闇狩の名を持つ者 一
「高城ぉ。この本、全然面白くないじゃんか」
「よく言うよ、俺が読む前にさっさと持って行ったくせに。だいいち、俺だって別の奴から借りたんだからな」
借りた、と言うより押し付けられたといった方が正しいのだが、高城岬は疲れた顔で戻ってきた本を受け取った。そんな彼の様子から心情まで察したのか、本を返しに来た友人・楠啓太は前の席に腰を落ち着け、明るい声で話しかけてくる。
「なんだよ、ま〜た例の怪事件のことで悩んでんのか?」
「ほっとけ」
その応え方にも棘があるが、楠はさして気にする様子もなく、岬に返した本を指差した。
「それよりその本、誰に借りたって? よっぽどの物好きだろ?」
楠の言いように、岬は返答に窮した。
正直に言っても良かったのだが、その後でこの友人が取るだろう行動を思うと迂闊なことは言えない。本当のことを言うのなら、この本の持ち主は松橋雪子という名の岬のクラスメート兼幼馴染の少女。そして先日の学校祭では毎年恒例行事”ミス西海“において、次点に見事なまでの大差をつけて勝利した美少女だ。ここまで言えばご理解いただけるだろうが、つまり楠は雪子の崇拝者なのである。
もしここで、この本が彼女のものだと知ったら、彼女をこよなく愛する楠がどんなリアクションを起こし、その末に何を言い出すかくらい容易に想像がつく。
(はぁ…、亮一から借りたとでも言っておくか)
友人の名を頭に思い浮かべて口を開く。
その時だった。
勢いよく扉を開け、自分の席にではなく真っ直ぐここに――岬の席に向かってくる少女がいた。啓太の頭の中はもはや本の持ち主などどうでもよくなり、その少女のことで埋め尽くされる。
なぜならやって来たのが松橋雪子、その人だったのだから。
「松橋さん!」
嬉々とした声を上げる楠。
その一方で岬は新たな不安を募らせる。
(雪子がああいう顔してるってことは、きっとろくなことじゃない…)
これは長年の付き合いである幼馴染の岬だから判ること。
また例の怪事件でもあったのかと、半ば自棄気味の口調で「どうした?」と問いかければ、雪子は岬の席に近づくなりその机に平手を叩き付けた。
「っ?」
「岬ちゃん!」
机と彼女の掌の間から軽快な音が響く。多少なりとも驚いて目を丸くする岬だが、雪子はそれすら気付かない様子で早口にまくし立てた。
「聞いて聞いて岬ちゃん! もぉっっ聞いてよ聞いてよ岬ちゃん!!」
「な、なに…」
「転入生よ転入生!! 超美形の転入生!!」
「て、転入生?」
そう聞き返したのは岬一人ではなかった。
二学期途中の転入生とは珍しい。この時期の転入ともなれば、理由として思いつくのは親の転勤、その他諸々の事情、もしくは前の学校で何か問題を…?というのが妥当ではないだろうか。とにもかくにもクラス中がその突然のニュースに興味を惹かれ、騒がしくなるのは当然だった。
「それで…、転入生って男? 女?」
「男!」
横から口を挟んできた男子生徒に、雪子が勢いよく返す。途端に黄色い叫びを上げる少女達は雪子を輪の中に引き込んで更なる情報を求め、男子生徒はつまらなそうな態度を見せながらも、まだ見ぬ転入生を仲間内で思い描く。
「…ふぅん…、その転入生ってこのクラスなのか?」
「だと思うよ。雪子があれだけ騒いでるんだし…、それにあのはしゃぎようからして、かなりの美形だと思う」
そこまで言って、ハッと気付く。今、自分の隣には誰がいたのか。横を振り返った岬が見たのは暗い表情で自分を見ている楠の姿。
「そぉか…、カッコイイのか……」
「えっと…楠…?」
「カッコイイ転入生か…」
おいおいと声を掛けるが、楠は振り返ることもなく教室から去っていった。
おそらく自分の教室、自分の席で思い切り落ち込んでいることだろう。
「…やばいかなぁ…」
言ってはならないことを言ってしまった気がした。
岬は鼻の頭を掻きながら、これからやって来る転入生が、少なくとも人並みの美形であることを切に願ってみたりした……。
◇◆◇
「影見河夕君だ。席は後ろの…、一番後ろの席だな。皆、仲良くしてやってくれ」
噂の転入生は岬達一年B組の生徒達の前でそう紹介され、わずかに頭を下げた。
たった一言の挨拶もない転入生など、普通なら「生意気だ」とか「嫌なカンジだ」とか言われそうなものなのだが、今この場にいる誰もが、そんな些細なことを気にする余裕などなかった。
愛想の無さなど、どうでもいいと思えるくらい、そこに立つ転入生は完璧だったのである。
背は高く、スラリと伸びた腕と足。
細身なのに、そんな風には決して思わせない絶対的な存在感、一分の隙もない美貌。
(すごい綺麗だよ、この転入生…)
後ろに座る男子生徒の口からも「すげぇカッコイイんじゃねぇ?」と声が掛かり、岬は素直に頷いていた。
伏せ目がちの瞳も髪の色も同じ黒のはずなのに、どちらもただの黒ではない。
夜闇に射す月光のように、目に見えぬ光を纏っているようで、影見河夕というその少年は、この場に在って、この世のものではないような気さえする。
「高城」
「! え…」
「高城、立ちなさい」
唐突に担任に呼ばれて慌てて立ち上がった岬は、多少離れた場所で幼馴染の雪子も立ち上がっていることに気付き、自分達が名指しで立たされた理由を悟る。
「影見君。彼が高城岬、向こうの女生徒が松橋雪子。二人ともこの学級の委員長だ。何か解らないことがあれが彼ら二人に聞くように」
「松橋です。よろしくね、影見君」
「あ、あの、高城です。よろしく…」
物怖じせず転入生に挨拶を済ませる雪子に続いて、岬もなんとか言葉を繋いだ。そんな二人にも影見河夕はわずかな一瞥をくれるだけ。
「あぁ、それと高城は放課後、彼に学校案内を頼むよ」
「はっはい」
焦ったままの口調で答え、席に着く。
その横を転入生はゆっくりと通り過ぎていった。
岬よりも頭一つ以上高い背。そして不思議な雰囲気……。
突然の美貌の転入生に、クラス全員の意識はもはや授業どころではなかったのだが、チャイムが鳴れば教師は授業を開始する。
担任兼世界史担当の甲斐教諭の授業が始まる中で、岬は一つだけ、あの友人に掛けてやれる言葉を見つけた。
どうやら転入生・影見河夕は雪子の好みには当てはまらなかったらしい。
あの、いつもどおりの態度がそれを物語っている。
彼女が感情を素直に口調や態度に表す少女だということを、岬は誰よりも知っている。二人はあれこれと言いながらも既に十三年の月日を一緒にいるのだから。
(それにしても…)
そっと広報に目をやり、あの転入生を盗み見た。
相変わらずの無表情。
おそらく授業の内容も聞いていないのではないだろうか。
(…けど、なんで2時間目なんて中途半端な時間から来たんだろ…)
そして、何故そのことに関して誰一人気にした素振りを見せないのだろう。
岬の心には幾つもの疑問が生まれ、けれど世界史の授業は別名・子守唄とも呼ばれており、いくら美貌の転入生が来たからといってこの日が例外になるはずもなく、岬の疑問は睡魔に支配され消えていこうとしていた。
そうして時間は過ぎ、眠りかけていた岬の意識はチャイムの音に現実に引き戻される。
十分間の休み時間を経て英語、化学と授業は続き、昼休み。
午後には数学と古典という科目が続いた。
ひたすら一日の授業終了のチャイムが鳴り響くのを待ちながらの六時間目。
三時十五分。
生徒達の待ち望んだ放課後へのチャイム。
それは彼らに大きな解放感を与え、教室内は一斉に騒がしくなった。
と同時に、今日だけで何度目かになる異様な光景が、再びこの教室で繰り返されようとしていた。
(……また来た)
岬は扉の向こうを眺め、呆れた溜息をついた。そこに見られるのは男女問わずの人垣。
(そんなに毎時間来るほどのことなんだろうか…)
季節外れの転入生――しかも超絶美形の影見河夕を一目見ようと、彼がやって来てからというもの授業が終わるたびに人が集まり、出入り口は塞がれ、影見河夕は完全な見世物になっていた。
それに意見するのは松橋雪子。
ただしその人垣ではなく影見河夕に対してだ。
「普通これだけされたら赤くなるとか怒鳴るとかしてもいいもんじゃない?」
岬に近づきながら、雪子は心底不満そうに呟く。
「なのに彼、この教室に来てからずっとあの顔、あの状態。おかしいと思わない?」
耳打ちするように、小さな声でそう続ける。確かに同じことを岬も思った。
けれどそうではなかったことを、彼は知ることになる。
影見河夕の、ささやかな変化から。
(あいつ…)
胸中で呟かれる言葉。
岬は立ち上がり、雪子の肩に手を乗せた。
「呼んだらすぐについてきて」
たったそれだけの言葉を、雪子にしか聞こえない声量で告げ、まず手近にあった紙くずを後ろ扉の人垣に投げつけた。岬の思惑通り、小さな驚きの声と同時に作られた細い通路。
その一瞬を見逃しはしない。
岬は駆け出す。
「岬ちゃん!」
雪子がそう叫ぶのと、岬が河夕の手を取るのが同時だった。
「こいっ!」
それが雪子に向けられてのものなのか、または突然のことに呆然となった河夕に向けてのものなのかは定かではなかったが、とにかく岬は河夕を引っ張り、物凄いスピードで教室を駆け抜け、それに雪子も一歩遅れてついていく。
人垣の中、わずかだった細い道が生徒達の条件反射で広がった。
「えっ」
「あ!」
「ちょっ、高城君?!」
数人の女生徒がようやく我に返って声を上げるも、既に三人の姿は遠かった。
その一方で教室を駆け出した三人は、屋上へとつながる階段を駆け上がっていた。
岬が扉を押し開けると同時に冷たい風が彼らを取り巻き、厚い雲に覆われた空が彼らを迎えた。
屋上の広い面積のちょうど中央まで進み、彼らは立ち止まる。三人が三人とも、それぞれに
深呼吸を繰り返していた。
「なっ…なに、おまえ…」
息を切らしながら最初に口を開いたのは、一番状況を判っていなかった影見河夕。その場に座り込み、上目遣いに岬を見据えた。
その横では雪子も息を切らしながら、岬の返答を待っている。
「なんで、こんなこと、したのかって、聞きたいんだろ?」
岬も息を弾ませながら、転入生の言いたくとも言えないらしい言葉を補う。
「はぁ…、俺が、納得、いくように、説明して、ほしいんだけど」
微かに怒りの含まれた口調で河夕は言う。
「納得のいくようってに言われても…、ただ言えるのは、君のためと思ってしたことだったんだけどな」
「影見君のため?」
「俺の?」
岬は頷く。
「だって影見君、キレる一歩手前だったじゃん」
「!」
「影見君が怒る寸前だったっていうの?」
河夕と雪子の表情が対照的に変化する。笑顔で再度頷く岬に、雪子は続けた。
「うそだぁ。影見君、全然そんな気配なかったじゃない」
「そんなことないってば。結構イライラしてたと思うよ。ここに皴が寄りそうだったし」
言って岬が指差すのは自分のこめかみ。河夕は驚きに目を見開く。
「で、普通にこっち来てって言っても聞いてくれなさそうだったから、じゃあ不意打ちでいってみようかなと思ってこうなったの」
「…なんで、おまえ」
「なんとなく。影見君の顔がそんな感じだったから、そうかなって。自信あったわけじゃないけど、当たりだろ?」
屈託のない笑顔。これが高校一年生の男子生徒がする顔なのかと、河夕だけでなく雪子でさえ思わずにはいられない。
「…おまえ、変かも」
「なんだよそれ」
河夕の小声での呟きに、岬はすかさず返した。少しばかりムッとしつつも、本気で嫌な気分になっているわけではないと、その場の誰もが判っている。
「そっか、昔からそうだったもんね。機嫌が悪い人とか、悲しそうな人とかすぐに見分けちゃうんだもの」
「たまたまだよ。それにいつも当たってたわけじゃないし」
「そんなことないじゃない? 岬ちゃんがいたから元気出たって人、何人も知ってるもん」
「大袈裟だよ」
「…岬、ちゃん?」
幼馴染同士の二人の話の内容よりも、その呼び方の方が河夕には気になった。意外そうな表情で自分を眺める転入生に、その呼び方のせいでこんな目で見られるんだと思った岬は雪子を睨む。
「岬ちゃんはやめろって言ってるのに」
「いいじゃない、可愛いんだから」
高校生男子が可愛いと言われて喜ぶようでは問題があると、雪子は解っているのかいないのか。それはともかくとして、河夕は何か思うことがあったらしく確かめるように尋ねてくる。
「岬って、四城寺の跡取りの高城岬か?」
「朝、自己紹介したの聞いてなかったのか? あれ、でも家が寺だって言ったっけ? それに跡取りなんて…」
「ああ、いや、いいんだ」
「?」
そうして一人で考え込んでしまう転入生に、岬と雪子は顔を見合わせ首を傾げた。
なぜ、今日会ったばかりの彼が、そんなことを知っているのだろう。
そもそも「跡取り」というのが解らない。岬には兄がいて、寺は彼が継ぐことになっているのだから、岬がそう呼ばれる理由がないのだ。
「…雪子が何か言った?」
「まさか。そんなことを話すような時間なんてなかったの、岬ちゃんだって知ってるでしょ?」
彼女の言うことに間違いはない。
岬だってそう思う。
(…なんか…綺麗だけど変な奴…)
同じ男に対して『綺麗』なんて形容詞を使うのは気が引けたが、しかしそれしか思い当たる表現の仕方が判らない。
相変わらずの無表情だったが、先刻までより人間らしくなった影見河夕は、教室で見るより全然かっこよく見えた。
「…ま、さっきのことは助かった。礼を言う。初日から印象最悪じゃ色々と不都合だからな」
「ううん、どういたしまして。それより…あ」
岬の言葉を遮るかのように立ち上がった河夕。
「影見君、学校案内は…」
「いい」
簡潔に拒んで、河夕は背を向けた。
「外が明るいうちにさっさと二人で帰るんだな。最近妙な事件が多いんじゃないのか?」
「え」
(そんなことまで知ってる?)
河夕の姿が階段の下へと消えていく。
岬は駆け足で階段の手摺まで近づき、河夕の背に声をかけた。
「じゃあ明日の朝! 八時に教室でな、影見君!」
その時間から学校案内をするという意味でかけた言葉だったのだが、河夕はそれを理解しただろうか。
「クンなんていらねーよ。影見でいいぜ、跡取り」
「跡取りじゃなくて岬だ! 高城岬!」
そう大声で返したが、河夕の姿は既になかった。
数秒の沈黙、不満げな表情を見せていた岬が、不意にはにかんだ笑みを浮かべる。
「影見、か」
「え?」
岬の小さな呟きに雪子が反応する。
けれど岬は応えなかった。
ただ静かに、突然の転入生・影見河夕の消えた階段下を眺めていた。
◇◆◇
理由もなく突然、西海高校の窓ガラスが全壊した。
それが怪事件の始まりだった。
その日から一日、二日おきに起きる奇怪な現象。被害は校内だけに止まらず民家へと広がっていった。
そうなった頃から岬の家には客の足が絶えなくなり、その結果が現状を招いたのである。
そうして数日。
岬の文句を聞いていた父親は、彼にこんな話をして聞かせた。
「これは悪霊や怨霊の仕業ではないよ、岬」
「え?」
「これは闇の魔物の力なんだ」
岬が初めて聞く内容の話。
人の悪の心を糧にする魔物は闇に属することからそう呼ばれ、人身を我が物にして悪事を働き、腹が減れば人を食らう。
「闇の魔物は人の手ではどうしようもない。どうにかできるのは闇と戦う為に存在する一族の者達だけなんだ」
「一族…?」
「闇狩と呼ばれる一族だよ。闇の魔物が現れれば、必ず現れ人間を救う一族。それが闇狩の名を持つ者」
「…なら、待っていればその一族の人が来てくれるの?」
「あぁ、きっとな」
父親は、話を終えると再び境内へ戻っていった。
その狩人が来るまでは自分がこの町を守らなければいけない、それは父親の決意。
その背を見つめながら、岬は願う。
もし本当にこれが闇の魔物の仕業で、これを狩る一族・闇狩という存在があるのなら、一刻も早くこの町の状態に気付いて欲しい。
そして少しでも父親の負担が減るように。
体が回復しますように。
どうか、早く。
一日も早く、この町を救って下さいと――――。