時空に巡りし者 四
その夜、高城家の居間には岬と雪子と、三人の狩人達。
河夕の手には、今朝の教室で机の上に置かれていた岬宛のチョコレートがあり、光の手には一緒に添えてあったメッセージカード。
それを、有葉が光の背中越しに覗き込んでいた。
「…で、おまえはこのカードの文字が、その家出したっていう女の文字だって言うのか?」
厳しい面持ちの河夕に問われて、岬は躊躇いがちに頷く。
「うん…、代表委員会で何度も先輩の文字は見てるから…たぶん、間違いないと思うんだ」
「…」
岬の返答に、河夕は光と顔を見合わせ、難しい面持ちで息を吐く。
有葉の顔にも暗い影が落ちたように見えて、岬は不安を募らせ、雪子は苛立ちを抑えられない。
「影見君! 緑君も、何か判ったならちゃんと教えて頂戴。そんな風に自分達だけで暗くなったりされたら岬ちゃんが不安になるでしょ!?」
「…」
雪子の言うことは正論で、河夕はしばらく考えた後、そっと菓子の包みを卓上に戻した。
「……この女の失踪は、家出なんかじゃなさそうだ」
「え…」
「それって、…どういう意味?」
「…この包みから、微かだが魔物の邪気を感じる」
「!」
「魔物……っ?」
まさかという疑いと、…その一方で「もしかしたら」という予感があった。
同じ代表委員会で幾度となく接してきた碓井みな、彼女が、どんな理由があったにせよ家出などする人物ではないことを岬も雪子も知っている。
そして同時に、彼女が闇の魔物に憑かれるような、心弱い人間でないことも。
「…碓井先輩、すごく優しい人なんだ」
ぽつりと呟く岬に、その場の全員の視線が集まる。
「……ちょっと気が強くて、何でも出来ちゃう優秀な人っていうイメージがあるから敬遠されがちだったけど…でも本当はすごく優しくて女の子らしい人だよ」
素直に甘えることが出来なくて、多少の雑事は全て自分一人で背負い込もうとする人。
そんな彼女に幼馴染の姿が重なったり、つい作業を手伝ってしまったことがある。
余計なことはしないで、と気を悪くされるかと思いきや、その時の、彼女の真っ赤な顔や、言い馴れないのか必死に紡ごうとする「ありがとう」の言葉を、岬ははっきりと覚えている。
「そんな先輩が…闇の魔物に憑かれるなんて…そんなこと…」
沈んだ声音が微かに震えている事に気付き、河夕は難しい顔を更に顰めた。
(…ったく、こいつは…)と内心で息を吐きながら、少年の柔らかな髪に手を伸ばす。
「勝手に落ち込むな。俺は、この女が魔物に憑かれたとは言ってないだろ」
「…え?」
思わず聞き返した岬と、雪子に、河夕は小さく頷く。
「確かにこの包みに邪気は感じる。けど憑かれた人間の邪気とは微妙に違うんだ」
「ええ。憑かれたと言うよりは、魔物に連れ去られたと表現する方が正しいでしょうね」
光も同意するように言葉を繋ぎ、河夕が卓上に置いた菓子の包みを有葉に手渡す。
「…どうですか? この菓子に悪意のようなものは?」
「―――、全然ないよ。このお菓子、岬ちゃんのために用意したっていう気持ちがこもってる。お姉さんの優しい気持ち…すごく暖かいよ」
少女の答えに、光は微笑して菓子を受け取り、卓上に戻した。
「有葉様には人や物を覆う感情を読み取る能力があるんです。この場合は包みに残された持ち主の感情ですね。有葉様がこう言われるなら、碓井さんは闇の魔物に憑かれて姿を消したという可能性は消去出来ます」
光は断言し、だがその一方で包みに魔物の邪気が残されている事実は消せず、彼女が魔物に連れ去られたという推測は否定出来ない。
…魔物に連れ去られた以上、その命の保証は―――なかった。
「疑問なのは、何故、魔物が連れ去った人間が持っていた贈り物を相手に…この場合は岬君ですが、こうしてちゃんと届けるような真似をしたのか……」
「普通は考えられないんだがな……」
そうして再び二人で難しい顔をする河夕と光に、岬と雪子は口を閉ざすしかなかった。
光は明言しなかったけれど、魔物に憑かれたわけではなくとも、魔物に連れ去られた彼女が現在も無事でいるのかどうか…、その可能性が限りなく低いことを二人は知っている。
魔物に関わった人間の“死”を、何度も目にしていたから。
「…」
それきり、誰も何も語らない息苦しい沈黙が続き。
不意に、河夕が低い声で隣の狩人を呼ぶ。
「…とりあえず、光」
「ええ。本部に連絡を取って蒼月殿か白鳥殿に碓井みなの捜索を頼みましょう」
呼ばれた狩人は、相手の意図を正しく察して、即座にそう返した。
魔物が関わっている以上、人間がどれほど多くの人員を確保して彼女の捜索を開始しようとも、狩人一人の能力には敵わない。
彼ら闇狩一族には、それだけの力と技術が備わっているのだから。
「では、そうと決まったら早速…」
本部に連絡すべく、この場をお暇しましょうと光が立ち上がりかけた、その一瞬。
「!!」
河夕、光、そして有葉。
狩人三人の神経に触った異質な気配。
「岬君、雪子さん」
「え?」
「光さん?」
「静かに」
「絶対に有葉達の前に出ちゃダメだよ」
光がすかさず二人を背後に庇い、有葉がその横に立ち。
河夕は気を張り詰めながら外へ向かう。
襖を開け、庭に面した雨戸の奥。
「―――」
刹那の閃光。
見えない力の衝撃。
「誰だ!!」
手も触れずに勢い良く開け放たれた雨戸。
その激しい衝撃音に重なって響く河夕の怒声。
思わず耳を覆い、目を背けた岬と雪子。
――だが、それきり。
「―――………?」
返されたのは、夜闇の静寂。
「なに……?」
「え…?」
光と有葉も目を疑う。
あれほど強烈に感じた闇の気配が、開けた視界には残り香すら映らなかった。
「どういうこと…?」
問うても、誰に応えられるはずがなく。
河夕は不審に思いつつ庭に出た。
だが、やはりこれと言った異常は何もなく、屋内の仲間の疑問に満ちた表情と、戸惑っている様子の岬、雪子を順に見る。
「…何もない」
「……そのようですね」
「あんなに大きな闇の気配だったのに…」
有葉の呟きに、岬は背筋を冷たいものが伝う感覚に体を震わせた。
大きな闇の気配。
また、闇の魔物。
「あ…、お兄ちゃん」
兄が降り立った庭の隅に何か細いものが落ちている事に気付いた有葉が、そちらを指差す。
「ほら、そこ。何かあるの」
少女に誘導されるようにして、それを見つけた河夕は、傍まで歩み寄り、膝を折って拾い上げた。
落ちていたのは一本の折りたたみ傘。
そして…。
「あ、それ岬ちゃんの傘じゃない?」
「え…」
雪子の言葉に、岬も身を乗り出してそれを凝視する。
男物の、濃い色の折りたたみ傘。
「…」
確かにそれは自分のものだけれど。
……けれどそれは、自分の記憶に間違いがなければ。
「…それ……」
「岬ちゃん?」
「岬君?」
彼の震えた声音に、…真っ青な顔色に、雪子と光は異常を察した。
「どうしたの、岬ちゃん」
「あの傘に何かあるんですか?」
「そ、れ……」
「岬?」
「それ…前に貸したんだ…」
「貸した?」
「中学の時の同級生が…駅前で傘なくて困ってて……俺、亮一や勝と一緒だったし…家、そんな遠くなかったし……」
彼女の家がもう一つ駅を越えて、そこから徒歩で三十分近く掛かることを知っていたから。
「だから貸したんだ…俺、矢口に、それ貸して……」
矢口という姓に、雪子の脳裏にはすぐに一人の少女の姿が浮かぶ。
岬の中学時代の同級生は、そのまま雪子の同級生でもある。
そして彼女の思い人が誰であったか。……雪子はそれも知っていた。
「…その矢口って、もしかして女か?」
唐突な河夕の問い掛けに、岬と雪子は目を見張った。
何故、矢口景子が少女だと解ったのか。
そんな二人の疑惑を解消するように、河夕はもう一つ、傘と一緒に庭に落ちていた包みを岬に投げて寄越した。
可愛らしい包装紙でラッピングされたそれは、間違いなくバレンタインの贈り物。
中身はきっとチョコレート。
「その字は、矢口って女の字か?」
「…っ!」
包みに書かれた「高城君へ」の文字。
見たことのある丸みを帯びた字体。
「……っ!!」
雪子は立ち上がり、居間の片隅に置かれた電話に手を伸ばした。
その正面のコルクボードに、中学の時の連絡網がそのまま張られていることを、頻繁に高城家を訪れる雪子は知っていた。
指先で矢口景子の名を追い、そこに書かれていた番号を押す。
コール一回。
わずか一回で繋がった回線は、…そのまま、向こうの状況を伝えてくるようだった。
「あの…こんな時間に済みません。私、中学の時の同級生で松橋と言います……」
雪子の、緊張に強張った声音は次第に力を失くし、直後、その場に崩れるように膝をつき、頭を抱えた。
「…」
何が起きたのか、誰もが正しく察してしまった。
碓井みなに続いて、矢口景子も姿を消した。
高城岬宛に、一つの贈り物を残して……。
「…光。松橋の傍を離れるな」
河夕の命令に、光は即座に頷く。
「本部に連絡を入れて二人の捜索を開始させたら、後はずっと松橋の傍にいろ。…何があっても、あいつを奴らに奪わせるな」
「御意」
「有葉、おまえは岬の傍から離れるな。いいな」
これに、有葉も強く頷き、岬の傍から離れないことを約束する。
離れない。
奪わせない。
もう二度と、大切な人を失わないように。
大切な人を、河夕に失わせはしないために―――。
「俺は街の様子を探ってくる。後は頼む」
「!」
河夕がこの場からいなくなくると知って、岬は思わず手を伸ばした。
「河夕…っ」
腕をつかまれ、振り返った先に、今にも泣き出しそうな岬の姿。
「……心配するな。すぐに戻る」
「でも…」
「光と有葉が傍にいる。もう誰も連中に攫わせたりしない」
「……でも……」
河夕の言っていることは解る。
解るけれど、…手を離せなくて。
「…」
不意に河夕が何かを首から外し、その鎖を岬の首にかけた。
銀製のチェーン、その中央には銀色の指輪。
「ぇ…これ……」
「お守りだ。大事な物だから、失くしたりするなよ」
「河夕…」
「それ持って、さっさと寝ろ。考え過ぎない内にな」
勇気付けられる優しい笑みを見せられて、岬は銀の指輪を手に握る。
「…うん」
そこから伝わる熱い何か。
岬は胸に鈍い痛みを感じつつ、河夕の腕を掴む手を外した。
「また後でな」
「…うん……」
それきり、闇の中に消えていく河夕の姿。
手の中の銀の指輪が、ほんの微かに震えていた……。