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闇狩  作者: 月原みなみ
3/64

闇狩の名を持つ者 二

「影見っ」

 無言。

「影見! 聞こえてるんだろ? 返事くらいしろよ!」

 更に無言。

 先刻から自分を呼び続ける岬に対し、彼の応えは変わらずにそれだった。

 朝八時から学校案内。

 確かに岬はそう彼と約束したつもりなのだが、河夕はその時間には来なかった。

 ではいつ来たのか。

 今、である。

「おまえ学校ってどういうところか分かってるか? 勉強する所だぞ? 決して弁当食べる為だけの場所じゃないんだぞ?」

 相変わらず彼の返答は皆無だった。

 彼はこの昼休みに登校し、たった一言のあいさつの他は何も言わず、おもむろにどこかの店で買ってきたパンと缶コーヒを取り出し、食事を取り始めたのだ。

 本日は七時間目まであるのだから午後から来ても充分出席として扱ってくれるだろう。しかも幸いなことに、一、二時間目は例の怪事件が再びこの校内で起こった為に自習だった。教師を誤魔化して彼を出席扱いにするのもさほど難しいことではなかっただろう。

 だがしかしだ。

 全日制の県立高校で、午後から「おぉ」などと愛想のないあいさつとともに教室に現れておもむろに食事を取り始めるとは、いったいどういう了見だ。

 普段は温和で決して怒ることのない岬であっても、さすがに怒鳴らずにはいられなかった。

 そしてその様子を眺めていた岬のクラスメート達。

「初めて見た、高城が怒鳴ってるとこ」

「私も初めて見る…、かな」

「何それ。ってことは高城君、生まれてから一度も怒ったことないの?」

「怒ってることはあるけど、それで誰かを責めるようなコト言う人じゃないもん、岬ちゃん」

「そっか…、でも雪子が見たことないんじゃ、本当に珍しいことなのね」

「私が知らないだけかもしれないけど?」

「家がお隣で幼稚園からずっと一緒のあんたが、高城君の事で知らないことなんかあるわけ?」

「それは優の思い込み。いくら幼馴染だからって四六時中一緒にいるわけじゃないんだから」

 雪子が唇の前で人差し指を立てながら、小声でそんなふうに答えた。昼休みだけあって教室内に彼ら以外の姿は見当たらない。昨日転入し、一番窓側の一番後ろの席。いわゆる特等席だと思われている席で怒鳴る岬と怒鳴られる河夕の姿を、雪子ら四人の男女が、彼らから一番遠い席、つまり一番廊下側の一番前の席で小さな輪を作りながら見物していた。幼馴染の雪子でさえ初めて見るという、岬が怒鳴る姿は、他の同級生にはかなり新鮮なものだった。

「でも変なの。いつもの岬ちゃんだったらアレぐらいで怒ったりしないのに」

「やっぱり学級委員長として級友の不良行為が許せないんじゃない?」

「遅刻なんか俺の日常茶飯事だけどさ、あいつに怒られたことなんか一度もないぜ?」

「見放されてるんでしょ」

「ひっでー」

 このクラスの遅刻魔と呼ばれる佐藤亮一は、優の台詞に傷ついて泣き真似をする。それに彼女は「やめてよ」と呆れた口調で言い放つ。

「けど、よくあの影見君に気後れなく怒鳴れるわよね。あそこまで綺麗な人を前にしたらさ、普通に話すのも難しいと思わない?」

「話しずらそうではあるけど結構いい人よ、影見君。まぁちょっと変なところもあるけど」

「変?」

「松橋もああいうのが好みなのか?」

 優と亮一、そしてもう一人、一緒にいる男子生徒・田沢勝の声が重なった。だが亮一と勝が同じ台詞を言ったことや、その文字数などからも、亮一達が口にした台詞の方が雪子にはよく聞き取れたらしい。

「好み…、ではないよ。岬ちゃんは気に入ったみたいだけどね。かなり興味あるみたいだし」

「興味?」

「高城ってそっちの気ありなの?」

「そういう意味じゃなくて」

 どうやら三人とも雪子の言葉を全く違った意味で取ったらしい。詳しく説明しなおそうと雪子が口を開きかけた時、すぐ側の扉に、河夕と同じくらい長身の影が現れ、雪子を呼んだ。

「松橋さん」

「え? あ、楠君」

「やった! 俺の名前覚えてくれたんだ?」

 楠啓太は満面の笑みで、彼女が自分の名前を呼んでくれたことに対しての喜びを示した。

 隣のクラスの岬の友人。そして雪子に想いを寄せる少年・楠啓太。

「そりゃあ岬ちゃんのお友達だもん。覚えるわよ。今日も岬ちゃんに用事?」

「今日も、って何かイヤだなぁ…いや、その通りなんだけどさ」

 苦笑しながら楠は応える。そうして教室内を見渡して岬の姿を確認しながら、「でも」と付け加えた。

「なんか取り込み中みたいだし、出直した方がよさそうだな」

「気にすることないわよ。いくら岬ちゃんが怒鳴ってるのが珍しいって言っても、そろそろ飽きてきたし」

「うん。もう少し見ていたい気もするけど、高城の喉のこととか考えたら、そろそろ止めた方が親切だろうな」

「飽きたとか見ていたいとか…、一体なんのことだよ」

「実はね…」

 岬を呼びにその場を離れた雪子の代わりに優が答える。

「つまり、あの高城君に近づいていけるなんて、それこそ長年の付き合いがなければ無理よねって話」

「高城が怒るのってそんなに珍しいことなんだ?」

「あ? あぁそっか、楠もこないだ転入してきたばっかりだから」

「そうね。雪子でも初めて見るらしいから、かなり珍しいことなんじゃない?」

「それって生まれてから一度も怒ったことないってのと同意語…?」

「だと思うわよねぇっ!」

 優、亮一、勝の三人が爆笑する。九月からやってきた転入生でさえそう思うほど、雪子と岬の二人は仲のいい幼馴染だった。

「高城って平和なやつだよなぁ」

 亮一が笑いながら言うと、「あんただって似たようなモンでしょうが」と優に軽く小突かれる。

 このように平和な奴だの、高校生男子とは思えない子供っぽさなどと言われながらも、実は岬はクラスの人気者だった。人望も厚く、学級代表を決める時など一番最初に名前が挙がるほどに。

 その場に残った四人は、そんな岬と雪子の話に花を咲かせていた。

 そこに噂の二人が戻ってくる。同時に、岬のおでこが赤くなっていることに気付いた優と亮一が驚きの声を上げた。

「どうしたんだよ、おでこ真っ赤にして」

「もしかして影見君に殴られたの?」

 優が心配そうに聞いてくるのに、岬はムスッとしたまま首を横に振った。

「違う。雪子」

 岬の返答に四人は揃って聞き返した。

「だからっ、雪子が影見の鞄で俺のおでこ叩いたんだよ!」

「岬ちゃんが私にまで怒るから目を覚ましてあげたんでしょ?!」

 岬は相手を転入生から幼馴染に変えて睨み合う。昨日から不機嫌である彼が約束――あくまでも岬は約束したと思っているわけで、それを破られ、河夕本人の顔を見た途端に爆発し、その怒りがおさまらぬうちに呼ばれたために、不完全燃焼だった怒りが雪子にまで引きずられた、ということだろうか。

「とにかく! 楠君はわざわざ岬ちゃんに会うために隣のクラスからきてくれたの! ちゃんと話を聞いてあげなさいよ!」

「…それもそうだよな。…ごめん、楠。なに?」

「あ…、あはは…」

 彼の態度の変わりように楠は苦笑するしかなく、優や亮一、勝も空笑いするしかない。

 場所を変えようと廊下に出る二人。

「まったく世話が焼けるんだから!」と、雪子が母親のような口調で言い放つ。そんな彼女に近づく絶世の美少年。

「今の誰」

「えっ、わああっ」

 不意に掛けられた言葉と、その長身の影に雪子は飛退く。

「…そんな驚かなくてもいいだろう」

「だって、いきなりそんなでかいのに後ろに立たれたら…」

 二人の身長差は約三十センチメートル。顔を見上げねば誰かも解らないのだ。そんな影に、突然自分の背後に立たれては、驚くなという方が無理な話ではないか。

「で。今の誰?」

「隣のクラスの楠君よ、楠啓太君。今学期に入ってきたばかりの男の子でね、なんか岬ちゃんと意気投合しちゃって、今じゃすっかりお友達」

「へー…」

 あまり関心のない声音。

「そういえば楠君も結構整った顔してるよね…、影見君と言い楠君といい、岬ちゃんてば美形の転入生に縁でもあるのかしら」

「…それはどうも」

 これも無関心な返答だった。

 数分後、岬は上機嫌な様子で帰ってくる。楠との話の中に岬を喜ばせるようなものがあったのだろうか。同級生達の前に戻ってきた岬は、紛れもなく彼らがよく知る高城岬だった。

 だが問題の影見河夕が幼馴染のすぐ背後にいると気付いて、微かに頬が強張る。

「影見っ、今日の放課後は絶対に学校案内するからな。さっさと帰ったりするなよ!」

「…幼馴染一人で帰すのは危険だぞ。俺のことはいいからさっさと帰れ」

「じゃあ雪子と三人でどうだ?!」

 即座に言い返した岬に、河夕は一瞬言葉を詰まらせた様子だったが、すぐに不敵な笑みを覗かせる。

「好きにしろよ。三時までなら学校にいてやるから」

「三時っていったらまだ授業中だバカ!」

 どこに行くのかも告げずに教室を出て行こうとする河夕の背に、そう声を張り上げる。

「不審な奴には充分注意しろよ、跡取り」

「跡取りじゃないっ、高城岬! それに…っ」

 一呼吸置いてから、岬は再び言い放つ。一番不審なのは影見河夕、おまえだと。

 結局、河夕が再び岬の前に姿を見せたのは授業がすべて終了した後、放課後、教室内から日中の賑わいが綺麗さっぱり失せた頃で。

 つまり岬は、その時になって再度、怒りを爆発させなければならなくなってしまうのだった…。



 三人の生徒が一階の廊下を歩いていた。

 もはや言わずと知れた、高城岬、松橋雪子、そして影見河夕の三人である。

「おまえってこういう奴だったんだなっ。まぁいいよ! 俺は終わったことをいつまでもグダグタ言うのは好きじゃないし、雪子が持ってる本の中じゃ謎の美少年は大概そういう奴だよな! けどさ!」

「あぁ。もう解ったって」

「わかってないだろ?!」

 午後六時十二分。彼らが見ることのできる時計はどれもこの前後を示していた。既に外は薄暗く気温も日中に比べればかなり寒くなっている。そんな校内を三人で歩きながら、雪子は幾度目かの溜息をついた。

 その隣で怒りを沸々と煮立たせている岬と、その対象となっている影見河夕。彼は観念したのか黙って岬の文句を聞き続けていた。

「だいたいなっ、どうして授業に出ないんだよ! 今日なんか完全に欠席扱いされたんだぞ?!高杉先生って数学の女の先生だけどさっ、転入生の影見君は早速お休みかって聞かれて! 俺は心底焦ったんだからなっ」

「だから俺が悪かったって。おまえ、終わったことグダグダ言い続けるの趣味じゃないんだろ? 今のおまえ見てたら、それって全然信憑性がないぜ」

「それは言えてる」

「雪子は黙ってて」

 話に入ってこようとした雪子を、岬の強い言葉が拒む。

 岬の怒りはどうしたって治まらない、その理由は雪子にだって理解できないこともない。なにしろ影見河夕がようやくのことで二人の前に姿を見せた際の第一声が心底呆れた口調での「まだいたのか?」だったのだ。

 今日こそは学校案内と、あれほど強く言っておいたのにと、岬が怒るのは無理もない。

 だがしかし、河夕にしてみればそうまでして教師の言ったことを忠実に守ろうとする岬の考え方の方が理解出来なかった。

 ましてや自分のような者のために。

「…物好きな奴」

「なに?」

「いや、なんでもない」

 納得のいかない様子で、けれどそれ以上は彼も何も言わなかった。

 一階の一番端に辿り着き、岬はようやく念願の学校案内を実現する。

 だがここで、影見河夕は改めて信じ難い現実に頭痛を覚えずにはいられなかった。

「ここが視聴覚室」

「ふーん」

「で、ここが音楽準備室」

「へー」――などなど…。学校案内などしょせん、こんな会話が繰り返されるだけである。

(こんなことのためだけに今まで俺に付きまとっていたのか?!)

 半分呆れ、半分感心しながら、河夕は義務のように短い相槌を打っていく。まったくもってこれだけのために一日中怒っていたのだとしたら、よっぽど暇な奴らしいと思う。

(それともバカ正直なだけか…?)

 河夕がそんなことを考えていた時だ。

 不意に岬が、驚きの声を上げた。同時に雪子からも短い悲鳴。ただ一人、河夕だけが別段焦る様子もなく「跡取り?」と岬に呼びかける。

 岬のことだ、どうせバナナの皮にでも滑ったのだろうと本気で思っていた。

「岬ちゃん?」

 落ち着いている河夕の側にいて、雪子も冷静さを取り戻したのか、いつもの調子で幼馴染に呼びかける。

 だが返る声はない。

「岬ちゃん!」

 いつの間にか側から消えてしまった岬。

 人のいない校舎に必要以上の声が響く。それでも岬からの反応は皆無。これにはさすがの河夕も表情を険しくした。

「おい、跡取り」

「岬ちゃん!」

 二つの声。

 これだけ響いているのだ。どこにいたって聞こえてもいいはず。しかし応えはない。物音一つ聞こえない。

「岬ちゃん!」

「松橋。おまえ、あいつのすぐ隣にいて何も気付かなかったのか?」

「なんか……って…」

 雪子が何かを思い出そうと額に手を当てる。

 焦っているからか、それとも怖いのか、彼女の手は小刻みに震えていた。

(?)

 そんな彼女を見ていて、河夕の脳裏を過ぎるふとした予感。

 絶対的な、けれど今この状況においてはどうでもいいような直感。

「松橋、おまえもしかして…」

 河夕がそれを言葉にしようか迷い、一息入れたそのとき。

「松橋さん?」

「!」

 瞬間的に二人は側の階段に駆け寄り、その下を覗き込む。そうして視界に飛び込んできた光景に雪子は「あ!」と声を上げた。

「岬ちゃん…っ、そこにいるの楠君よね?」

 そう、雪子を呼んだ声の主は楠啓太。

「どうかした? すごい声出してるから何事かと思って来たら、高城はこんな所で寝てるしさ」

「えー? じゃあ岬ちゃんてば階段を落ちたの?」

 言いながら雪子は足早に階段を下って岬の側に膝をつく。

 だが河夕は動かなかった。不審な点が多すぎる。

(落ちた? そんなわけがあるか)

 ならばいつ落ちたというのか。そんな音などしなかったし、自分達は何事もなく階段を上りきって今まで歩いていた廊下を進んでいたではないか。

(楠啓太…)

 鋭い目付きで階下の少年を見据える。

 そのうち、雪子の安心しきった声が河夕を呼ぶ。

「影見君、岬ちゃん大丈夫みたいよ? 息してるし」

「影見君て?」

 河夕が返事をする前に、楠が雪子に尋ねた。

「昼に岬ちゃんとケンカしてた人。昨日、転入してきたのよ。ね、影見くんてば!」

「…あぁ。いま行く」

 固い声音で返して、河夕は岬と雪子に近づいた。

 楠にだけは警戒心を露にして。

「あぁ、あんたが昨日の転入生か。影見って言うんだ?」

「だったらどうした」

「えっ…」

「影見君、そんな言い方ないでしょ」

 あからさまな敵意を感じさせる物言いに雪子は眉を顰めたが、楠は「いや、いいんだ」と苦笑交じりに返して、雪子にだけ軽い言葉を残してその場を去っていく。

「じゃね、松橋さん」

 小さく手を振って背を向けた楠を、河夕は何を考えてか呼び止めた。

「こいつに何もしていないだろうな」

「――? 俺が高城を襲うとでも?」

 からかうような口調で聞き返されて、河夕は警戒心を強めるだけで何も言いはしなかった。

 楠は再び苦笑めいた笑みを浮かべて、今度こそその場を立ち去ってしまう。

「なんで楠君が岬ちゃんを襲うのよ」

「…なんでもない」

 河夕はしばらく楠の去った先を見据えた後、岬の状態を探った。

 呼吸は正常、身体のどこにも怪我や傷は見当たらず、ただ眠っているだけのように見受けられた。

「どうしようか、岬ちゃん」

「連れて帰るしかねーだろ。ただでさえ物騒なこの頃だ。一人だけ保健室に残していくわけにもいかねーし。だからってこいつが目を覚ますまで付き合っている気はないぜ」

 それでなくとも夜の学校なんて何が起きるか解らないと、冗談交じりに続ける河夕だったが、雪子にしてみればそれは冗談で済む話ではなかった。

「きっ、教室に行って鞄とコート取って来る…っから、一緒に来て!」

「こいつどうするんだ?」

「当然、影見君が背負っていくの。男でしょう? それに岬ちゃん、そんじょそこらの女の子より軽いから」

「軽いったって…」

 強気の雪子に言い切られて仕方なく岬を抱え上げた河夕は、思いがけない軽さに「楽な奴」と笑った。

「ねっ。軽いでしょう? 今は岬ちゃんの方がいくらか重いけど、昔は私が岬ちゃんをおんぶしてたんだから」

「かわいい幼少時代だったんだな」

「うんっ、岬ちゃんはどこの誰より可愛かった!」

 可愛い思い出のある幼少時代だったんだなと河夕は言ったつもりだったのだが、雪子には幼少時代の岬は可愛かったのだなと解釈されてしまったらしい。

「でもね、岬ちゃんは今だって可愛いのよ! いちいち素直に反応するし、素直で真っ直ぐで単純だし、どんな人にも真っ向から向かっていくしね」

 この辺は河夕にも頷けるものがある。

「人を騙すことなんて考えもしないんじゃないかなぁ。そう、それに精神的にすごく強いと思うの。あんまり解んないかもしれないけど…」

「おまけに笑顔が子供の頃からまったく変わっていないって? ふーん、ミス西海に選ばれるような高嶺の花は、子供っぽくて無邪気な幼馴染しか目に入ってなかったのか」

「!」

 雪子の顔がみるみるうちに赤く染まる。まさに図星だったのである。

「ククッ。やっぱりな」

「かっ、影見くんてそういう人だったんだぁ?」

 今にも泣き出しそうな声音。

 まったくこの転入生は二重人格どころじゃないと雪子は思う。

「こいつ人の感情読むの得意なんだろ? なんでバレないんだよ」

「だって、それをずっと利用してきたんだもの!」

「利用?」

 雪子の穏やかではない発言に、河夕は思わず聞き返す。

「だからね。好きな人の前に出ると上がっちゃって喋れなくなる、それが私だっていうふうに先に思い込ませちゃうの。そうすれば相手は素直な岬ちゃん、絶対にバレる心配ないでしょ?」

 頭がいいと褒めるべきか、それとも怖い女だと呆れるべきか。

 河夕は迷いつつも胸中で苦笑してしまう。

(変な二人だな…)

 何を考えているのか決して悟らせない無表情の河夕を見上げながら、雪子はわずかに強張った声を押し出す。

「岬ちゃんには絶対に内緒よ!」

「そこまで性悪じゃないさ」

 そう返して、河夕は笑った。

 その自然な笑みの、目には見えない輝きに、雪子はしばし絶句してしまうのだった。


 その様子を、屋上から独り眺める男の影。

「…『闇』現る時、『闇狩』現る、か……」

 男は笑い、そして消えた―――――。


 ◇◆◇


「どうぞ」

 目が覚めて、最初に耳を打ったのは母の声。

 それにわずかに頭を下げて応える河夕の姿がぼんやりとした視界に映る。

「…影見…?」

 母親が部屋から出て行くのを気配で感じ取りながら、岬は掠れた声を押し出した。それと同時に額に触れる冷たい指先。

「気付いたのか、跡取り」

「…本当に本物の影見…?」

「こんな美形がおまえの周りに二人もいるか?」

 自分で言うなと思うようなことをサラリと言う。こんな嫌な奴は本人以外いないだろうと、岬は妙なところで確信する。

「…どうして……?」

「おまえが階段から落ちて気ィ失ったりするから、俺と松橋がここまで送ってやったんだよ」

「落ちた? 階段から?」

 そんなことがあっただろうか。

 それにしては身体のどこにもそれらしい痛みがない。それを確認しようと身体を動かす岬に、河夕は単調に告げた。

「どこも痛くないだろ。階段から落ちてなんかないんだからな」

 落ちたと言ったのは彼なのに、どこか疑問の残る台詞。どういう意味だと聞き返そうとした岬を遮り、河夕は続けた。

「驚いて声を上げた覚えは?」

「驚いた? 俺が?」

「それも覚えてないのか?」

 河夕が真剣な表情で言うから、彼の問いかけにちゃんと応えたいと思うけれど、岬にはどう答えることが、今現在、河夕の抱えている疑問を解決に導くのかが解らない。

 ただ正直に答えるしかなかった。

「…なんか、頭の中に靄がかかってるみたいで、わかんないよ…」

「そうか。ならいいんだ」

 河夕は岬を責めるでもなく、むしろ労わるような言葉を返す。

「あぁ。それと松橋は「今は早く帰りたい」とか言って帰ったからな」

「?」

 岬は自分が意識を失っていた間に、河夕と雪子の間でどんな会話がされていたのかを知らない。だからこの河夕の言葉も意味不明であり、首を傾げるのも無理はない。

 大きくてバンビのような瞳が疑問と共に河夕を映す。

 とてもではないが高校生の男のする表情じゃないと、河夕は思わず笑ってしまった。

「なっ、なに?」

「いや…」

 まったくもって可愛いという形容詞がぴったりとあてはまる少年だ。

(素直で優しくて、それでいて強い、か……)

 先刻の雪子の言葉を、河夕は胸中で繰り返した。

(そしてこの四城寺の血族)

 笑いを止め、静かになってしまった河夕に呼びかけようとして、岬は結局、口を噤んだ。

 うつむきがちに、何かを考え込んでいる様子の影見河夕。

(影見って不思議な奴…)

 考え込んでいる姿さえ、他人の目を引き付けずにはいられない。そこに河夕がいるだけで、いつもと何ら変わりない自分の部屋が別空間のように思えてしまう。

 整った容貌に光る黒曜石の瞳。それが不意に岬を真っ直ぐに捕らえた。

「っ、あ…」

「?」

 突然の視線の重なりに動揺してしまった岬に、河夕は怪訝な顔をして見せたが、それを追求するでもなく、すぐに表情を戻し、口を切る。

「おまえ…、ある一族の話を住職から聞いたことがあるか?」

 住職、つまり岬の父親から聞いた話と言われて、思い浮かぶのはただ一つ。

「人の心より生まれる『闇』の魔物を狩る一族の話なんだが…」

「…それって、『闇狩』……?」

 確認するように問いかける岬に、河夕の目が細まる。

「聞いたことがあるんだな?」

「うん。…この頃、変な事件が多くて…それは人の仕業じゃなくて『闇』って呼ばれる魔物の仕業で…、闇の魔物を狩れるのは『闇狩』の一族だけって話だろ…?」

 数日前に父親から聞いた話をそのまま口にすると、河夕は静かに頷く。

 そこまで聞いているなら話は早い。

 理解させるのも、きっと難しくはないはず。

「跡取り。これからする話は作り話なんかじゃない。本当のことだ。だから疑うな」

「え…」

「信じるんだ。いいな…?」

 念を押すように繰り返す河夕の真剣な眼差しに、岬は数秒の沈黙を経て頷く。

「…、わかった」

 そう返した岬に、河夕の表情が和んだ。

 相手がこの少年でよかったと無意識に胸中で呟かれた言葉を、河夕は気付くと同時に切り捨てる。

 こんな思いは必要ない。

 こんな感情は、知らなくていい。

 自覚もなく生まれた言葉を脳裏から追い払って、河夕は解りきっている事実だけを岬に話して聞かせていった―――。



 河夕が全てを話し終えると、時刻は既に八時を回っていた。

 河夕は一時間以上をかけて岬に真実を伝えたのだ。

 自分こそが『闇狩』と呼ばれる狩人だという、真実を―――。

「この日本にもあと十七、八人は常に滞在している」

 闇の魔物は世界中に存在する。

 それこそ“人”がいれば宇宙の果てにだって闇の魔物はその勢力を広げていく。

“心”に悪が存在する限り、そのすべてが絶たれない限り、闇の魔物は永久に人を糧に生き続ける。

 それを阻止し、人の暮らす土地を守ること、それが闇狩の名を持つ狩人達の使命。

「人の心の悪意が消えることは絶対にありえない。だから俺達“闇狩”は生きている限り…、この力が失われない限りは永遠に闇の魔物共と戦い続ける」

 掌を不可思議な力によって輝かせながら言う河夕に、岬は躊躇いながら言葉を紡ぐ。

「…ずっと……、生きている限りはずっと…?」

「それが闇狩の名を持つ者達の生きる意義だ」

 岬の表情が沈んでいく。

 それが表すのは、深い悲しみにも似た感情。

「…ずっと独りで戦い続けるのか…? ずっと独りで、辛くても一人じゃ大変な時でも、…それでもずっとずっと独りで戦い続ける…?」

「独りだ」

 単調な物言いで言い放たれる返答。

「側に人を置くな、他人に心を許すな――それが一族の掟であり始祖の教え。なにより俺自身が一人で動く方が楽なんだ」

 河夕の言葉は、一種の刃となって岬の心に傷をつける。

「…独りで…、これからも変わらずに…?」

「ああ」

 今までも、これからも、それは変わらない。

 変わってはならないのだ、絶対に。

「とにかく今の話で俺の側にいるのがどれだけ危険か判っただろ。もう二度と俺には近づくな。松橋にも言い聞かせておけ」

「影見…っ!」

 近づくなと言い残して去ろうとする河夕を、岬は様々な思いを抱えて呼び止めていた。

 だが返されたのは何にも関心を示さない、転入当時の無表情。

 感情を悟らせない氷の瞳。

「俺は闇を狩る。この町もすぐに以前の四城市に戻す。だからもう心配しなくていい」

「そしてまた独りでどっかに行くのか?!」

「俺は“闇狩”だ」

 それが最後の会話。

 これ以上、岬の言葉を聞くことすら拒むように部屋を出て行ってしまった河夕を、岬は追う事も出来なかった。

 たったの二日間で他人との間に何かが成り立つとは思わない。

 …それとも、既に何かが成り立とうとしていたのだろうか。

(俺にここまで話させるほどの何かが…)

 河夕の胸中に呟かれる言葉は、どこから生まれた言葉だろう。

 それを自分でも判断できずに、前回と同じように思考が深く探り出す前に切り捨てた。

(友達ごっこは終わりだ、跡取り)

 岬の母親に見送られて家屋を出た河夕。

 その一部始終を、自室の布団の中、聞いているしかなかった岬の表情には言葉では表現しきれない感情が溢れていた。

 布団の中の足を引き寄せ、膝を抱えた腕の中に顔を埋める。

 どこか不思議な雰囲気を持つ転入生。

 初日の放課後、屋上で交わした二言三言の言葉から何かを得たわけじゃない。

 けれど友人になれるかもしれない…、直感にも似た確信。

 そう思ったのは確かに自分の心だったのに、それはほんの一時間の話で粉砕された。

(俺の思い込みだったんだ…)

 岬は唇を噛み締めた。

 悔しくて。――そして哀しくて。

(何かが違うと思ったんだ…)

 今まで一緒に過ごしてきた級友や、友人達とは何かが違う、そう思ったのに。

(もう知らない…)

 最悪の気分。

 そんな岬の心情を表すかのように、低く暗い空から涙のような雨が降り出した……。




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