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闇狩  作者: 月原みなみ
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夢に囚われし者 三

 清々しい朝である。

 ぴんと張り詰めた空気のせいか、青く晴れ渡った空はいつも以上に高く広がり、吐息は白く色づく。大地に張った氷や霜を踏み壊すのは登校途中の子供達の楽しみだ。

 朝の七時五十分。

 雪子は四城寺の本堂前に立ち、母屋から岬が出てくるのを待っていた。

 ここで待ち合わせ、一緒に学校に行くのが二人の昔からの朝の光景。

 本堂から三十歩ほど離れたところに高城家の玄関があり、十分ほど前にそこから出てきた住職は、コートの中に首をしまいながら岬を待つ少女に人知れず微笑んだものだった。

(今日は元気かしら、岬ちゃん)

 表情には出さずに心配し、チラと玄関を一瞥した。

 同時に戸が開かれたのに少なからず驚き、実際に現れた人物を目に留めて、雪子は自分の目を疑った。

「かっ、影見君!?」

「ん?」

 呼ばれて顔を上げたのは間違いなく影見河夕、その人だ。

 河夕はそこに雪子がいるのを知り、すぐに目元を綻ばせる。

「よぉ。久しぶりだな。元気だったか?」

 たいして久しいとも思えない口調で話しかけてきた河夕に、雪子は眩暈を覚えた。

「なっ…なんでいないはずの影見君がそんな地味な縦縞パジャマにはんてん被って岬ちゃんの家から出てくるわけ!?」

「あぁ? 昨夜、この辺で物を落したみたいでさ、探しに来ようとしたら、そこで岬のお袋さんにそんな薄着じゃ風邪引くってこれ着せられて…、言っとくがこのパジャマは岬の親父さんのだぞ」

「そんなコト聞いているんじゃないわよ! 一体いつ帰ってきたの!?」

「岬と会ったのは昨夜の六時か七時か……」

「じゃあそのまま岬ちゃんの家に泊まったわけ!?」

「成り行き上な」

「なんてずるい事を…っ」

 ずるい、ずるくないの問題ではないのだが、ともかく雪子の頭の中は、突然帰ってきた岬の大親友が、そのまま岬と一つ屋根の下で過ごしたと言うのが大問題である。

「恋愛よりも友情、岬ちゃんてば絶対にそっちのタイプだもの…っ、岬ちゃんに何もしてないでしょうね!」

「俺があいつに何するって?」

「寝込み襲うとか」

「松橋じゃあるまいし」

「あら、私だってそこまではしないわ。せいぜい寝顔の写真撮って、枕元に飾っておくくらいよ」

「充分怪しいだろ」

 雪子の本気とも冗談ともつかない発言に、河夕は軽く笑って見せた。雪子にとって河夕は、唯一隠し事が出来ない相手。なものだから、雪子がこういう少女である以上は、たとえ一年離れていようとも彼らの間が変わることなどないように思う。

 昨年十月の騒動に決着をつけてから、ただここに滞在していた約一月。岬に言わせれば、この二人の仲は日を追うごとに衣着せないものになっていったと言う。

「けどびっくりしたぁ。帰ってくることも岬ちゃんに連絡なしで帰ってきたんでしょう?」

「ここに来ようと思ったその日だからな。それで葉書でも出そうものなら、いなくなってから届くだろ」

「いなくなる…って、またどっか行くの?」

「そりゃあな。休み無しなんだよ、俺達の仕事は」

「ふーん…」

 河夕の正体を知っている身としては、それで納得しないわけにはいかない。

 岬が言えばどうしてそれで納得するのかと息巻く雪子も、本人に言われれば、不満はあるものの口を噤むしかなかった。

「でもなぁ…」

「悪いが、少しの間だけ静かにしていてくれ」

「え?」

「言ったろ、落としモンを探しに来たんだって」

 言うなり、姿勢を正して目を閉じた河夕の唇が音にはならない言葉を紡ぐ。

 それに呼応するかのごとこ騒ぎ始める周りの木々。

 風のせいなどではないことが、普通の人間である雪子にも解った。

 河夕を取り巻く気が膨らみ、不可思議な圧力が掛かってくる。

 そうして数秒、茂みの中から小さな物体が飛び出した。

「きゃっ」

 雪子の眼前を物凄い勢いで通り過ぎていったそれを、河夕の手が受け止める。

「今のが…、影見君の落し物?」

「ああ、便利だろ。呼べば出てくるんだからな」

「呼べばって…」

「特殊能力者の特権だろ」

 何でも無い事のように言ってのける河夕に、頭を悩ませそうになった雪子だったが「それも闇狩」と自分自身に言い聞かせ、河夕の手の中を覗き込んだ。

「何を落としたの?」

「指輪」

「指輪…って、影見君、そんなのしてた?」

「俺がするように見えるかよ。チェーン通して首にかけてたんだ」

 言いながら、手を開いて雪子に見せたそれは、銀の指輪だった。

 ダイヤやそれに相当する飾りなど何も持たない、本当にただのリング。

 けれどそれが、この指輪の本当の姿だと思う。

 もし何らかの細工を施せば、その瞬間にどうでもいいものになってしまいそうな儚さと、手にするものを魅了する強い輝き。

 河夕がそれにチェーンを通し、自分の首にかけるのを“ぼおっ”した顔で眺めていた雪子は、河夕の苦笑めいた笑い声で我に返った。

「どうした」

「え、あ、…うん。すごく綺麗だから…」

「そうか? 俺はあんまり好きじゃないけどな」

「好きじゃないのに持ち歩いてるの?」

 聞き返されて、河夕の表情が微かに翳る。だがそれを相手には気付かせずに続けた。

「いつもしている物がなくなると気になるだろ」

「それは解るわ」

 自分も、いつも元気な岬が落ち込んだりしていると気になって仕方がない。

 指輪と人間を同一に考えてしまうのはどうかと思うが、それはともかくとして、その岬が現在進行形で元気のないことを思い出すなり、雪子は自分がずっと河夕の帰りを待っていたのだと思い出す。

「じゃあ影見君がいなくなっちゃう前に決着をつけてもらわなくちゃ」

「決着?」

「そうっ、岬ちゃんに纏わりついている戯け者との決着よ!」

「戯け者…?」

「学校でいじめられてて、この四城寺の奥の林で自殺しようとしていたのを岬ちゃんが助けたんだけどね、それから岬ちゃんてば毎日そいつに呼び出されてるのよ!」

「それであいつ…、言いなりになってるのか」

「放課後ずっとね! 暗くなるまで帰って来ないんだから!」

「あいつ、そういうの放っておけないからな」

「優しすぎるのよ岬ちゃんは!」

「今に始まったことじゃないだろ」

「だから許せないんじゃない!」

 そう続けて、一人文句を並べ出した雪子。

 河夕はそんな彼女から目を逸らし、もうすぐ岬が出てくる高城家の玄関に視線を送った。昨夜、あんな場所で彼を見つけたのも、おそらくその帰り道だったのだろう。

「そいつ、名前は?」

「谷山って言ってすっ……ごく暗い奴よ! 岬ちゃんがこんなことになるなら、あの時に助けたりするんじゃなかったわ!」

 随分な事を言う雪子であるが、今までのことを考えれば無理のない話。

(自殺志願者の谷山か、…調べてみる価値はあるな)

 一度死を選んだ者なら、闇の魔物を生み出すことも可能だからだ。

 昨夜、仲間の青年と話していることもあり、良くないことの芽は早めに摘んでおかなければならない。河夕がそう結論付けた頃、ようやく岬が家屋から出てきた。

「何を朝からわめき散らしているのさ。家の中まで聞こえたよ」

「岬ちゃんのせいでしょう!?」

 ビシッと指を突きつけられて、岬は反射的に後退り、河夕はそんな友人に声を殺して笑っている。自分がどうにも敵わない少年にも反抗できない相手がいるのだなと、そんな当たり前のことが妙に嬉しい。

「……まあ、話の内容は分かるけど」

「だったら改めて欲しいわ岬ちゃん!」

「だからそういうわけにもいかないだろ」

「今日もそいつの所に行くのか?」

 河夕が響きのいい声で二人の間に割り込んだ。

「うん…、でもすぐに帰ってくるよ。河夕がやっと戻って来てくれたんだもん」

「それでも行く!?」

 雪子が信じられないとわめく。

「だって、一応ちゃんと断らなかったら、それこそ失礼だろ」

「あんな奴、相手にすることないわよ!」

「雪子…」

 呆れてしまった岬に、なおも続く雪子の口撃。

 岬が「行かない」と言うまで続きそうな様子に、河夕は苦笑混じりに二人の頭を小突いた。

「早く行かなかったら学校遅刻するぜ」

「――」

「何だよ」

「いや…、授業に出ない奴の台詞じゃないな、と思って…」

「ほぉ。今すぐ帰ってもいいんだぞ」

「っ」

 岬をからかう目的で、意地悪で言ったつもりだったのだが、言ってすぐに後悔する。

 河夕のはんてんの袖をぎゅっと握って、自分を見上げる岬の、不安に揺れる眼差し。

「影見君!」と、こちらは冗談でもそんなこと言わないでという雪子の叱責。

(まいった…)と後頭部を掻きつつ、河夕は深く息を吐いた。

「冗談だ。おまえが帰ってくる頃にはちゃんとここにいるよ」

「…絶対?」

「絶対。約束するから、さっさと学校に行けって。もう八時になるんだぞ?」

「うん…」

「ほら」

 それでも不安そうな岬と、

「間違いなくここにいるのよ!」と念押しする雪子を見送って、二人の姿が見えなくなった頃に河夕は周囲の気を探る。

 もしやあの青年が近くに潜んでいやしなかったかと警戒したのだ。

 万が一、あいつに今の遣り取りを見られていたなら後が恐い。

 だがそれは杞憂だったらしい。

 範囲を広げて探っても、仲間のものと思われる気配はない。

 しかし、どこからどう見ているかなど、当の本人しか分からなかったりするのであるが……。


 ◇◆◇


「今日の高城君は顔色いいんじゃない?」

「でしょ? 私もそう思って聞いたら、昨夜はぐっすり眠れたんですって」

「ってことは原因は寝不足か」

「あの谷山のせいでね!」

「谷山…? ああ、高城君に纏わりついている彼のこと?」

「そいつ、谷山じゃなくて岡山だろ」

「どうでもいいわよっ、名前なんか!」

 放課後の教室で、雪子は数名の同級生と机を並べて菓子を広げていた。

 中には木村優や田沢勝の姿もある。

「雪子ってば本当に嫌ってるのね、その岡山君のこと」

「だってあいつのせいで岬ちゃんが体調崩しているとしか思えないだもの!」

「まるで母親ね」

 優が笑って言うことに、雪子は頬を膨らませる。

 何故そこで出てくるのが“母親”なのか。

(そんなにお世話ばっかり焼いているように見えるのかしら)

 これは一つ、河夕に確かめて見なければなるまいと思った。

 そこに、今まで職員室に行っていた岬が帰ってくる。

「お、高城、先生なんだって?」

「学級委員長に任せるってさ」

 彼らが言うのは、来年はクラス替えでばらばらになってしまう同級生で、最後に何か思い出に残るようなことをしようという提案から企画され、終業式の前日に体育館を貸し切って行うことになった学級レクリエーションについてだ。

 どんな内容のものがいいのか岬が担任に確認してきたところ、今のような答えが返ってきた。

 そしてその企画を考える為に、放課後であるにも拘らずクラスの半数が教室に残って菓子をお供に会議中というわけである。

「じゃあやっぱり球技かな。ドッヂとか」

「高校生にもなってドッヂボールかよ」

「でもバスケやバレーだと男女一緒にってわけにいかないじゃん」

「体育館じゃなくて校舎全部貸切りにしてかくれんぼ」

「絶対無理」

「男女ペアでクイズ勝ち抜き。優勝者にはミス西海からキッスと花束!」

「はぁ?」

「断固拒否」

 ミス西海、雪子本人にギロリと睨まれて、無謀な提案をした男子生徒が「あはは…」と空笑い。

 その隣で優が大仰な溜息をつく。

「だいたい雪子のキスで男子は嬉しくたって女子はねぇ…」

「じゃあ女子で投票でもして今回限りのミスター決めるとか」

「このクラスのどこに候補者がいるって!?」

「ひでぇっ、そんな言い方ないだろ」

「鏡見て物言いなさいっての」

 容赦なく切り捨てられて撃沈していく男子諸君の様子に、困り顔の岬。

 その背後から小さな笑い声が聞こえてきた。

「?」

 なんだろうと振り返った岬の視界に映ったのは、全体的に色素の薄い、長身の青年の姿。

 栗色の柔らかな髪が廊下の窓から射し込む陽に揺れて、ただでさえ整った容貌が、今は光り輝いて見える。

「僕のキスで喜んで下さるなら協力させて戴きますよ?」

 突然の申し出に、そちらを振り返った十人以上の生徒達が、男女問わず相手の容貌に目を奪われ、息を飲んだ。

 日本人と言われれば日本人、だがどことなく異国の貴公子然とした柔らかな美貌と物腰は、まるで御伽の世界の王子様だ。

「ぁ…」

 こちらも目を奪われていたものの、岬と雪子がほとんど同時に声を上げる。

「昨日の通りすがりの占い師さん!」

 雪子が言うと、昨日の放課後、彼女達二人にキャンディを手渡し、待ち人に逢えることを予言して去って行った占い師は、形の良い口元を綻ばせ、静かな微笑を浮かべた。

「憶えていて下さって光栄です、松橋雪子さん」

 そうして、彼も雪子のことを覚えているのだと証明してみせる。

「どうしたんですか、こんなところで…。まさか校内で占いの仕事を?」

「そんなところです。依頼主の捜し物が、この辺りにある気がしたものですから」

「捜し物も占い師さんのお仕事なんですか?」

「頼まれたなら何でも引き受けますよ」

 にっこりと笑む占い師に、女子の群から感嘆の吐息が漏れる。

 占い師はそれに気付いているのかいないのか、相変わらずの微笑みを、今度は岬に向けた。

「岬君。僕が言ったことは当たりましたか?」

 問われて、岬は「はい」と笑顔で頷く。

「逢えました、一番逢いたかった人に」

「それは良かった。占い師にとって一番の喜びは、お客さんが当たった占いに喜んで下さることですからね」

 告げて、占い師はゆっくりと岬に近づき、その顎を取る。

「えっ」

「きゃあっ」

 顎を取られ、近づいてくる青年の顔に、岬は驚きのあまり言葉が出ず、周囲の生徒からは妙な悲鳴とどよめき。

「――今日は顔色も良いようですね」

「……は?」

「昨日はすっかり疲れ切っているようでしたから。あまりお友達に心配をかけてはいけませんよ。雪子さんや、せっかく会えた影見某さんに」

「はぁ…」

 困惑しつつも素直に返事する岬に、占い師は優しい微笑を湛えて手を放した。

 同時に周囲から上がる安堵とも落胆ともつかない微妙な感情を含んだ吐息の数々に、周囲の思惑を読んだ青年は小さく笑う。

「まさか僕が岬君にキスをすると?」

「だって…あんまりに突然で」

「いくら僕でも場所は選びますよ」

「……」

 そういう問題だろうかとも思うが、当の本人がこの調子では何を言っても無駄である。

 内心で雪子が(やっぱり岬ちゃんは妙な美人さんと縁付いてる…)と呟くころ、ようやく正気を取り戻した優が遠慮がちに口を開く。

「あ、あの…ところでさっきの話は、本当ですか?」

「はい?」

「その、協力してくれるっていう……」

 さすがにあからさまにキスとは言えず、言葉を濁す少女の周りでハッとするのは男子諸君。

「ええ、頼まれればどんなことでもお手伝いしますよ?」

「反対! 反対反対反対反対!!」

 すかさず諸手を上げて抗議するのは田沢勝。

「その人は部外者だろ!? 今回のは一年最後の思い出作りなんだぞ、部外者は絶対反対!」

「うるさいっ」

「そうよ、男子が雪子のキス目当てなら私達だって王子様がいてもいいじゃない!」

「ちょっと待ってよ! 私まだ一言もいいなんて言ってないっ!」

「ってーか男女ペアのクイズ勝ち抜きにするかどうかだって決まってないんだから、そんな勝手なこと駄目だって!」

「とにかく部外者は断固反対!」

 なんだかもうどこに論点があるのかも不明になりつつあるクラスの論争に、岬はがっくりと肩を落とし、隣では占い師が愉しげに笑っている。

「元気な学級ですね」

「それはそうなんですけど…」

 言いかけて、しかしその直後に岬の言葉は途切れた。

 ガタッと教室の扉にぶつかってきた人影。

 小柄で、大きすぎる学生服には所々に幾つもの染みが広がり、無造作に伸びた髪の毛が尚更その外観をみすぼらしく見せていた。

 しかし岬の意識は、そんな外見のことよりも、この少年が学校に来ていたという事実に驚かされ、それ以外のことなど考える余裕もない。

「岡山君!?」

 教室に倒れこんできた少年、岡山一太に駆け寄り、岬はその体を抱き起こした。

「どうしたの! いつから学校に来ていたの!?」

 優や勝達も今までの論争など忘れ、突然の事態に呆然とする他ない。

「あっ……あっ……」

「岡山君! 俺だよ、岡山君!」

「あっ…岬……岬……!」

 しがみつくように抱きついてくる一太を、岬は拒まない。

「岬に会いたくて来たんだ…っけど……けどクラスの奴ら皆して僕をいじめるんだ、僕を嘲うんだ! なんで小学生がこんなところにいるんだって笑って! 僕を虐めるんだ!」

「岡山君、とにかく立って」

「僕帰る…もう二度と学校になんか来ない…大嫌いだよこんなところ!」

「…岡山君、立つんだ」

「一緒に来てよ岬……来てくれるよね!? 友達だよね僕達!」

 泣きながら訴えてくる一太に、まさか岬が断れるわけがない。

「わかった。…わかったから。家まで送っていくから、ほら、立って。……ね?」

「岬……っ、僕は岬さえいてくれればいい…っ、岬だけでいいんだ!」

 立ち上がった岬は、申し訳なさそうに雪子を見る。

 あまりの展開に、さすがの雪子も言葉を無くしているようだった。

「…雪子。悪いけど、後のこと頼んでもいい…?」

「え…う、うん…」

「ごめん。……勝、俺のコート取ってくれるかな」

「あ、ああ!」

 狭い教室を駆けて、勝が岬のコートを持ってくると、それを優が受け取り、一太にしがみつかれた岬の肩にかけてやる。

 岬が何も言わないうちに鞄に授業道具を詰め、手渡してくれたのは亮一。

 岬には、クラスの皆が優しかった。

「ありがと。じゃあまた明日」

「ああ……」

 連れ添って教室を出て行く二人の背に、一同は最初の一言が出てこない。

「……誰ですか、彼は」

 その沈黙を破ったのは通りすがりの占い師。

 彼の問いかけに「隣のクラスの岡山です…」と答えたのは亮一だ。

「…ひどいな」

「なんで高城があれに付き合わなきゃならないんだ?」

「あれじゃ雪子が怒るのも分かる気がする…」

 クラスの誰もが、突然の部外者に自分の友人を奪われたような気がして、不機嫌で棘のある物言いがあちらこちらで上がっている。

 だが多少不機嫌になるくらいでは到底済まない少女がここにはいた。

「岡山でも谷山でも何でもいいわよ……っ」

 雪子の怒りに満ちた声。

「なんであいつが岬ちゃんのこと“岬”って呼んでるの!? そう呼んでいいのは影見君だけでしょうがっっ!?」

 どこかずれた発言であるが、それもこれも限界を超えた怒りのせい。

 なんにせよ、彼女にとっての一番の問題は、岬が河夕以外の男に掻っ攫われたことである。


 ◇◆◇


 午後五時。

 一太の、明かり一つ点かない部屋の中、岬は彼が泣き止み、落ち着くのを黙って待っていたのだが、この家を訪れてから早一時間。一太はまだ泣き続けていた。

「大嫌いだよ…もう嫌だあんなところ…僕に力があれば皆殺しにしてやるのに……!」

「…岡山君」

 自分をつかんで放さない一太に、岬は呼びかける。

 一太は部屋に入るなり泣声を一段と大きくし、岬にしがみついたままだった。

「あのさ…、少し落ち着こう。この腕を放して欲しいんだ」

「岬まで僕を嫌うの!? 岬まで僕のことを捨てるんだ!」

「そうじゃなくて…ずっとこんな体勢でいたら、身体が痛くて…」

 体勢というよりも、強い力で掴まれているせいで。

 一太はしばらく黙り、結局は腕を放した。そうしてようやく自由を取り戻した岬の四肢。

「岬は……岬は僕と一緒にいてくれるよね……? 岬だけなんだ…岬だけが僕の友達だ…」

 答えられる言葉など岬にはなかった。

 第一、いつも不思議なのだが一太の両親はどこにいるのだろう。もう数週間もの日数、毎日欠かさずにこの家を訪ねているのに、両親どころか他の人間の気配さえ感じられない。

 それを、どうして今まで聞こうとしなかったのか、岬は自分自身が解らなくなってきた。

「…岡山君、そろそろ泣きやんで。俺もそろそろ帰らなきゃならないし」

「まだ五時だよ! いつももっとずっと一緒にいてくれるじゃないか!」

「今日は…今日は時間だけの問題じゃないだ」

「ダメだよ! 岬は僕の言うことを聞いてくれなきゃ! 僕のことしか考えちゃいけないんだ!!」

「俺は岡山君の人形じゃない!」

「そうだよ友達だよ! だから他の人間のことなんか考えちゃいけないんだ!」

 強い口調で、このとき初めて口を返した岬に、一太は岬への独占欲を剥き出しにした。

「昨日もそうだ…いったい誰のことを考えているの…? 今日は昨日より顔色がいいけど…、誰のことを考えて元気になったの…? 昨日、岬に壁を作っていたのは誰? 誰に何をもらったの…?」

「何って…、――! やだ…離せ…っ」

「岬!」

「っ!?」

 立ち上がった一太に右からの平手打ちを食らい、そのまま押し倒される。

「なっ…は、離し……っ…」

「ダメだよ…岬だけは誰にも渡さないんだ…いつまでも僕のことだけを考えていてよ…家にいても、学校にいても、……そうだよ、夢の中でだって」

 岬の首を絞める一太の手に力が増す。

 呼吸困難に熱くなる目頭。

「……ひっ……っぅ…」

「今日学校に行った本当の理由はね…、岬に会うためだったんだよ…岬が僕のことを忘れて、僕以外の誰かを思っていたから…僕以外の誰かと楽しそうにしてるから……っ」

手の力が緩み、その代わりに耳たぶに息がかかるほど近づく一太の顔。

「……誰? あの、黒いはずなのに透き通るような瞳の男は、誰?」

(……っ!)

 恐怖と嘔吐が岬の全身を襲う。

(助けて……)

「僕が一番嫌いな強い力をもったあの男は誰なのさ……」

 赤くなった首に再び一太の指、込められる力。

 今度こそ殺される、確実に。

(助けて…っ)

「岬……誰にも渡さない……!」


(河夕―――――!)


 刹那。

 まるで岬の心からの叫びに呼応するかのように、岬の身体から強い電流らしきものが放たれた。

 強い衝撃に吹き飛ばされ、そうして完全に失神した一太。

「…げほっ……っはあ…はぁ…、はぁ…」

 荒い呼吸を繰り返し、震える体を起き上がらせる。

 気を失った一太を振り返ることもせず、岬は逃げるようにその場を立ち去った。

 逃げるように…。

 違う、岬は確かに逃げ出したかったのだ。

 今まで抱いたことのない激しい感情がただ恐ろしくて、自分自身が怖くて、一秒でも早くここから遠ざかりたかった。

 震える足を必死に立たせ、動かし。

 首筋に残る痛みを押さえつけて岬は走った。

 満月の夜が東の空から広がりつつあった………。




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