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闇狩  作者: 月原みなみ
24/64

時空に巡りし者 九

 どこか遠い場所を泳いでいるような気分。

 すぐ傍に居るはずの彼の手に、どうして触れることが出来ないんだろう。


 ――眠っていろ……


 優しい声が耳元に囁いた。

 それは一体、いつのことだったのか。


 ――何も心配しなくていい…

 ――恐れなくていい……傍にいるから……


 ――…だから、眠っていろ……


 優しい声、静かな声、……どうしてそんなに、哀しそうなのか?


 ――……河夕……?


 届けたい声は、どうしても届かない。

 伸ばした手は彼をすり抜ける。


 ――河夕……


 金と銀の指輪が指輪が光りを取り戻しても、懐かしいあの日は二度と帰らない……。



 ◇◆◇



 放課後を迎えた教室で、岬は一人、窓側の机に腰を下ろしていた。

 雪子、光と一緒にパフェを食べに行く事にした彼は、この教室で雪子と待ち合わせているのだ。

 今頃、光と有葉は校門前で自分達を待っているだろうか。

 …どちらにしろ、河夕は闇の魔物の捜索で一緒には行けないのだろうけれど。

(…河夕……)

 ふと、昨夜のことを思い出す。

 恐らく夢だったとは思うのだが、岬は河夕の声をすぐ傍で聞いた気がしていた。

 大宇宙――静寂の神秘なる世界は無限の星の灯火に照らされて、自分はその中で揺られていた。

『眠っていろ』と、優しい河夕の声をすぐ傍に聞きながら…。

(変な夢だよなぁ)

 何が変だと感じるのかは判らない。

 それでも、心の奥底が騒がしいのは無視出来ない。

 何故だろう……どうしてだろう。

(……俺、もしかして……)

 岬は思いつめるあまり、深い溜息を漏らした。

 顔が熱い。

 気持ちが…、苦しい。

 そのとき、教室の扉がそっと開かれる。

 最初は雪子かなと思い振り返った岬だが、そこにいたのは彼女ではなく、他校の制服を着た少女。

「!」

 彼女を、岬は知っていた。

「矢口……!」

 昨日の夜、庭先に置かれていた傘と、バレンタインの贈り物。

 闇の魔物に囚われたと推測された少女が、今、岬の目の前にいた。

「矢口、無事だったんだ……っ」

「や。高城君」

「良かった……!」

 矢口景子は、安心して泣きそうになっている岬に片手を上げ、笑顔で口を開く。

 岬は机を下りて自分の二本足で立った。

「俺も雪子も、みんな心配してたんだ。行方不明になったって聞いて」

 河夕が、魔物に囚われたと言うから。

「ほんと…無事で良かった。どこか怪我とか、怖いこととか…」

「平気」

 近付いていく岬に、矢口景子は嬉しそうに微笑んだ。

「どこも怪我なんかしてないし、怖いこともなかったよ。……心配してくれてたの?」

「当たり前だろ? 家の庭に傘とチョコだけ置いて…」

 傘と。

 バレンタインの、チョコレート。

「ぁ…」

 その贈り物にはどんな意味が込められているのか、そう気付いた岬が言葉を途切れさせると、矢口景子は静かに笑んだ。

「…チョコ、受け取ってくれたの?」

「ぇ…」

 受け取ると言うのは、彼女の気持ちを、という意味なのだろうか。

 しかしもしかしたら、あの贈り物には「傘を貸してくれてありがとう」という意味以外はないのかもしれない。

 まだ何も言われたわけではない。

 こんなのは自惚れだと、激しく動く心臓を宥めようとした。

 だが彼女は。

「私ね、ずっと高城君が好きだったの」

「――」

「中学の頃から、…好きだったんだよ」

 突然の告白に頭は真っ白になり。

「高城君、……雪子と付き合ってるの?」

「ぇ、違…そんなことないよ、雪子は大事な幼馴染で…」

 思っても見なかった問い掛けに動揺し、声は上ずり。

 適当な言葉も浮かばない。

「じゃあ、私にもチャンスあるかな…?」

「チャンスって…っ」

 どうしよう、何て言おう。

 こういう時はどうしたらいいのか…何も判らなくて。

 心臓の音だけがうるさくて。

 混乱している岬に少女の顔が近付く。

「ぇ……――」

 不意に視界が暗くなり、重なった視線。―――重なった吐息。

 滑った感触に目を閉じて。

「…ん……っ……!!」

 キスされていると、ようやく気付いた直後、教室の扉が再び開かれた。



 雪子は「時間に遅れてしまう」と足早に教室にやって来た。

 きっと岬ちゃんが待ちくたびれている、学校の前では光や有葉ちゃんも退屈しているかもしれない。

 そんな不安がいっぱいで、ようやく辿り着いた待ち合わせの教室。

 中を確認する余裕もなく、勢いよく扉を開け放った。

「ごめんね岬ちゃん、遅くなって……」

 だがそう声を掛けた教室内には影の重なる男女の姿。

「! あっ、ごめんなさい…っ」と、邪魔をしてしまったことを詫び、すぐに教室から出ようとした。

 だがそうして閉じかけた扉の隙間から漏れ聞こえた含み笑いに、何故か動きが止まった。

「どうしたの、雪子」

 どこかで聞いたことのある声に耳を疑い、もう一度、教室に視線を戻した。

 窓側寄りのその場所で、触れ合える程の至近距離で佇む二人。

 たった今、キスしていたその人は。

「ゆ、雪子……っ」

「!!!!」

 岬が。

 自分の幼馴染で、同級生で、好きな人。

 その高城岬が、女子生徒と。―――他校の制服を着た、矢口景子と。

「…なによ……」

 低い声がボソッと呟く。

 そしてキレた。

「なによ、これってどういうこと!?」

 一度キレた雪子に怖いものなどありはしない。

 ズカズカと教室に乗り込み、岬に接近している少女の肩を掴んで力任せに引き離した。

「こっちがどれだけ心配したと思ってるのよ! それがイキナリ現れたと思ったら岬ちゃんに何してくれちゃったわけっ!?」

 本気で怒っている雪子相手に、しかし矢口景子の微笑は崩れなかった。

「悪いのは雪子よ?」と楽しげに告げて、肩に置かれた彼女の手を払う。

「雪子が高城君を独り占めするから悪いの。私達に、たった一度のチャンスさえくれなかった」

「景子?」

「チャンスがないまま終っちゃった」

「終ったって……」

 矢口景子の言うことが理解出来ずに聞き返す雪子とは逆に、岬の背には冷たい汗が流れた。

 それは彼女の言うことが理解できたからじゃない。

 まさか、と気付いてしまったから。

 彼女と同じ、自分に贈り物だけを残して消えてしまった人。

 矢口景子に“私達”と言わせた人。

「……矢口……碓井先輩は……?」

「岬ちゃん?」

「碓井先輩は、どこ……?」

 消えてしまった。

 カードと、チョコを残して。

 岬に贈り物を残して。

「碓井先輩は……っ?」

「……クスクスクス」

 今にも泣き出しそうな顔で問う岬に、矢口景子は微笑った。

 華のように鮮やかに微笑った。

「私のことも心配してくれていたのね…」

 不意に彼女の口調が変わり、他校の制服が形状を変えた。

 身体がグニャリとねじれ、顔が消えて。

「なっ…」

 目の前の非現実的な光景に雪子は後退りした。

「…っ……そんな、バカなこと……っ」

 今までは他校の制服を着た矢口景子だったものが、一瞬にして変化した。肩上までの茶髪は肩下までの黒髪に。

 制服は西海高校の標準制服に。

 岬と雪子が委員会でよく会っていた碓井みな――矢口景子が彼女と入れ替わって現れた。

「碓井先輩……っ」

 それはもはや絶望的なもの。

 彼女は。

 矢口景子――碓井みなは。

 もはや人間ではありえなかった―――………。

「矢口さんはずっと高城君が好きだったの、本当よ。……そして私……いつも元気で、こんな私にも優しくて。幸せそうな笑顔を見せてくれる高城君に元気付けられていたの。私達二人とも、学校も生活環境も違ったけど、貴方が大好きだったの高城君……そう、僕と同じくらいにね」

 そうして再び変化する目の前の姿。

「――っ…そんな……っ」

「嘘でしょ……っ!?」

 変化した後に現れたのは、彼らが最も会いたくなかった少年だった。

 数日前に死んだはずの……河夕の手によって確かに闇から解放されたはずの岡山一太、その人だ。

「クスクスクス……是羅様ってね、恋敵には容赦ないんだヨ。だから岬のことを好きな僕や、あの女の子たちは是羅様に食べられちゃったんだ」

「何よ…っ、岬ちゃんが悪いとでも言うつもり!? 自分が弱いの棚に上げて責任転嫁なんかするんじゃないわよ!!」

 突然に現れた――もしかすると判っていた、黒幕の正体に、雪子の怒りは絶頂を極めていた。

「いい加減にしなさいよ! どうしてアンタがまだここにいるの! どうしてまた岬ちゃんに近付くの!!」

 本気で憎んで、許せなくて、そうして怒鳴りつける雪子に、一太は笑った。

 嘲笑うかのように、声を立てて。

「そうだね…是羅様がもっと早くに教えてくれれば良かったね。そしたらきっと君も納得出来たし、岬を狩人なんかに奪われないで済んだんだ…僕は岬と、もっともっと楽しいことがたくさん出来たのに」

「気色悪いこと言わないで!!」

 負けじと言い返す雪子の背後で、岬は震えていた。

 いつかの光の言葉が脳裏に蘇り恐ろしい予感が全身を駆け巡る。

 本能が訴える、ここにこれ以上、居てはいけないと。

「フフフフ…まさか……」

 居てはいけないのに身体は動かない。

 聞きたく無くても一太は告げる。

 耳を塞ぎたいのに、運命は味方してくれない。

 絶大な力を、是羅との同化によって得た彼に、怖いものなど何もなかった。

 例えそれが狩人であったとしても、この岬を得さえすれば敵じゃない。

 そんな哀れな魂は、岬を絶望へと追い落とす。

「クスクスクス…まさか、岬が“速水”だったなんてね」


 ◇◆◇


 西海高校校門前。

「すべき事はあっても、ほんの数分、岬君や雪子さんと顔を合わせる余裕くらい持たれた方が宜しいですよ」と光に諭され、結局は彼と有葉の二人と一緒に岬達の帰りを待つ事になった河夕は、下校していく生徒達の視線を大量に集めながらも、それを気にする素振りなどまるで見せずにガードレールに腰を下ろしていたのだが、不意に感じられた異変に顔つきを険しくし、空を見上げた。

 光と有葉はすぐにそれに気付いたが、何があったのかまでは判らない。

 変化はほんの些細なもの。

(呼んでいるのか、俺を……)

 ジーンズのポケットに入っている金の指輪が熱い。

 銀の指輪を持つ者に救いを求めているのか。

「……有葉」

「はいっ」

 兄の異変に気付いた瞬間から有葉は呼ばれるのを待っていた。

 何かが起きた時、迷わず兄の――王・影主の望むままに動くことが出来るよう、幼い頃からずっと訓練させられてきた。

 そうして得た十君・桃華とうかの地位。

 兄のために動くことが出来るように。

「有葉。今すぐに本部に戻り、揃っている狩人全員に対戦準備を整えさせておけ。昨夜の内に光に使いを出させておいたんだ、おまえ一人でも一族を動かせる」

「はい」

「そして一族を動かす準備が済んだら…、おまえは俺の部屋に行け」

 ふと調子の変わった兄の声音に、言われた有葉だけでなく光も目を細めた。

「俺の部屋にはこれを持って入れ。結界が解けるはずだ」

「結界…?」

「…河夕さん、ご自分の部屋に何か…?」

 聞き返す二人に、河夕は顔を歪めるだけで明確な答えはなかった。

「…とにかく、準備が終ったら俺の部屋に行き、そこから一歩も外に出るな。…絶対にだ」

「――はい」

 兄の言葉が、自分を信頼してのものだと悟った有葉は力強く頷いた。

 今の段階では、兄の部屋に何があるのか想像もつかないけれど、兄の信頼を裏切らないよう自分に出来るすべてのことをやり遂げようと、幼い少女の瞳には決意の色が宿る。

「行って来ます」

「ん」

 最後に笑みを交わして分かれた兄妹は、一瞬後にはその姿を追えなくなっていた。

 本部へと続く鏡の道を探すため飛んだ少女の速度は光りのごとく。

 それを見送り、河夕は光を一瞥した。

「光、おまえは俺と来い」

「はい」

 そう答え、光もまた一族の一人として王の言葉に従うよう育ってきた。

 だが、今この時に胸を占めたのは強い戸惑い。

 脳裏を過ぎる朝方の河夕の姿。

 彼を、あれほど追い詰めたものとは何なのか。

「……河夕さん」

 呼びかけて足を止めた光に、しかし河夕は振り返らない。

「…一族を戦闘体制に入らせ、いつでも動けるようにしておけと仰るからには、それは相手が是羅であるからでしょう。そして是羅が狙うは、…岬君ですね」

「…」

 河夕の反応はない。

 答えを渋っているのとも違う。

 それでも、河夕の返答はなかった。

 だからといって、光には自分の推測が間違えているとは思わない。

 岬に想いを寄せていた二人の少女が相次いで行方をくらまし、そこには闇の魔物の介入が確かにあった。

「…貴方は僕に何一つ教えては下さらない。だからと言って、僕が何も気付かないとお思いですか。あの夜、本当に岡山君が魔物から解放されたなら是羅が岬君を欲する理由はない。それが今でも追われるのは、貴方の力をもってしても岡山君を解放出来なかったからではないんですか」

 あの時点で時既に遅く、是羅が岡山一太を器に選んでしまっていたからではないのか。

 その魂を、速水の名を持つ女に預けて。

「貴方が「殺せない」のは誰ですか」

 あんなにも苦しげに。

 聞いている側の心すら痛むような声音でたった一言。

「…河夕さん。一族が討つべき“速水”は誰ですか」

「…光」

 微かな応えは、背を向けたまま。

 紡ぎ出される言葉には過去の傷が痛みを思い出す。

「……俺は、影主になりたくなどなかった。なりたかったのは影主の…親父の補佐だった」

「ええ…」

 そう朗らかに宣言する彼を、自分はどれだけ見守ってきたか。

 弟の生真と二人、影主である父を補佐するために強くなる――、それが河夕の本当の望みだった。

 だが一族の理に反した望みは、一族の理によって絶望の淵へ追い落とされた。

 幼い弟妹の命まで盾にとられて、河夕は一族の…影見の長子としての運命を受け入れなければならなくなったんだ。


 ――…王になれ、河夕……


 父親の。

 先代の、最後の言葉。

 王になり、強くなり、おまえの力で一族を変えていけ――それが、河夕によって命絶たれた父親の、最後の祈り。

「そのために影主になったんだ。一族を変えていくために…魔物との戦いを終らせて、一族の存在意義を変えていくために、この名を継いだんだ」

 戦いを終らせる為に。

“速水”を斬るために―――なのに。

「俺に“速水”は殺せない」

 自分に。

 この、手に。

「岬は斬れない」

「――……」

「俺は…あの時のような、……無力過ぎて親父を殺すしかなかった、あの時のような後悔は二度としたくないんだ」

 河夕の言葉に。

 その声音に。

 光は自分の考えが間違っていた事に気付いた。

 今朝早く、あんなにも苦しげに「殺せない」と口にするのを聞いてしまい、河夕が悲観的になっていることを危惧していたけれど。

「……済みませんでした。どうやら僕は、まだ貴方という人間の強さを見誤っていたようですね」

「…」

 微かな笑みを含んで告げる光に、河夕は初めて振り返り、相手の瞳を直視する。

「理解したなら、今ここで選べ」

 黒曜石の瞳に宿る力。

 力強く、どこまでも真っ直ぐな眼差しに曇りはない。

 五年前のあの時と何も変わらない――変わらないけれど、深く強くなった心。


「おまえの主は誰だ」


 五年前、月下で跪き捧げた誓い。

 あの時から己が唯一の王と決めたのは、たった一人―――貴方だけ。



 ◇◆◇



 その教室に響き渡るのは、心底楽しげな笑い声。

 そして雪子の、なんの効果も得られない必死な怒り。

 岬と雪子の目の前で数回の変化を繰り返し、岡山一太の姿を象ったそれは、何が面白いのか笑いを止められずにいる。

 雪子の真剣な想いすら嘲笑う。

「君、威勢はいいけれど普通の人間だよね? 無理はしない方がいいと思うよ、少しでも長生きしたいんだったら……、ま、結局は僕と岬の邪魔者なんだし是羅様に食べてもらっちゃうけどさ」

「岬ちゃんをアンタみたいな変態に攫われるのを黙って見ているくらいならっ、戦死の方がよっぽど悔いないわ!!

「雪子……っ」

 自分を背後に庇って精一杯の怒声を上げる雪子に、岬はずっと「逃げろ」と訴えていた。

 だが彼女は動こうとしない。

 三人が三人とも手の届く位置――そんな至近距離で、雪子は岬を守ろうと立ち塞がっているのだ。

「雪子、頼むから逃げろ! 俺のこと庇って危険な目に遭うことなんかない!!」

「冗談じゃないわっ」

「嫌だなぁ岬、僕が逃がすわけないじゃないか。この女の子には、ちゃんと岬の目の前で死んでもらわなきゃならないんだから。岬の前で、岬のことを好きな人達を順番に殺していくんだ。そしたら誰も岬のこと好きじゃなくなるよね? 僕だけが岬を好きなんだ。そしたら岬も僕だけを好きになってくれる。ね?」

「――……っ!! どこまで腐ってンのよアンタは!!」

 背に流れる冷や汗を、雪子は気のせいだと思い込む。

 例え殺されても、自分の目の前で、一太に泣かされる岬など見たくないのだ。

 岬のために出来ることをしたい、それが雪子を動かす全て。

「殺したいなら殺せばいいでしょ!? 言っておくけど私の執念は影見君のお墨付きなんですからねっ、覚悟してやりなさい!!」

 影見河夕の名を出した途端、不意に心が軽くなる。

 そうだ、岬の隣にはいつだって河夕がいてくれる。

 彼さえいれば岬は助かる、こんな死に損ないの魔物など敵じゃない。

 だが、そう言い放った雪子に対しても一太は声を立てて笑った。

「そっかぁ…影見かぁ。是羅様、影見だって…どうする? そいつが来るまで待つ?」

「うわっ…」

「なっ…!」

 不意に黒い霧が一太の全身を包み始めた。

「うん…うん、そうだね。岬にこの女の子を殺させてあげようか」

「!」

「!?」

 岬と雪子は同時に息を呑んだ。

 誰が誰を殺すと、この少年は言ったのか。

「ちょっと……バカにしないでくれる!? なんで岬ちゃんが私を殺すのよ! アンタそこまでおかしくなったの!?」

「おかしいのは君だよ、飲み込みが悪いね」

 嘲笑う一太に雪子は怒りを爆発させるが、逆に岬の胸中は不安に呑み込まれていった。

「さっきも言ったじゃない、岬が速水なんだよって。速水は是羅様の永遠の伴侶なんだ。だから岬は是羅様の命令には逆らえない」

「何が伴侶よ、いい加減にしないと殴るわよ!? 岬ちゃんは確かに可愛いけど男よ、正真正銘の男!!」

「身体はそうだって関係ないよね、……速水」

「…っ」

 その名で呼ばれると、全身が総毛立つ。

 この胸中に溢れるものが不安なのか恐怖なのかも区別がつかない。

 違うという否定の言葉すら、出てこない。

「クスクスクス……、岬。さっきのキス、是羅様の力を岬の内側に送り込むためだったんだ」

「!」

「なんですって……?」

「つまり、是羅様がちょっと力を使えば、それで岬は完全に是羅様のものになる、ってこと」

「っ」

 怯える岬の前で、一太は再び姿が変え始めた。

 揺れるシルエット、捻れる身体。

 岬の鼓動が激しくなる。

 そうして現れた姿は、初めて見る長身の男だった。

 彫りの深い顔立ちは一太と違い完全と言ってもいいほど整った美形で、実年齢はともかく見た目は三十代半ば。

 そしてその容貌を彩るように、鮮やかな黄金色の波打つ髪が爪先まで届いている。

「……速水。この姿を見ても自分のことが解らないか?」

 声も、もはや一太ではありえない。

 その姿、その声こそが――。

「君と愛し合った私の姿だ。思い出しなさい、速水」

「…っぁ……あ、ああ……っ」

「岬ちゃん!」

 惑わされてはならない。

 引きずられてはならない。

 雪子がそう叫ぶけれど、もはや岬にその声は届いていなかった。

 岬の知らないところで、心臓が早鐘を打っている。

 恐怖と嫌悪が体中を駆け巡り、目の前の存在を拒否しようとしている。

 けれど、あの時、唇越しに送られた是羅の力がそれを上回る。

 岬の精神を支配する。

「さぁ速水……それとも“岬”と呼ぼうか?」

「――」

「岬ちゃん…」

「その娘を殺せ」

「岬ちゃん!」

 ガッと岬の手が雪子の首に絡んだ。

 傍の椅子や机が音を立てて倒れ、雪子と岬も床を滑る。

「岬ちゃ……みっ……ちゃん…っ…」

「そう、そのまま手に力を込めて、一思いに殺してやるといい岬。おまえが望むのなら、その娘の身体も魔物の器として我らが理想郷のための人形としようか」

 艶やかに微笑する男と、その男の命令しか受け付けない岬の精神。

 雪子の頬に、涙が流れた。

(岬ちゃん……、もしこのまま私が死んでも、岬ちゃんは悪くないよ……)

 悪いのは是羅だから……そうして意識が途切れ行く間際。

 ずっと待ち望んでいた声が届く。

「悪趣味な真似は、いい加減にしてもらおうか」

 是羅がゆっくりと振り向き、薄笑いを浮かべる。

 その視線の先には、影見河夕と緑光の二人が佇んでいた。





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