想い忘れえぬ者 三
「そういうことだったんですか…」
長い話を終えて、最初にそう呟いたのは、岬が横たわるベッドの脇に座り、岬の容態を見守りながら聞いていた光だった。
「なんなのよそれ! それじゃあ岬ちゃんも速水も全然悪くないじゃない!! 悪いのは全部女の人を道具みたいにしか思ってない是羅とその男じゃないの!!」
雪子が怒りをぶちまけて、すぐ傍の薄紅に落ち着くよう諭される。
「女性が妊娠しているかどうかを是羅が確かめていればこのようなことにはならなかったわけですね…」
ベッドから少し離れたソファに座っていた白鳥と蒼月が静かな声音で言い合った。
一族の本部最上階、河夕の私室でもあるここは寝室の他にも部屋が四つあり、浴室や洗面所、簡素ではあるが台所まで完備された、日本風に言えば4LDK高級マンション風の造りになっている。
河夕が実際に使っているのは彼自身の寝室と浴室・洗面所くらいのもので他の部屋はほとんど締め切られているのだが、一族の不可思議な術が効いているおかげで埃に塗れたり黴臭くなる心配はほとんどなく、今現在彼らが集まっているのはその内の一室、河夕の寝室の隣に位置する十六帖ほどの客室だ。
部屋に入って左手奥に岬の眠るベッドが置かれ、中央に敷かれたワインレッドの絨毯の上には応接用のソファとガラス細工が見事なテーブルがバランス良く配置され、河夕達はそこに座って話し込んでいた。
それらの家具も、客を迎え入れるのに必要と思われるタンスや棚、窓枠、天井のシャンデリアなど、どれも華麗な細工が施されており一見して上等品だと判るが、壁にかけられた上品なデザインの絵画や本物の暖炉を縁取るレンガ、その上に置かれた彫刻品などまでが素人目にも高級感漂う品々ばかりで、河夕が一族の王だと聞かされ、納得していたはずの雪子も、これらの縁遠い内装には、岬のことで動揺し落ち着きをなくしていた当初でさえ純粋な驚きに言葉をなくしてしまった。
ワインレッドの絨毯の上には大小四つのソファとテーブル。河夕はそのうち上座にあたるシングルソファに座って話しを続けていた。
向かいの席には雪子が。
左右の三人掛けには、それぞれ有葉、紅葉、薄紅と、蒼月、白鳥、黒炎が座っている。
「とにかく、これが住職…、岬の父親から聞かされたすべてだ。速水は自分が是羅の魂を継いでいるとはまったく知らずに影主と愛し合った。それが女の死によって速水の存在が明るみに出てしまい、愛した女を殺せなかった影見綺也は自分の命と引き換えに是羅を封じたんだ」
「それが過去の真相か…」
蒼月がようやく納得したように呟いて軽く息を吐いた。
「綺也様は、それほどまでに愛した女性を守りたかったんですね」
「カッコイイよなぁ」
光の独白に黒炎が続けて、河夕を苦笑させた。
「カッコイイとかそういう問題じゃないだろ。影主は自分の行為がどれほど速水の負担になるか解かっていなかった。自分のせいで男が死んだと知ったとき速水は暴走した…、内にある是羅の魂が力を貸したんだろうな…、本部を半壊させ、時空の歪みに落ち、是羅の魂を守る女帝としての力が闇の卵達を従わせてこの時代の高城家に憑いたんだ」
「では住職に憑いているという闇は…」
「速水に従う低級の魔物だ。住職自身が狩人の力を継いでいたから精神を乗っ取られる事はなく、速水への忠誠心が高城家の人間に害を及ぼすこともなかった。魔物は自分より強い主君には絶対服従だからな」
言いながら、河夕の脳裏にはすべてを明かしてくれた岬の家族の面影が蘇る。
いつ是羅の奇襲を受けてもおかしくないから本部で保護させてほしい、岬のためにも一緒に来てほしいと告げた河夕に、自分は狩人の血を引く四城寺の住職として四城市を守る義務がある、そう答えてあの地に留まることを選んだ彼ら。
岬のことは河夕に任せる、影主を信頼していると告げて笑った住職。
それがどうだ。
帰ってみれば岬は血の海に倒れ、いまだ目を覚まさない。河夕は自分の無力を悔やむしかない。
「…、速水の魂が高城岬に憑いたのは、たまたまだったのでしょうか…」
河夕のそんな気持ちを知ってか、紅葉が相変わらずの無表情に静かな口調で語りだす。
「話を聞いていると、河夕様は速水が愛した五百年まえの影主と面影が似ていらっしゃるのでしょう? そればかりか、貴方はこうして高城岬と出逢い友人となり…、過去と似た状況が出来てしまった…」
「紅葉殿は、これが運命だったと思われるのですか?」
光の硬い声音に、紅葉はわずかに表情を崩した。
「この世に運命などあってはならない…、先代の口癖でしたわね」
「紅葉?」
「命を賭して果たす『使命』がなければ闇狩の存在意義はない。命を運に委ねる『運命』は決してあってはならない。闇に憑かれて生き残れるか死に絶えるか、そんな『運命』は決してあってはならない。おまえ達は命を賭して人を救う狩人になれ、それが闇狩の『使命』だ……、先代はいつもそう仰ってました」
先代が。
河夕の父親がいつも言っていた。
子である河夕や有葉はそれを常に聞かされてきたし、現在十君として河夕の元に集った彼らにはその言葉に救われた過去がある。
狩人としての過去に刻まれた、永遠に癒されることのない傷跡。
光は姉を、白鳥は母親を、蒼月は恋人を。紅葉も薄紅も黒炎も、それぞれに深い傷を抱えている。
愛しい人を闇に奪われて失った…、その共通する悲しみは先代の言葉によって救われてきた。
「…『おまえにしか救えない者がいる』…、それは貴方の口癖だ、河夕様」
蒼月が過去を懐かしむような眼差しで告げた。
あの日、あの時。
河夕のその言葉が狩人としての彼らを許した。
闇に憑かれた姉を、母を、恋人を…、彼らが彼ら自身の手で安らぎへと解き放つための覚悟を決めるにはその言葉がなければ無理だった。
命を賭して人を救える狩人になれ…、その言葉を守り、家族の命を救うために王の座を退いた先代。
自分にしか救えない者がいる…、その言葉を信じて家族を救うために王となった河夕。
その間には深い悲しみと罪深い血が流れ、尊い一つの命を失ってしまったけれど、今こそそれが間違いでなかったことを確信できるのではないのか…、紅葉はそう続けた。
「河夕様。貴方がどんな決断をなさろうとも、我々はそれに従います」
「我々が従う王は貴方一人。それをお忘れにならないでください」
「で、あんたは俺らのこともー少し信用した方がいいよな。速水のこととかさぁ、大事なことを話すのが遅すぎンだよ」
「まったくよ。そんな大事なこと黙ってて…」
黒炎の軽口に、ふと今まで黙っていた雪子の声が続く。
「岬ちゃんのこと考えて、こんな事態になっちゃって、話す機会がなかったのはわかるけど…もっと早く…、せめて岬ちゃん本人には一番最初に話してあげてほしかった…」
「松橋…」
「岬ちゃんが目を覚ましたら、絶対にちゃんと説明してあげてよね」
涙目で、怒った口調で言う雪子に、河夕は強くうなずく。
もう隠すことはない。
全部話して、そうしてきっと岬を助けてやると。
「それともう一つ、これはまず私に、今っ、約束して」
雪子は右の人差し指を河夕に突きつけ、真剣な表情で一気に告げる。
「影見君は絶対に死なないって。過去の王様が速水にしたようなこと、影見君は絶対岬ちゃんにしないって、今ここで私と約束して」
「雪子さん」
「雪子お姉ちゃん…」
「岬ちゃんのためだけじゃないわ。有葉ちゃんや、ここにいる皆のため。だって話聞いてたら紫紺さんとか嫌な人もいるみたいだけど、影見君ってば皆に慕われてるんだもの。影見君が五百年前の王様と同じことしたら、悲しむ人がたくさんいる。私だってそんなの勝ち逃げされるみたいで気分悪いじゃない」
「勝ち逃げっておまえ…」
「いいから約束して! 影見君は絶対に死なない。いいわね?!」
「…」
その場にいる全員の目が雪子を凝視していた。
光と有葉に限っては驚きだけじゃなかったが、河夕に臆することなくそう約束させようとする少女が蒼月や白鳥達には新鮮である反面、信じ難かった。
「影見君、約束だよ」
「松橋…」
まっすぐな目が河夕を捕らえ、彼は目を逸らすことが出来ない。
顔を背ければそれは裏切り。瞬時に容赦ない平手が飛んでくるだろう。
ただ一言、約束だと言えばいいのに。
解ったとうなずくだけで話は終わるのに、なぜだろう…、河夕は動けずにいた。
無音の緊迫した雰囲気…、焦れた雪子が再び口を開きかけたそのとき、光が微かな声を漏らす。
「え…」
「っ、緑君?」
河夕と同じように動けずにいた十君のうち、光に一番近かった白鳥が背後を振り返った。
「どうしたんだい、緑君」
その声が合図だったかのようにその場の雰囲気が崩れ、硬直していた面々の体も動きを再開する。
「どうした光」
河夕が立ち上がり、雪子も立ち上がって振り返る。
「いえ…あの……、岬君…?」
光の戸惑いを含んだ声音に、まさかと、河夕はベッドに駆け足で近づく。
「岬!」
枕元に手をついて声を張り上げると、微かに…、ほんの微かに睫が揺れる。
「岬!」
「岬ちゃん!」
雪子も近づいて来て声をかける。
しっかり上下する胸は自発呼吸の証拠。青白い少年の頬が、瞼が、覚醒前の微弱な動きを確かに見せていた。
「岬!!」
幾度目かの河夕の呼びかけ。
「岬ちゃん!!」
雪子の必死の呼びかけに、今、弱弱しい声が返ろうとしていた。
「……ぁ…」
「岬!」
「ぁ…ぁゆ…?」
「岬ちゃん!!」
「ぅき、こ…?」
言葉には聞こえない声。それでも岬の唇が音を奏でたことに違いはなかった。立ち上がっていた有葉がストンと再びソファに座った瞬間、安堵のためか声を上げて泣き出し、紅葉が幼い少女の頭を撫でる。
「岬、俺らが判るな?!」
「…?」
「岬っ」
「河夕さん」
詰め寄る河夕を光が柔らかく制し、落ち着いてくださいと目で訴える。
そうして次に雪子の肩を叩いて微笑んだ薄紅が、河夕の横に立って岬の額に手を当てた。
「頭は痛くない?」
聴いたことのない声に、岬はしばらく無反応だったが、そのうち小さくうなずいて薄紅の言葉に応えた。
「河夕様や雪子様のことも解るわね?」
岬はもう一度うなずいて、ようやく視界が開けて目にした初対面の少女に少なからず不安を覚える。
「ぁ…、あなたは……」
言葉に聞こえる声。
岬の声。
「岬ちゃん……っ」
雪子はそれきり膝から崩れ、膝立ちの体勢でベッドに額を押し当てた。
泣き顔を隠しても、小刻みに揺れる肩が彼女の気持ちを代弁する。
河夕も大きく息をつき、泣き笑いに近い表情で岬の顔を見下ろした。
「岬…、こいつは俺の仲間だ。だから心配しなくていい」
「河夕…」
「ここにいるのは全員俺の仲間でおまえの味方だ」
「みか…た…」
そっと首を傾けて河夕の背後に目をやると、輪郭がぼやけてはいるものの大きな男の人や外国人みたいな人、それに河夕の妹・有葉が声を上げて泣いているのが判った。
「…、有葉ちゃん……泣いてる…?」
「おまえがこんな馬鹿な真似するからだろ」
少なからず責めるような口調になってしまうが、それを責めることは誰もしない。河夕が、そして雪子がどんなに岬を心配していたかこの場にいる全員がわかっているからだ。
「どうして俺の話も聞かずにこんなことをしたんだ」
「…こんなこと…?」
河夕の言葉を復唱して、岬は自分の右手を持ち上げた。
手のひらを顔の前で広げ、じっと見つめているうち、ふと不思議な感情が溢れ出す。
「…なんで…」
呟く岬の眉間に縦皺が刻まれ、声音には怒りに似た音色が含まれる。
「なんで俺…、生きてるの……?」
「――岬?」
「俺…死んだのに……」
思いがけない台詞に河夕は絶句し、雪子は顔を上げ、虚ろで青白い幼馴染の顔を凝視する。
「俺…死んだんでしょう…、だって心臓…銀のナイフが……」
「岬ちゃん……っ!」
「岬っ、おまえ自分が何を言ってるか判ってるのか?!」
「俺…死んだんだ…、死ななきゃ駄目だ…」
「岬!!」
これが本当に本物の岬なのか、河夕は疑った。
彼の中にもう一人、悲しみの中で死ぬことさえ出来なかった少女がいることを知っている河夕は、彼女が外に出てきているのではないかと思った―いや、そう思いたかったのだ。
岬の口からこんな台詞を聞きたくない。
そんなふうに思わせなくない。
けれど今目の前に横たわり、自分は死んだんだと呟く岬は紛れもなく高城岬本人だ。
「なんで俺…、生きてるの……」
「――っ、岬!」
河夕はたまらずに叫んで乱暴に岬を起こす。
「いい加減にしろ!! おまえの勝手な行動のせいで俺や松橋がどんな思いしたか解ってるのか?!」
「河夕さ…」
「いったい誰がおまえに死んでくれと頼んだ!!」
「俺が死ななかったら河夕が死ぬんじゃないか!!」
「――?!」
「俺が死ねば是羅は死ぬ! それが出来なかったら河夕が自分のこと犠牲にして是羅を封印するんだろ?! 河夕のずっと昔のお祖父さんが速水にしたように!!」
「なっ…」
「岬くん、どこでそんなことを……」
光が驚愕の声を上げるも、それは本人の耳に届かない。
死んだはずの自分がまだここにいる。
是羅がまだ生きているという事実が岬には…、そして岬の内で、彼と心を一つにしつつある速水には恐ろしかった。
また影主を失ってしまう、その未来が怖かった。
「なんで助けたりしたんだよ……、あのまま死なせてくれればよかったんだ! それで是羅は滅びて万々歳じゃないか! それで何もかも終わったのにどうして……どうして俺は生きてる――」
「馬鹿!!」
雪子の怒声に肌と肌がぶつかりあう軽快な音が重なった。
彼女の平手が岬の頬を殴ったのだ。
「っ…」
「岬ちゃんの馬鹿! なんでそんなこと言うのよ!! 影見君の話、聞こうともしないでなんでそんな勝手なこと言うの?!」
ぶった雪子の手の方が痛い。
泣くのを必死にこらえようとする潤んだ瞳が切ない。
「なんで自分が死ねばよかったなんて…っ、影見君の気持ち解ってない岬ちゃんにそんなこと言う資格ない!!」
「松橋…」
「雪子さん…」
「岬ちゃんが死んで是羅が死んで…、そんなの誰が喜ぶのよ……っ!!」
雪子の悲痛な叫びが室内に響く。
蒼月や白鳥、黒炎はその場から動くことも出来ず、そして真っ青な顔をしてガタガタ震える有葉を紅葉がしっかりと抱きとめていた。
こんな話を有葉に見せるべきじゃない、聞かせるべきじゃない。
普段の河夕や光ならそれくらいの判断は出来たが今は無理だ。
自分の不注意のせいで岬を死なせてしまうところだった…、それをずっと後悔していた少女に岬の発言は地獄を見るも同然で、目を逸らすこともできないのが、残酷で。
「なんで判らないの……っ? なんでこんな……!」
「……じゃないか……」
不意に岬が口を開く。
「判ってないのは雪子や河夕の方じゃないか……!」
「岬……、岬!」
言い放ったかと思った直後、今まで昏睡状態を続けていたはずの少年は機敏な動作でベッドを飛び降り、呆気にとられた光の脇をすり抜けて壁際に立った。
同時にベッドを囲んでいた医療機器を倒し、無残な姿へと変えていく。
「岬動くな!」
「うるさい!!」
闇狩一族の術で傷をふさいだとは言え、あれからまだ一日も経っていないのだ。無理に動いて体を酷使したり、声を張り上げれば傷に障る。そう言ったところで今の岬は素直に聞き入れない。それがなおさら河夕の我慢の限界を振り切った。
「おまえ…っ、助けられていったい何が不満だ!! 俺に心配させて松橋泣かせて! 光と蒼月に徹夜で看病させて白鳥にクソジジイの相手させて! おまえを助けようとしてる俺ら全員相手にケンカ売ってンのか?!」
「助けてくれなんて頼んでない!」
「岬?!」
「俺は死にたかったんだ! それで是羅が死ぬ、それが判ったから死のうとしたのになんで助けたんだよ!! 人の気持ち解ってないのは河夕の方じゃないか!」
――解ってらっしゃらないのは、貴方の方ではありませんか……――
「!」
壁際に立って声を張り上げていた岬、その背後に、何の前触れもなく女の姿が重なった。
黒く長い髪に白磁の肌。
大きな目を哀しげに細め、美少女といって差し支えない顔立ちを悲しみに歪めた彼女、その名を、河夕だけが知っている。
「速水…」
「え?!」
河夕の口から紡がれた、今さっきまで聞いていた少女の名前に、突然の現象に驚きを隠せずにいた面々が息を呑む。
「あれが速水……?」
雪子と光、それに十君の彼らも初めて対面する、闇の女帝と信じられてきた少女。
河夕の話を聞いた後でもあるせいか、副総帥から聞く『闇の女帝』などそこには存在せず、ただどこまでも哀しく儚い少女がいるだけだ。
岬と同じ動作で、同じ唇の動きで、二人の声が重なって響く。
顔立ちは似ても似つかず、二人の間には少年と少女という明らかな違いがあるにもかかわらず同一に見えるのは、長い間、二つの魂が一つの体を共有してきたせいなのか。
――解ってらっしゃらないのは貴方のほう……、私が死ななくても是羅を倒す方法はあるからと優しい嘘で私を騙して…
――貴方を失ったときの私の気持ちなど考えても下さらなかった……!!
「河夕が死なずに済むなら…死なずに済むなら俺なんか死んで構わなかったのに……っ、五百年も経ったのに河夕は俺の気持ち解ってない……!」
「――! そんなもの解るわけないだろ! 何が五百年だ! 俺は生まれて二十年のガキだぞ!!」
「河夕は…っ」
――貴方は…っ
「しっかりしろ岬!」
二人の声を遮って河夕は怒鳴る。
「おまえは誰だ! 速水とは違うだろ!! おまえはおまえだ、違うか!!」
強く言い放ちながら、河夕は光に手を出した。
「薬をよこせ」と素早く言い放ち、戸惑う光から目的の錠剤を受け取る。
「けれど河夕さん…、今の岬君が素直に飲むはず…」
水もなくてどうするんですかと続ける光を完全に無視して、河夕は一歩一歩岬に近づいた。
「誰から何を…、その速水から何をどこまで聞いたのか知らないけどな、おまえが死んで是羅が死んだってちっとも有り難くない。俺はそんな方法を選ぶために王になったわけじゃないんだ!」
「けど…っ」
「黙れ!」
一つ怒鳴った河夕の手が岬の腕を捕らえる。
光から受け取った錠剤を、河夕は自分の口に放り込んだ。
「え、河夕さん…?」
光がまさかと目を見張ると同時。
「っ、かわ…」
「影見君?!」
雪子の上げた甲高い声も河夕をとめることは出来なかった。
近づいてくる河夕の美貌に驚き声を上げた岬。その開いた唇に、河夕は迷わず自分の唇を重ねた。
「―――っ?!」
岬に重なっていた速水の姿は驚いたように揺れ、一瞬で消え失せる。
口移しで光から受け取った錠剤を岬の咽に流した河夕は、これで吐き出すのは無理だと確信してから唇を放した。
「……」
「え…あ…」
背後のギャラリーも岬も絶句して動くことも出来ずにいる。
だがそれもほんの数秒で、唐突に岬の足の力が抜けて倒れこむと、光や薄紅が一拍遅れて動き出した。
「か…河夕…」
「もう少し眠れ。体がちゃんと回復したらケンカでも何でも付き合ってやるから」
「かわ…」
河夕…と、名を呟きながら意識を手放した岬は脱力して河夕の腕に倒れこむ。
岬に飲ませたのは即効性の睡眠薬で、眠れない怪我人を二十四時間眠らせて治りきっていない傷を完治させる効果がある。日常的な戦の中に生きる狩人達に必要不可欠な薬だ。
「河夕さん…、やることが唐突過ぎやしませんか?」
呆れた様子の光に、河夕は苦虫を噛み潰したような顔で相手を睨む。
「素直に薬飲ませられるならそうしたさ」
「確かに飲んでくれそうにはありませんでしたけど……」
光はチラと背後を振り返って、異質なオーラを発し始めた少女に苦笑いする。
「僕は知りませんよ」
「あ?」
眠った岬を光が抱き上げてベッドに運ぶため河夕から離れていくと、それと交代するように一人の少女が怪しい笑いを漏らしつつ河夕の腕を引いた。
「か〜げ〜み〜く〜ん…?」
「っ…」
不気味な声を発して自分を見上げる少女に、河夕は思わずあとずさる。
「松橋っ、今のは…!」
「問答無用!!」
――その後、雪子のお怒りは河夕を直撃し、蒼月や白鳥以下数名は滅多に見られない河夕の哀れな姿に失笑を禁じえなかった。
地球で―日本で二月が終わったこの日、彼らの知らぬところで最終決戦への歯車はゆっくりと、だが確実に回り始めたのだった……。