想い忘れえぬ者 終
光と雪子が揃って部屋を出、薄紅も後を追うように自室に引き上げて数分。
河夕は岬のベッドの上に、眠っている彼の体を踏まないよう注意しながら腰を下ろし、まだ問題ないとは言い切れない顔色の友人をただ静かに見下ろしていた。
額に張り付いた前髪を払ってやると、触れた肌からは数時間前に比べれば格別人間らしい温もりが得られる。
生きている……それを確認して、河夕は深く息を吐いた。
死なせずにすんだのだと今更ながらに安堵して、今までの苦労を物語るように疲れきった質の髪を撫でてやる。
「っとに…、とんでもないことをしてくれたよ、おまえは」
口元に浮かぶ笑みは力なかったけれど、その分、慈しむような眼差しには深い想いが伴う。
絶対に守る、助けてみせる。
その方法は見つかったのだから、後はそのための準備を進めるだけだ。
「時間はない…、是羅はきっとすぐにでもおまえを奪いにくる……、だからって負けたりしない。きっと助けてやるからな。……おまえも、速水も」
だから生きろと胸中で続ければ、不意に小さく掠れた声が彼を呼んだ。
「…かわゆ……」
「―、岬?」
髪を撫でる手をそのままに動きを止めて待つ河夕に、岬はゆっくりと目を開け、その瞳に彼の姿を映し出す。
「…河夕…、本物の……?」
「…俺としちゃ、おまえが本物かどうか聞きたいけどな」
多少強張った声音で軽口を叩くと、岬は辛そうに笑って一粒の涙を落とした。
「岬…?」
驚きつつもその涙を指で拭ってやりながら呼びかけると、途端に涙の数は増え、ただでさえ掠れている声はもう何を言っているのか聞き取れない。
けれど言いたいことは伝わってくる。
「ごめん……、ごめんなさい河夕…」
そう何度も何度も繰り返しているのだろうと解る。
「岬…」
再び頭を撫でてやりながら落ち着かせようとする河夕に、岬はゆっくりと、なるべくちゃんとした言葉になるよう自分の声に気遣いながら口を開く。
「速水が…、ずっと昔…速水が影主に…こうやって頭を撫でてもらったって……。それがすごく嬉しかったって……」
「…そうか…」
「だから俺に帰りなさいって…、俺のこと守ろうとしてくれてる人達に…ちゃんとありがとうとごめんなさいを言わなきゃ駄目だって…そう言って…」
そう言って現世に帰れるよう背を押してくれたのだと岬は言う。
速水は愛する男を失って哀しかったけれど、同時に岬を亡くして悲しむ河夕や雪子の気持ちを察して岬の魂を現世に送り戻したのだろう。
だから助かった。
何度も呼吸が止まり、心臓が止まりかけても、河夕や雪子の呼びかけに応えるように岬の体は生命反応を失わなかったのだ。
「なら俺達は速水に感謝しなきゃだな」
「…速水泣いてたんだ…、俺にごめんって何度も謝って…自分のせいで辛い思いさせてごめんて何度も謝って、ずっと謝ってて…」
「ん…」
「ずっと…大好きな人に会いたいって…影主に会うことだけが願いだったのに俺にこんな無茶をさせたって……そう言って、ごめんなさいって…ずっと泣くんだ…」
「ああ…、その点は速水に同情する。影見綺也は馬鹿だった。…あいつは是羅を封じることよりも、もっと速水を想ってやるべきだったんだ…」
応える河夕に、岬は縋るような目を向ける。
「なら河夕は……? 河夕は昔の影主と同じようなことしない? 俺を助けるために自分が死ぬ方法なんか絶対に選ばないって約束してくれる……?」
河夕の腕を掴んで、無理に体を起こし必死の面持ちで聞いてくる岬に、河夕はそっと微笑った後で口を切る。
岬の手を放させ、横になるよう促して。
「…俺が死ぬ方法を選んだりしたら、またおまえは暴れるんだろ? そうしたら俺は、またおまえにキスして黙らせなきゃならないのか?」
「あ……っ」
途端に顔を真っ赤にして黙る岬に、河夕は苦笑する。
「おまえに暴れられるのも、黙らせて松橋の説教食らうのも、もう御免だ」
「…じゃあ…」
布団で顔半分隠し、目だけを河夕に向ける岬。
その瞳に宿る期待と不安の色に河夕は頷く。
「俺は死なない」
「河夕…」
「俺も、おまえもだ。五百年前とは何もかもが違う。同じなのは是羅が変態野郎だってことくらいだろ? 今度こそ俺達は勝つ。俺もおまえも生きたままで」
「…本当に?」
まだ不安を取り除き切れない岬の口調に、河夕は力強く頷く。
「…綺也と同じ真似はしないよ。俺は、おまえが必要としてくれる限り傍にいる。一緒に生きようって、そう約束しただろ……?」
出逢いのきっかけとなった戦を終えて、二人は約束した。
人は一人では生きていけない。
だから必要と思える限りは一緒にいようと、確かに約束したのだ。
「それを俺に約束させたのは誰だ?」
「……俺…」
今度こそ頭から布団をかぶって…おそらく泣き出しただろう岬を、河夕は軽く小突いた。
「その約束破ってさっさと死に掛けるんだからたいしたもんだな」
「ごめんなさい…」
「その台詞、松橋や光にも言ってやれよ」
「うん…ごめん…本当にごめんなさい……」
二度、三度と謝る岬の頭をぽんぽんと軽く叩いて、もし腹が減ったなら何か持ってくるかと尋ねた河夕が腰を浮かしかけた時だ。
ダダダダダダダッ…という効果音を背中に背負っていそうな足音が聞こえてきたかと思った次の瞬間、重厚な扉がぶち壊されそうな勢いで開け放たれ、何事かと固まった河夕と岬のいる部屋の扉が、今度は爆破されたんじゃないかと疑いたくなる激しさで開いた。
そうして彼らの前に現れたのは、顔を真っ赤にして、肩を大きく上下に弾ませながら荒い呼吸を繰り返す松橋雪子。
「ま、松橋……?」
「雪子…」
「ちょぉ……っと影見君!! あれは何?! 影見君てば自分の部下にどういう躾してんのよ!!」
「はぁ?」
いったい何があったのかと思う河夕だが、雪子と一緒に部屋を出て行ったのが光だと思い出して嫌な予感を覚える。
「おまえ…光に何か…」
「いやあああっ! その名前は却下! 悪いけど聞きたくないわ! 冗談じゃないのよイキナリ!!」
「雪子…」
さっきまでの岬など比にならないくらい真っ赤な顔をして叫ぶ幼馴染に、上半身を起こした体勢で呆然としていた岬が名を呟くと、彼が目を覚ましたことにようやく気付いた雪子は嬉しいのか悲しいのか判断の付きかねる表情を浮かべて、そしてまた叫ぶ。
「岬ちゃぁーん!!」
「うわぁっ」
突進するような勢いで抱きついてくる幼馴染を受け止めるしか術がなかった岬は、訳がわからないまま泣き出す雪子にしがみつかれながら、河夕と困惑した顔を見合わせた。
そこに問題の青年がご来場。
「ああ、岬君が目を覚ましたんですね」
そう声がしたとたん、これまた再び叫んだ雪子が岬の背後に隠れる。
「何しにきたのよ! なんなの?!」
「河夕さんに任された以上は雪子さんが無事部屋に戻るのを確認しないといけませんから」
「だったらもういいでしょ!! さっさと出てったら?!」
まるで毛を逆立てた猫が威嚇しているような雪子の態度に、河夕と岬は思い思いの表情で光を見、その本人は実に楽しげに口を開く。
「いやだなぁ雪子さん。それじゃぁまるで僕のことが嫌いみたいじゃないですか」
「嫌いよ! 大嫌い!!」
真っ赤になって叫ぶ雪子、その姿の哀れなこと……。
大嫌いと言いながらも、上気した頬の色や潤んだ瞳が物語るのは嫌悪の感情などではなく、ただコントロールの利かない戸惑いと困惑。
それがなおさら岬を困らせ、河夕には同情を誘う。
「光…、おまえ松橋に何をした?」
「河夕さんにまで誤解されると胸が痛いですね」
「誤解ね…」
河夕は呆れた息を吐き、岬は背中に隠れて泣く幼馴染を必死に慰める。
『ありがとう』と『ごめんなさい』。
その二つを告げるためにここへ戻ってきた岬は、けれど当分目的を果たせそうになかった。
それでも――。
慕った人達が一緒にいる場所に戻って来れたことが嬉しかった。
時の中で変わらず生きていくことは出来なくても、一緒にいようと思える限りは永遠に一緒にいようと、そう交わした約束は今も生きている。
一度芽生えた想いは長い年月を超えた今も変わらずにここで息づいている。
――貴方は死んでは駄目……
――貴方が死んでしまったら、あの方を失った私と同じ悲しみを、今度は河夕様に与えてしまうだけ……、そんなことでは誰も救われないのだから……
だから生きなさいと速水は告げた。
きっと共に未来を歩める方法を今生の影主は探し出してくれるから、だから戻りなさいと、少女は少年の背を押した。
大丈夫。
きっと大丈夫。
だから生きなさいと、速水は彼らに願ったのだから――……。