時空に巡りし者 五
岬と有葉に見送られ、高城家を後にした雪子は、光に送られて四城寺の階段を下っていた。
冷えた空気のおかげで雲一つ見当たらない空には無数の星が煌き、細くなっていく月が二人の影を映し出す。
互いの間に言葉はなく。
風に吹かれる木々のざわめきだけが周囲を包んでいた。
「…」
石段の、ちょうど半分くらいまで下りた頃、雪子がふと足を止めた。
光も一段下で足を止め、彼女を振り返る。
思いつめたような彼女の表情には、切なげな色。
「…どうしました、雪子さん」
静かな口調で問いかけると、雪子は更に俯き、光の視界から顔を隠す。
「……雪子さん」
再度、ゆっくりと呼びかけると、彼女は拳を握った。
「……」
「…一つ、教えて」
意を決して語られる言葉は静かな怒気を孕んでいる。
「これから聞くことに…絶対、嘘をついたりしないで」
「…それが貴女の望みなら嘘はつかないと約束しましょう」
光の返答に、雪子はしばらく無言のまま。
風が吹いて、木々がざわめき、次いで幾分か強い風が吹く中で雪子は口を開いた。
「いま、魔物に狙われているのは誰」
魔物がこれと定めて近付いてきているのは。
「なんで…、なんで岬ちゃんを好きだった二人が魔物に攫われるの?」
二月十四日。
年に一度“女の子から告白が出来る日”などという名目を律儀に守っている者などそうはいないだろうが、この名目に勇気をもらって用意されただろう贈り物。
甘い、甘いチョコレート。
碓井みなも、矢口景子も。
岬にそれを用意していた。彼女達の想い人が誰かなんて、それ以前から雪子には判っていた。
判っていたから。
…判ってしまったから、だから辛くて。
「なんでまた岬ちゃんが狙われるのよ……っ!!」
岬、ばかりが。
「雪子さん…」
初めて河夕と知り合った、楠啓太が闇の魔物だった秋の事件。
つい先日の岡山一太。
半年もしない、わずか数ヶ月の間に身の回りで二度も闇の魔物が跋扈し、しかも二度とも魔物の狙いは岬だった。
岬を好きな少女が狙われるなら自分も狙われる、雪子にもそれくらいの予想は出来る。
それを怖いとは思う。
だがそれ以上に、今までの二度の事件を思い起こせば、今回も中心にいるのは岬だという事実から目を背けられるわけがなかった。
「岬ちゃんが…、岬ちゃんが何をしたの…? 何か悪いことした? 魔物に好かれるようなことしたの? それとも何、魔物の趣味ってそんなにいいわけ?」
「雪子さん」
「そりゃ岬ちゃんは可愛いわよっ、そこいらの女の子よりずっと!! 素直だし優しいし、昔から変わらない笑顔なんて心臓爆発ものだわっ、えぇそうよっ、そういう岬ちゃんが好きだって言うなら魔物の趣味の良さは認めてあげてもいいわっ」
「雪子さ…」
「だからって!! なんで岬ちゃん泣かせるようなことするの……っ!?」
「…」
「なんで岬ちゃんなのよ……っ」
雪子の抑え込んだ叫びに、光は深い想いを感じ取る。
心から岬の身を案じ、気持ちを案じ。
身体全体で訴えている、岬を傷つけないで、と。
「……」
何故、そうまでして人を想えるのだろう…光の胸中にそんな疑問が浮かぶ。
どんなに恋しても、報われなければ辛いだけの想い。
気付いてもらえなければ人知れず消去するしかない感情。
それがどんなに辛いか。
残酷なことか、……雪子はまだ知らないのだろう。
それが、闇の魔物を呼び込み、家族を殺害する狂気にさえ成り得る事を、光の記憶は決して忘れない。
あの日の、血の惨劇が思い出されて嫌な感情が胸中に溢れてくる。
雪子の、その純粋な想いが、……苛立たしくなるほどに。
「人を想う、…それほど愚かな感情はありません」
「…愚か…?」
「人の想いは必ず裏切られる、それを知らずに生きていられる貴女は、きっと幸せなのでしょうね」
「緑君…」
「それが純粋であればあるほど、想いは狂気に変化する…、碓井さんも矢口さんも、魔物に連れ去られたのはその結果かもしれません。相手が岬君では、報われることなど叶わない。苦しくなって、報われない想いの向かう先を恨んで…岬君を憎んで自ら闇に堕ちていったのかもしれません」
「…」
「人が人を殺す、それは存外、簡単なことです。綺麗で純粋な貴女には理解出来ないかもしれませんが」
「……っ…緑君、私にケンカ売ってるの……?」
「まさか。嘘をつかないで欲しいと言われたので正直にお答えしているだけです」
「なら、いま言ったことが緑君の本音?」
「ええ」
「人が人を好きになるのは愚かなの…?」
雪子の固い声音に、光は微笑う。
「お望みあらば、それを理解させて差し上げましょうか?」
告げ、その手を取り、少女の華奢な身体を腕に抱く。
「!」
「試しに僕を好きになってごらんなさい。闇を呼び込むほどの狂気を教えて差し上げますから」
そしてその呼び込んだ闇で、血の惨劇を繰り返し。
最初の獲物に自分を選べばいい。
滴る血に目を見開き、広がる光景に叫べばいい。
想い故に生まれた殺戮。
その残酷さを思い知れば、きっと判る。
それがどれほど愚かなものなのか―――。
「!」
刹那、光の頬に走った熱い痛み。
振り上がった少女の掌。
「…っ!!」
更に一発、右頬に打ち込まれようとした平手を、光は間一髪で食い止めた。
「雪子さん」
「…っ、なんで止めるのよ!! もう一発くらい殴らせないバカ!!」
「顔以外でしたら考慮させて頂きますが…」
「その憎ったらしい顔を原型なくなるまでぶっ飛ばさなきゃ気が済まないわよ!!」
荒い息をつきながら、雪子は力いっぱい怒鳴りつける。
「いい加減にしてよ、嘘つかないでって言ったでしょう!? 嘘つくんだったら…っ、私を騙すんだったら、もっとしっかり覚悟決めてからにしなさい!!」
「覚悟?」
「そんな泣きそうな顔で嘘つくなって言ってるの!!」
「――」
泣きそうな、と言われて。
耳の奥に響く声。
懐かしい。
……あまりに懐かしい、優しい声。
「人を好きになるのが愚かだって…、嘘ばっかり、本当はそんなふうに思ってなんかないくせに!」
「…」
「何よっ」
呆然と自分を見下ろす光に、雪子は怒りの形相で言い放つ。
「…なぜ、それが嘘だと」
「…っ、緑君、それって私のことバカにし過ぎなんじゃないの!?」
彼女の言うことが、判らなかった。
理解出来なかった。
ただ。
…ただ懐かしい声を、繰り返し、思い出させた。
「いま言ったことが本音だったら、どうしてここにいるのよ!」
―――…好きだから、辛かったんでしょう……?
「なんで私達のこと守ろうとしてくれるの!?」
―――…守りきれなかったことが辛いのね………
「どうして影見君と一緒にいるの!!」
―――…その影主を信じて、慕っているから…だから辛かったんだよね……?
今は辛くても。
君が信じた影主なら、きっと願いは叶うよ。
自分が願う未来への道標が、いつか、きっと見つかる。
だからそれを信じて、想うことを止めないでと、命を掛けて教えてくれた人がいた。
人の想いは何より強い力になること。
それを、教えてくれた人達がいた……。
「……」
「…っ、さっきからどうしゃちゃったのよ!! 私の声、聞こえてるの!?」
言い放つ雪子に、光はもう少しで笑ってしまいそうだった。
忘れていたわけではなかったのに、心の中で鍵のかかっていた記憶。
河夕が影主になり、五年が経って。
それでも変わらない一族の在り方に、信じている未来は遠ざかりつつあった。
だが今になって、その未来は手繰り寄せられようとしている。
信じ、慕った影主が出逢った地球人。
自分が願った未来への道標は、もしかしてここに在ったのか。
「緑君?」
怪訝な顔つきの彼女に、光は静かに微笑んで腕を離した。
抱き締めたままだった彼女を解放し、素直に詫びる。
「済みませんでした、……感情的になり、貴女を傷つけてしまいましたね」
「冗談じゃないわ、緑君になんか傷つけられたりするわけないじゃない。私は自分を信じてるもの。何かあったとしたら、それは緑君を信じた私がバカだっただけ」
「…」
クスッ…と笑い、彼女が謝罪を求めているわけではないと気付いた光は、彼女を促し、再び石段を下り始めた。
躊躇いなく言い切る彼女の強さ。
真っ直ぐな眼差し。
報われるには遠い片思いを続ける彼女に重ねた姿は、想い故の狂気によって魔物を呼び込んでしまった、おそらくは誰より自分に近かった少女。
雪子の言葉によって今こうして思い出すことの出来た面影は、守ることが出来なかった、恩人ともいえる女性。
二人の最期は、どちらも魔物による赤い海の中。
光には、その運命を変えることが出来なかった。
「…」
だが、今度こそ守ることが出来たなら。
「……貴女には、どんなに感謝しても足りませんね。……貴女と、岬君には」
「え?」
「河夕さんと出逢って下さったこと、本当に幸運だったと思います」
「緑君……?」
「ありがとうございます」
河夕の――光の――そして一族の過去を知らない雪子が、光の感謝の真意を知ることはない。
それでも伝えずにはいられなかった言葉。
月明かりと星の煌き。
風のざわめきだけが周囲を包む闇の中。
光の胸には小さな熱が生まれようとしていた。
◇◆◇
寝ようと思っても寝られるはずがなく、岬は布団を抜け出し、河夕が街に出た時から開け放ったままにしている雨戸、その縁側に座り、月明かりと星の灯火だけが地上を照らす光りとなる庭を眺めていた。
時刻は、そろそろ23時を回っただろうか。
河夕が帰ってくるまで高城家にいると言い張る雪子を、光が家まで送ると言って帰宅を促したのが一時間程前。
「岬ちゃんが休むまでは自分も寝ない」と言い張る有葉に「じゃあ寝ようか」と返したのが、つい数分前で、就寝準備をしに洗面所に向かう少女を見送って、岬は一人、ここにいた。
首からかけられた銀の指輪を右手に握り締めながら、一分一秒でも早く河夕に帰ってきて欲しいと願う。
そうでなければ、…苦しくなる。
恐ろしい考えに自身を支配されてしまう。
岬に贈り物を残して消えた二人の少女。
彼女達が魔物に連れ去られた原因、それは“誰”か。
「…っ……」
また。
こうして。
自分のせいで人が消える。
魔物によって、消されてしまう。
「河夕……っ」
傍に居て欲しい。
ずっと、傍で。
手の届く場所に居て欲しい。……そんなことを思う自分を自覚して、言い様のない感覚に襲われる。
いつから自分はこんなに女々しくなってしまったのか。
河夕の姿が見えないだけで、どうしてこんなに不安になる?
常に一緒にいられるはずがないことは理解している。
彼の役目を思えば、彼を必要としているのは自分だけじゃないことも解っている。
今回の、この事件の原因が自分かもしれないと。
それすら自覚していて、それでも願わずにはいられない。
「……、離れたくないんだ……」
もう二度と、離れ離れになどなりたくなくて。
傍にいたくて。……自分だけが、傍に在ることを許されたくて。
―――…貴方の傍で生きることを許されたくて……
「岬ちゃん!」
「!」
不意の呼びかけに肩を震わせて我に返った岬は、姉の子供の頃のパジャマを着て近付いてくる少女に慌てて笑みを返した。
昨夜も高城家に泊まった有葉は、自分に用意されたパジャマや布団がとても気に入った様子で、パジャマ姿の少女は愛らしく、見ている側の気持ちすら和ませてくれた。
今まで自分の思考がどこにあったか、まるで霧散するように揺らいだ先はただの闇。
ちゃんと思い出さなければならないという危険信号を察知しながら、…だが気にすることではないと心の中の何かが考えることを拒んだ。
手の中の銀の指輪は、岬の温もりで人肌に暖まっていた。
「…寝る準備は済んだ?」
「うん。もういつでも眠れるよ」
笑顔で答えて、岬の横に座る。
と、彼が指輪を大事そうに握っているのを見て頬を緩めた。
「? どうしたの?」
「ううん」
有葉は首を振り、…だが「あ、でも…」とますます頬を緩める。
「有葉ちゃん?」
「ふふふ。あのね、あのね。聞いてもいい?」
「なに?」
「岬ちゃん、お兄ちゃんのこと好き?」
「ぇ…」
思い掛けない問い掛けに、岬は一瞬にして顔の熱が上昇したことを自覚せずにはいられなかった。
「あ、有葉ちゃん、それって…」
「お兄ちゃんがいないと淋しい?」
「え…っと…」
「有葉ね、お兄ちゃんがいないとすごく淋しいの。本当はずっと一緒にいて欲しいんだよ。話もいっぱいしたいし、勉強や力の使い方だって、もっとたくさん教えて欲しいって思うの」
「…」
有葉の言おうとしていることが、唐突な質問に動揺しているせいもあって巧く飲み込めずにいた岬だが、次の言葉には目を見張った。
「でもね。お兄ちゃんが有葉の傍にいてくれたらすごく嬉しいし、幸せだなぁって思うんだけど、傍にいてくれなくても、お兄ちゃんが元気だともっと嬉しい。岬ちゃんと一緒にいるお兄ちゃん、すっごく楽しそうで、有葉も嬉しくなっちゃった」
「有葉ちゃん……?」
「お兄ちゃんは岬ちゃんのこと好きよ」
「―――」
「だから一番大切なお守りを預けちゃうんだ」
有葉の無邪気な笑顔に、岬は内心で逃げ出したい衝動に駆られるほど動揺していた。
だがその動揺を見抜かれたくなくて、誤魔化すように指輪を握る手に力を込める。
「一番大切なお守り…なの? この指輪が」
問い掛けに、少女は大きく頷いた。
「お父さんの形見だもん」
「―――」
形見、それは亡くなった大切な人の思い出の品。
「河夕…と、有葉ちゃんのお父さんて…」
躊躇いがちに紡がれる言葉に、少女はほんの少しだけ歪んだ笑みを浮かべる。
「ずぅっと前…お兄ちゃんが十五歳の時に死んじゃった。お母さんはもっと前」
それは五年前に起きた、少女にとっては残酷以外の何物でもない記憶。
消せるものならば、忘れてしまいたいと本気で願った過去――それを、こうして真っ直ぐに告げられるようになったのが、実は岬や雪子のおかげだということを、本人達だけが知らない。
そして岬は、唐突に告げられた河夕の事情に返せる言葉が見つからなかった。
有葉が、自分の年齢ではなく兄の年齢でその時のことを語る言葉を不審がることもない。
ただ、ショックだった。
河夕の両親が既にこの世にいないこと。
「でも有葉は淋しくないの。お兄ちゃんがいるし、生真君もいるし、――あ、生真君てもう一人のお兄ちゃんなのよ、お兄ちゃんと、生真君と、有葉の三人兄妹なんだ」
「生真君…」
河夕にもう一人、弟がいたこと。
「それに光ちゃんも居てくれるし、蒼月のお兄ちゃん、白鳥のお兄ちゃん…」
河夕に関わる知らない名前。
「有葉ね、お父さんもお母さんも大好きだったから、死んじゃった時はすごく悲しかったよ。でもお兄ちゃん達がずっと一緒にいてくれるから、今は淋しくないの」
「…」
「だって、今は岬ちゃんや雪子お姉ちゃんも一緒だもん」
家族や友人、そういった絆を一切許さない闇狩一族。
その中に在って人を愛した河夕の家族。
岬は、自分が河夕のことを何も知らないことを思い知りながらも、一族の理に反し、自分の信じる道を目指そうとする河夕の手を取れたことが嬉しかった。
一緒に行こうと誓った。
過去に、希み絶たれて死した彼らの想いが間違いでなかったことの証を立てるために。
それが、どれほど強い力となって河夕を立ち直らせたのか。
光や有葉が、岬と雪子の二人が河夕と出逢ったことを感謝する理由がまさにそれであることを、本人達だけが知らない。
想像も出来ないから、…今の岬は、泣きたくなった。
「河夕、…優しいよね」
「うん!」
大きく頷く少女の、満面の笑み。
河夕は優しいから。
…優し過ぎて、友人の不安を少しでも和らげようと、一番大切な銀の指輪を預けた。
特別なわけじゃない。
「好き」な人達の中の一人でしかない。
だから、これ以上の何も望めない、……望んではいけないのだ。
これからも傍にいたいのなら、尚更。
「岬ちゃん、お兄ちゃんの一番最初のお友達なんでしょ? 光ちゃんに聞いたよ」
「…ん」
一切の絆を認めない一族にありながら、河夕は岬を友人として受け入れた。
それだけで充分だから。
「これからも、ずっとお兄ちゃんの傍にいてね」
河夕の傍に。
ずっと、隣に。
ずっと、一緒に。