時空に巡りし者 十
「遅かったな、影主」
是羅が嬉しそうに口を開く。
ようやく会えた宿敵に、勝ち誇った笑いを交えて。
「速水、その娘はもういい。私の傍においで」
命じられるままに動くしか出来ない岬は、今まで苦しめていた雪子を放し、頼りない足取りで是羅の傍に寄っていく。
一刻も早く新鮮な空気を取り入れようとして咳き込む雪子になど、まったく関心を示さずにだ。
「光」
「っ、はい」
呼ばれるなり、それが雪子の元へ行けという意味だと悟った光は彼女に駆け寄った。
「雪子さん、大丈夫ですか?」
「だっ大丈夫……それより岬ちゃ……が……っ」
「……解っています」
彼女の命に危険は無いと判断した光は河夕に向かって一度だけ頷き、ついで岬に視線を転じた。是羅に背後から抱きとめられても岬の表情に嫌悪の色は無い。恐らく既に力を吹き込まれたりしているのだろうと悟る。
(やはり岬君が……)
だからここに来る前にあんなことを言ったのだろう。
(岬君が、速水だから…)
闇の魔物一族の女帝・速水が、高城岬。
その事実を前に、闇狩一族の王が取るべき手段はただ一つ。
あの日、王位継承の儀が行われた時と同様に、自分の手で岬を殺さなければならないことを河夕は知ってしまった。
(河夕さん…)
だが、光は彼を信じると決めた。
河夕の中の決意を信じて、口を閉ざす。
「ふふふ…」
そんな狩人の前で、是羅は楽しげに笑った。
己の勝利を確信したような誇らしげな笑いだった。
「クククッ……ショックか、影主よ。自分の愛した女が我に奪われて」
「そんな事……っ、あんた眼科行ってちゃんと調べてもらったら!? 岬ちゃんのどこが女に見えるのよ!!」
「気丈な娘だな。好きな男に殺されそうになったというのに」
「!」
雪子の気持ちさえ見抜いて、彼女の傷口を開く是羅に、光の怒気は深くなるばかり。
ただでさえ、岬をこんな目に遭わせ、河夕を傷つけたことで怒りは浸透しているというのに、この相手は時を追うごとに狩人の憎悪を増幅させた。
だからといって、この敵の消滅を望んでも手を下すことは出来ない。
是羅を滅ぼすということは、彼の魂を守る速水を――岬を、殺さなければならないからだ。
「私が憎いならば岬を殺せばいいのだよ、影主。さすれば私は今すぐにでも消滅する」
出来ないと知っていながら、嘲笑するように告げる相手を、彼らはキッと睨みつけた。
だがそんな反抗されも今の是羅には単なる一興でしかない。
「素晴らしい結末だろう、影主。おまえ達に今生の速水は殺せない、つまりは戦わずして我らの勝利は決まったも同然ではないか!」
高らかに笑う男に、彼らは返せる言葉を持たなかった。
この憎い相手が言うことは間違っていないのだ。
他の相手ならいざ知らず、岬は絶対に殺せない。
河夕は――影主は、決して岬を殺さない。
「我が取り込んだ岡山一太が望むゆえ手を出したが、まったく人の世の巡り会わせとは愉快なもの。代々想う相手を持たぬ狩人に、このような手段が使えるとは思わなんだぞ!」
「……っ」
光は何も言わないつもりだった。
この場の発言権は河夕にしかないと思っていた。
けれど是羅のこの言葉には、どうしても自分を抑えられなかった。
河夕を、父親の死から救ってくれた岬を。
雪子が恋した少年を、そんな理由で闇の女帝に仕立てたことが許せなかった。
そして雪子も、どういう経緯で岬が是羅の魂の保持者になったかを知らずとも、岬を殺すことが自分を滅ぼすことにつながるのだと聞けば恐怖が増す。
河夕と光が、是羅の言葉を否定しないから嫌な感情ばかりが心に溢れる。
「さぞ悔しかろう? 大切に慈しんだ存在が速水となったのだ。この私の命を守る盾となったのだ! ククク、影主となりて我を滅ぼす為に生きてきたに、それは決して叶わぬ夢となったのだ。残念であったな、せっかく父親まで殺して王位を継いだと言うのに」
「!!」
「え…」
是羅の言葉を疑う雪子の声は、その時の河夕には届いていなかった。
眉を寄せ、唇を噛み締める。
決して是羅に刃を向けるような仕草は見せず、黙って相手の言葉を聞いていた。
そんな河夕が、光には堪らなかった。
そのうえ、ここまで河夕を追い詰めておきながら、是羅はそれでも足りないと言いたげに岬の華奢な体を背後から抱きすくめた。
「影主が我らとの決戦を放棄した今、この地球が我の理想郷となるのも時間の問題か。だがそれが実現した折にも貴様だけは私が飼ってやろう。そうして自分が守ろうとしたものが破壊されていく光景をただ見ているがいい……ククク、そうさ、岬が我に抱かれる様もな!」
「かっ、影見君!!」
聞くに耐えないと声を張り上げたのは、…雪子。
「その変態にっ、それ以上、勝手なこと言わせないで!! そんな変態が岬ちゃんに触ってると思うだけで吐き気がするわ!!」
「……同感ですね。岬君が速水であったとしても…自分の街や家族が失われていく様を見ていたいわけがない。そんな望みもしないことに加担しなければならないと言うなら、いっそ闇狩の手で……っ」
河夕が出来ないと言うのなら、自分の手で。
どうなろうと、結果がそれ一つなら。
「頼むからそいつをどうにかしてよ影見君!! 岬ちゃんを取り返してよ!!」
その言葉が、どんな意味を持つのか。
雪子には想像も出来ない。
どんなに残酷なことなのか、知りはしない。
ただ、岬が何を望むかは自信を持って「知っている」と言える。
十年以上も一緒にいた幼馴染。
大切な人。
「お願いだから……お願いだから岬ちゃんを助けてあげて……っ!!」
腕の中、哀れなほど震える少女、光は精一杯の誠意を持って抱き寄せた。
雪子のような少女がこんなに切ない思いをするのは耐え難い。
「……河夕さん、どうか許可を……」
「…」
自分に、岬を斬る許しを、どうか――。
「…おまえは動くな」
光の掠れた懇願に、しかし河夕は首を振った。
雪子と光に対する侘びの気持ちと、是羅に向ける怒りを抱えて、微笑する。
「…そろそろ満足したか? 俺を動揺させてどうする気だったかは知らないけどな、テメェの勝手な御託を聞いているのも、もう飽きた」
「河夕さん…?」
「影見君…」
光と雪子が戸惑いの表情で河夕を見るのと対照的に、是羅は今までと一転した無表情を浮かべている。
「おまえが岬を奪っただ? 松橋の台詞じゃないが気色の悪いデタラメはもう充分だ!」
「デタラメ、だと?」
「言っておくが俺には五百年前の大戦なんて関係ないんだ」
ピクッ…と是羅の頬が引きつる。
「俺は俺、岬は岬――他の誰でも有りはしない。例え岬が速水の魂の器だったとしても、俺が影見綺也の子孫でも! 誰の意思も俺達には関係ないんだ!!」
「…何故、貴様が影見綺也の名を…あ奴の名は狩人の歴史から抹消されたはず!」
「テメェを裏切り、今まで速水を守り続けてきた闇の魔物達がいたのを知っているか? 魔物にだって心のある連中はいるんだってことを知っていたか!? そいつらが全てを教えてくれたんだ、岬が速水の魂の器になった経緯も、五百年前の大戦の中で貴様と速水、そして影見綺也の間で何が起きていたのかもな!!」
「やめろ!」
今、初めて是羅の言葉が震えた。
会話の内容を掴めない光と雪子は呆然としたまま口を出せずにいる。
「まかさと思うよな…、どっかの魔物が食って得た体だと思っていた子供が実はおまえの魂を持った女帝の娘で、しかもいつの間にか敵方の王と愛し合っていた、なんてな。何が闇の女帝・速水だ! 速水は闇の女帝に与えられる称号なんかじゃない、五百年前の影主が愛した女に贈った名前だ!!」
「よせと言っている!!」
言い放つ是羅に、河夕は確信した。
何も知らないのは、むしろこの男の方なのだと。
「テメェも酔狂な奴だよ。宿敵が贈った名前を自分の女帝の名だと偽り愛しているだと? 根性が腐ってるにも程があるだろ」
「戯け者が…っ、だからどうしたと言うのか! 岬が我が手中にあるは事実、この者が我が魂の守人であるも真!! 私が命じれば岬は貴様とて躊躇わずに殺せるのだっ、貴様らに勝ちはないという事実は変わらぬ!!」
「まだ気が付かないのか!」
言うが早いか、河夕の手に現れた白銀色の刀が振りあがり、そのまま躊躇せずに岬の身体を切断した。
「河夕さん!!」
驚愕するのは誰もが同じだった。
河夕は、迷うことなく岬を斬ったのだ。
その体は二つに裂かれ、地面に転がる。……だが、是羅は死ななかった。
岬の体が横たわることもなかった。
血も、痛みも。
何もない。
その代わりに床に舞い降りたのは、日本古来の呪術の中、式神と呼ばれるそれに似た人型の紙切れ。
「…影人形……」
光は呆然と呟いた。
本人と同じ能力、同じ心を持つ影人形は、狩人達が災厄から身を守る為に使う、いわゆるみ変わり人形だ。
「言ったはずだぜ、岬が速水になった理由も、貴様のことも、全てを教えてくれた闇の魔物がいるんだってな。…その後で、俺が岬をそのままこの場所にいさせると思ったか」
河夕は落ちた紙人形を拾い上げ、手の上で炎を生み出し、瞬時に灰と化した。
「岬は絶対にテメェには渡さない」
光にも言った。
自分は、もう二度と同じ後悔をしたくないのだ。
今度こそ、大切な存在を守りたい。
「岬が速水で、岬を殺さなきゃおまえを倒せない運命でも変えてみせる…俺が絶対に守ってみせる!」
岬を手に入れ損ねたこと、今までの岬が偽者であったと見抜けなかったこと、最も憎い綺也と同じ顔をしたこの影主に欺かれたこと、……様々なものが一つの大きな衝撃となって是羅を襲った。
「立て光! この学校全体に結界を! こいつを追い払う!!」
「っ、御意」
いまいち事の次第がつかめずにいた光だが、主の言葉にわれを取り戻して立ち上がった。
岬を殺さなければ消滅しない男でも、影主の全力の一撃を受ければ数日は動けない状態に陥るだろう。
そうなれば、ほんの数日でも平穏な日々を取り戻せる。
「影主の名を継ぎし我に始祖里界神の光りを!」
以前にも聞いた言葉の羅列に平行するように、光の両腕を夏の木々の色をした光りが取り巻いていく。
闇狩の聖なる力……その強大さ。
河夕の白銀の光りが溢れ、深緑の光が校舎を、そして雪子の身を包んだ。
刀が振りあがる。
力が発散される。
「俺達は五百年前と違うんだ!!」
闇と白銀の光がぶつかり合い、校舎の窓を貫く圧力と共に激しい爆発を起こした。
光の作った深緑の結界も、一族の王と是羅の力を完全に抑えることは出来なかった。
光も雪子も目を閉じ、それでも眩しい光に息を呑んだ。
その時、直接、脳裏に流れてきた声は誰のものだっただろう。
河夕の声だったのか――それとも岬の声か。
もしくは、五百年前の誰かのもの。
『信じることが力になる』
『未来に願いは叶うのだと信じろ』
そう強く言い切った人は、果たしてどんな願いを未来に託したのだろうか―――。
◇◆◇
「一体、何が何だか…」
頭の整理がつかずに、是羅の消えた場所を見つめながら小さく呟く光に、河夕はそっと視線を転じ、そうして雪子に近付いた。
岬を守ろうとしていた少女は、ようやくいつもの気丈さを取り戻したのか、瞳に力が戻っている。だがその力は、決して敵の退散を喜んでばかりはいない。
むしろ怒りを、悲しみを色濃く宿していた。
「……影見君」
少女の呼び掛けに、河夕は彼女のそばに膝を折った。それを見て雪子も納得する。
「影見君は全部知ってたの……?」
「……ああ」
「……歯、食いしばってくれる?」
「え…?」
光が聞きかえすとほぼ同時。
強烈な平手が河夕の頬を直撃した。
河夕は解っていて、避けようとはしなかった。
痛々しい、肌と肌がぶつかり合う音が響き、光の心からの驚きと静寂の中、静かに響くのは雪子の涙が床に落ちる音だった。
「……して……知ってたなら、どうしてもっと早くに来ないのよ!」
「松橋…」
「岬ちゃんがどんなに苦しんでたか知ってる!? あんな変態にまた会ってっ、好き勝手なこと言われて傷ついて、怖くて哀しくて立ってもいられなくなったのよ!? なのにどうして影見君が傍にいてあげられなかったのよ! 全部知っていたくせに!!」
雪子の素直で真っ直ぐな怒りが河夕の心に突き刺さる。
「影見君、判ってない……岬ちゃんがどんなに影見君のこと好きか……どんなに信頼してるかこれっぽっちも判ってない! 何が事実だとしてもっ、影見君に教えてもらうのと、あの変態に聞かされるじゃ全然違うのに! 影見君なら岬ちゃんにあんな辛い顔させずに済んだのに……っ!」
「雪子さん…」
彼女の背後から、光がそっとその肩に触れた。
小刻みに震える少女の肩は酷く頼りなくて、松橋雪子も、はやり普通の女の子なのだと、妙に安心した。
「岬ちゃんが速水じゃなくたって、そうだって……あんな変態に教えられるより影見君から聞いた方が岬ちゃんは…っ」
「……雪子さん。それなら心配いりませんよ」
静かな光の声に、雪子は自分を支える青年の顔を険しい目つきで見上げた。何が心配いらないのか、彼女にはまったく理解出来なかったのだ。
「河夕さんが迷わず岬君を斬った時、岬君は紙切れになりましたね?」
「…影、人形…?」
「ええ。その影人形ですが、あれは本人の指紋・声紋、果ては性格や記憶まで正確にコピーしますし、人形の言動はオリジナルにも通じます。ただ、もしも一定の条件下にオリジナルに岬君が保護されていたとしたなら、是羅の言葉も、術も本人には伝わっていませんよ」
「え…?」
一定の条件――それはオリジナルの体が狩人の術によって意識を封じられている場合。
術者の結界の中に保護されている場合だ。
そして光は、この状況下で河夕が岬の意識をそのままにしているわけがないと確信していた。
「岬君の影人形を、僕にも内緒で作っていた河夕さんのことです。本物の岬君は…今頃、本部の中でしょうか?」
当然の読みに、河夕は「そうだ」と軽く息を吐く。
「岬なら、有葉が傍についているはずだ」
「なるほど。それで有葉様を真っ先に本部の…しかも貴方の部屋に入ったら決して外に出るなと念を押されていたんですね」
言いながら、河夕の行動の素早さに感嘆する。
「そうですね。…今の岬君にとって一番安全な場所は河夕さんの寝室かもしれません。魔物はもちろんのこと、一族の者達も入ることを許されないのですから」
雪子に説明する意味も込めて口に出すと、彼女もようやく理解した様子。
「…なら…今まで一緒にいた岬ちゃんは…一体いつから岬ちゃんがお人形になってたの!?」
「今朝からだ。俺が岬のことを知ったのが昨夜だったからな」
「…」
反応に困っている雪子に、河夕は苦笑した。
「ま、影人形が燃えた今頃は岬も目を覚ましているだろうけどな」
「では僕達も本部に?」
「ああ。松橋も一緒に来てもらう。それに岬の家族も全員だ」
「えっ…私も……?」
「いいんですか? 雪子さんや岬君のご家族が本部に入って…貴方が地球人と懇意にしているだけでも副総帥などは目の敵にしているのに、今度は本部に招待したと知れたら…」
「あのジジィの言うことなんか構ってられるか。そもそも松橋一人を地球に残したら、それこそ魔物に狙ってくれと言っているようなものだし、俺に岬のことを話した住職達も、是羅に気づかれれば危険だ」
「では、昔に是羅を裏切った闇の魔物と言うのは…」
「ああ」
答えて、早速、この街を離れようと二人を促す河夕。
今回のこの騒ぎで教室の窓が全壊してしまっているのだ。
結界を外せば当然、騒ぎになるだろう。
「松橋」
行くぞ、と手を伸ばし。
ふと、彼女の視線が自分の頬に注がれている事に気付いて眉を寄せる。
「どうした」
「うん……結局、影見君が一番岬ちゃんのこと考えてくれてたのよね…身代わり人形まで作って守ってくれてたなんて」
「……」
「ゴメンネ。引っ叩いちゃって……痛かった…?」
「いや、気にするな」
そう答えた反面、平手一発じゃ済まないような事を昨夜遅くに岬としてしまっている河夕としては、かえって雪子にもう二、三発の許可を出してやらなければならないような心境だった。
(しっかし、昨夜のアレは岬の方からで、しかもあいつに意識なんかなかったわけだから無効といえば無効になるか……)
唇を隠すように手で覆いながら、少しでも罪の意識を軽く使用炉している河夕に、光ると雪子は首を傾げつつ、どう問い詰めたら何を考えているか白状するだろうと思案を巡らせた。
だが、いつまでも攻してバカなことを考えているわけにはいかないのだということを、三人は悲しいほど自覚していた。