一人の自分―速水との対話の中、河夕や雪子にどれほど残酷な思いを抱かせてしまったのかを初めて知ってひどく後悔し、きっと彼らを傷つけたと思うともう一度顔を見るのも怖かった。
にも関わらず、彼らは自分の帰りを待ってくれていた。
再び目覚めた世界で岬を迎えたのは限りない慈愛の想いを湛えた漆黒の瞳だった。
自分はここにいていいのだと実感したら涙が止まらず、頭を撫でる大きく暖かな手が嬉しかった。
そういう意味では目覚めた矢先に雪子と光の二人が何かしら騒いでいるのも有難い。静かになってしまうのは怖いし、真面目な顔を突き合せるのも心苦しいから。
けれど目覚めた早々にこうまで二人の―見ようによっては雪子一人のだが、言い争いを続けられると、河夕の台詞ではないが、一体いつまで続けるつもりなのかと思わずにいられない。
「…、ねえ河夕」
「ん?」
「光さんさ、雪子に何かしたの?」
「……さぁな」
面白くも何ともなさそうに答えて、河夕はまた溜め息をつく。
「なにがあったにせよ、光が関わったとあればろくなことじゃないのは確かだ」
「ふーん」
「気になるか?」
「え?」
「光が松橋に何をしたのか」
そう尋ねる河夕の口元に微かな笑みが浮かぶのを見て、岬はわずかに首を傾げる。
「気に…なるって言ったら、河夕は嬉しいの?」
「なんで俺が嬉しくなるんだ?」
「だって、なんか顔が笑ってるから」
天然かと疑いたくなる岬の発言に、河夕は声を立てて笑いながら岬の髪を掻き乱す。
「松橋も苦労するよ」
「はぁ?」
本当に判っていない岬は顔を顰めながら乱れた髪を手櫛で直す。
そうしている間も雪子の怒りのボルテージは上がる一方のようだが、河夕や岬が外野から見ている分には、本当に怒ってばかりいるわけではなさそうだ。おそらく光本人も解っていて、心外だと言いつつ、やっぱり愉しんでいるのだろう。
「さてと…、俺は少し寝るぞ」
「え?」
言って、スッと立ち上がる河夕の腕を、岬はほとんど無意識の内に掴んでいた。
「寝るって…行っちゃうの……?」
「…」
心細げな、縋りつくような目で見上げられては、河夕にその手を振り解くことは出来なかった。
「おまえな…、俺は二日間も寝てないんだぜ、誰かのせいで」
「うっ…」
「解ったら放せ」
「……」
「おい」
「…」
「岬」
しつこく言ってみても、岬の手が離れるどころか掴む力が弱まることもなく、いいかげんにしろよと怒ることが出来ない以上、河夕の負けは確実だった。
「あのなぁ…」
空いた片手で前髪を掻き上げながら呆れた顔をしてみせる河夕に、それでも岬の目は逸らされない。
今だけは雪子の怒声も耳に入ってこなかった。
「ったく…」
河夕は諦め切った声を漏らし、「しっしっ」と犬か猫にするように岬を手振りで遠ざけると、有無を言わさない態度で空いたスペースに体を滑り込ませる。
つまり、岬の隣で寝てやるというわけだ。
「なっ、河夕?!」
「黙って寝かせろ。俺は眠いんだ」
「眠いって…っ、そりゃ眠いだろうけど」
「だったら手を放せ」
「……」
手を放して他所で寝かせるか、それともここで寝させるかという、選択肢になり得ないはずの選択肢に、岬は結局前者を選んだ。
とにかく広い河夕の私室はベッドの大きさも広々としたキングサイズだから、細身の河夕と小柄な岬が二人で使っても大した苦にはならない。何よりここから河夕がいなくなることなど、岬は考えたくもなかったのだ。
「だからって…、河夕…」
言い終えるより早く、既に河夕の意識は眠りの底へと沈んでしまったようだった。
閉じられた瞼に長い睫が影を落とし、閉じられた口元にいつもの厳しさは見られない。
「の○太君じゃないんだからさ…」
呟く声に苦笑が混じり、目元が緩む。
河夕がここにいてくれる…、岬の心を安定させているのは彼の存在に他ならなかった。
「? おやおや」
ふと光の声が届き、続いて雪子の声にならない声が響く。
ドカドカとベッドまで歩み寄った雪子は、河夕の体を激しく揺り動かすも反応は何一つ返らない。
「ちょーーーーっと影見君?!」
「無駄です、雪子さん。河夕さんは一度寝てしまえば何があっても起きませんから」
「何よそれ! そんなんで敵と戦えるの?!」
「戦闘中に寝たりはしませんよ」
言って岬を振り返った光はニッコリ笑い、
「岬君が助かって安心したから、途端に眠くなられたんでしょうね」
「だからって岬ちゃんのベッドで寝る?!」
「あ、それは俺が手を放さなかったから……」
「なんで手を放さないのよ!」
「だって…河夕がいなくなるの嫌だったから……」
「〜〜〜〜っ」
「あはは。これは一本取られましたね、雪子さん」
「憎い! 憎いわ影見君!!」
雪子と光がすぐ傍でうるさくしていても河夕が起きる気配はまるでなく、よっぽど眠たかったのだろう彼に我儘を言ってしまったことを反省する一方、あまりに寝つきの良すぎる彼を可愛いとも思ってしまう岬だ。
「もぉっ、こうなったらせめてもの意地悪よ! 油性ペンか…ううん、化粧道具とかってすぐに見つかる?」
「化粧道具なら薄紅殿か紅葉殿が持ってらっしゃるでしょうが…まさか河夕さんに?」
「大丈夫っ、有葉ちゃんと似てるんだから絶対イケるわ」
「そんなの大丈夫って言わない…」
「岬ちゃんは口出し無用!」
「確かに悪くはならないでしょうが…、なんでしたら有葉様から熊のぬいぐるみでも借りてきましょうか?」
「それ抱っこさせて記念撮影するのね?」
「あのさ…」
「岬ちゃんは黙ってるの!」
ビシッと言い放たれて黙るしかなくなった岬は、河夕と、危ない意味で盛り上がってる二人を交互に見比べて嘆息する。
それから(あれ?)と首を傾げた。
「ちょ…雪子」
「なに、岬ちゃん」
「どうかしましたか?」
同じタイミング振り返る二人に、岬は吹き出しそうになるのをこらえて言葉をつなぐ。
「雪子さ、半径五メートル以内に入るなって、光さんに言ってなかったっけ?」
「え?」
「おや」
振り返った雪子と、そこまで来ていた光との距離は半径五メートルどころか鼻先五センチ。
ぴったり接近、しっかり接触。
「――――っ、近づいたら絶交って言ったでしょーーーーっ!!」
真っ赤になった雪子が声を張り上げた。
この調子では、まだ当分の間は静寂が訪れることなどないに違いない。この部屋の賑やかさはそうそう失われるものではなさそうだから。
「雪子も光さんも……」
岬は乾いた笑いを漏らして、そしてもう一度河夕の寝顔を見下ろした。
本当に、まったくもって、どうしてこれでなんの問題もなく寝ていられるのか。
ただ規則正しい寝息が聞こえている。
河夕がここにいる……、ただそれだけで岬の表情は和らぐのだった。