聖なる日
その日の生徒会室は、とても微妙な空気だった。
(翔もこうなる事は分かっていたでしょうに、図太いというか何というか……)
さらさらと目の前の書類に数字を書き込みつつ、心の中でぼやく。
コト、と缶を机に置く小さな音が響く。そんな音ばかりが響くこの部屋は、何も人が少ない訳では無い。翔、哉也、琴音という中身はともかくとして能力はずば抜けて優秀な生徒会役員に加え、翔と哉也の本性を知っても「仕事を一緒にする分には楽しい」と働いてくれている頼れる書記の真柴帆花先輩と監査の高宮和聡先輩、更に私のようなお手伝い要因も数名いる。
そんな雑談の1つや2つは飛び交いそうな状況で誰も一言も話さないのは、腹黒生徒会長様が私語厳禁なんてらしくも無い事を言った訳ではない。メンバが生真面目集団で仕事中は一言も話さないタイプ、なんて事もない。
じゃあどうしてこんな事になっているのかと言うと、生徒会役員約1名と非公式で手伝う生徒約1名とに問題がある。
ちら、と部屋の奥に視線を向ける。「直ぐに仕事を振れるように」なんて理由で翔の近くに座らされ、言葉通り数多くの仕事を振られているにも関わらず、文句を一言も言わず作業に没頭しているのは、外見はともかく内面の似ていなさでは定評のある所の兄、哉也だ。普段だったら文句か皮肉か嫌みの10や20は飛ばしているだろう彼は今、異様な程の集中力を示して仕事をしている。
そして、同時に哉也が隠そうともせずに放つ尖りまくった空気が、この部屋の現状を生み出した直接の要因だ。
で、哉也がこうなった原因は、とても分かりやすい。
「中西、終わった」
「ん? ……ああ、それか。じゃあ取り敢えず哉也の机の端にでも置いておいて」
「分かった」
空気を読む気もない2人の会話に、哉也のオーラがいや増す。それを受け流しながら、私はもう1度哉也の席へと目を向けた。
まともな神経の持ち主なら近付くどころか目を向ける事さえ躊躇う覇王な空気を醸し出す哉也の元へ、怯えるどころか気負う様子すら見せず、ごく普通の足取りで歩み寄り、邪魔にならない場所へと無造作にプリントの束を置いたのは——
「香宮、ここでいいか」
「…………」
——哉也が機嫌の悪い原因の張本人、空瀬宏毅先輩だった。
空瀬先輩は文芸部部長であって、生徒会役員ではない。文芸部は生徒会と致命的に仲が悪い。主に哉也が空瀬先輩を筆頭に2年生部員数名を嫌っているのと、人を見る目のある文芸部員の半数が翔や哉也を「胡散臭い」と警戒しているせいなのだけど、それはもう険悪な仲だ。その文芸部のトップである空瀬先輩が生徒会役員の筈がない。
それなのに空瀬先輩がここにいるのは、個人的な理由だ。
ひと月前、空瀬先輩はとある件で生徒会の手を借りた。1人でも解決出来ただろうけれど、生徒会の力を借りた方が圧倒的に手っ取り早く、かつ望む結果を手に入れられると判断したそうだ。
……そして、その対価として翔は、年末に生徒会の仕事を手伝う事を要求した。
生徒会の年末は忙しい。年度が替わるのは3月だけど、1月後半には新生徒会への引き継ぎが始まる。引き継ぎをしながら1年間の活動報告だの収支決算だのを終わらせられる程春影高校の生徒会は楽じゃないし、翔や哉也がやらかしてきた仕事の量も少なくない。その上内容が内容だから、普段色々と手伝ってもらっている善良な生徒会役員の手を借りる事も出来ない。
……かといって、哉也がこうなると分かっていて空瀬先輩を使う翔の図々しさはある意味凄い。引き受ける空瀬先輩も空瀬先輩だけれど。
ちなみに、私が手伝わされているのもこの一件が関係する。いつものように生徒会の手伝いに駆り出された私は、最後の最後に掌を返すように生徒会を裏切ったのだ。
裏切ったと言っても、利が空瀬先輩に出るように仕向けただけ。何せあのまま事が進んでいたら、生徒会ばかりが得をするようになっていた。対価を引き受けた空瀬先輩に利がないのは不公平だと思って、こっそり空瀬先輩と結託して計画をねじ曲げた。
結果、予想を上回って上手く事が進み、最初に空瀬先輩が求めた以上の利が生じ、一方で生徒会は完全に先輩に手を貸しただけになった。
……別に日頃さんざんこき使ってくれる幼馴染みと兄への仕返しではない。本来あるべき状態にしようとしただけだ。
けれど、そんな言い訳が腹黒い幼馴染に通用する訳なく。「逃げようなんて考えたら、全校放送で呼び出すから」なんてとんでもない事をいつもの笑顔で言われ、仕方なくこうして手伝っている。
(校内人気ツートップの1人、校内では奇跡の猫かぶりで品行方正な生徒会長と有名な翔に名指しで呼ばれたらどうなるか、分かっていてあんな事言うんだからなあ……)
心の中で恨めしげにぼやき、哉也が喧嘩を売らないどころか存在ごと無視したのと、空瀬先輩がそれに頓着せず翔の指示を受けて次の作業を再開したのを確認してから、改めて視線を書類に落とした。
この異様な空気をどうこうしようという考えは皆目ない。今更哉也の不機嫌オーラ位どうも思わないし、下手に口を出して八つ当たられてはたまらない。放っておけば火の粉は降ってこないのだから、本気で拙い事態にならない限りは無視するのが1番楽だ。
翔は面白がってて仲裁しないし、琴音も2人の仲の悪さには——と言っても、哉也が一方的に嫌っているだけだけれど——諦め気味で、何も言わない。先輩方は、「触らぬ神に祟り無し」を実行している。
よって、今日から始まった年末決済の作業は、とても静かに進んでいた。
「咲希、最初に渡した書類、終わった?」
不意に翔に尋ねられて、着手しかけていた計算を一旦止める。机に視線を走らせて、件の書類を探し出した。
「終わってるわよ」
普段、哉也や翔とは赤の他人のように振る舞っているけれど、ここには2人の本性を知る人間しか居ない。書記と監査の先輩も寛容なので、幼馴染だと主張しただけで、取り繕う事のない態度を許してもらえている。
「こっちにもらえる?」
「はい」
立ち上がり、翔に書類を手渡す。帰り際に空瀬先輩の机を通り過ぎた時、先輩の隣で壁により掛かっていた人物が小さい声で呟いた。
「なんつーか……アホらしい程分かりやすいな、あんたら」
空瀬先輩の行く所ならどこにでも付いていくと評判の池上俊毅先輩のそれは、聞こえなかったふりでスルーした。
己に大変正直でも取り繕う事は知っている哉也だけれど、空瀬先輩の事は学校中に知れ渡る程あからさまに嫌っている。そんな哉也のお膝元と言える生徒会で空瀬先輩を孤立させるのは危険だと察知したのか、池上先輩は空瀬先輩に同伴している。相当嫌いである筈の哉也に「どこの保護者だ」と嫌みを言われても眉一つ動かさずに流してここにいるくらいだから、余程危機感を覚えたらしい。
肉食獣ばりに鋭い本能を持つこの先輩が、一体何が起こると予想したのか訊いてみたい気もするけれど、ちょっと怖いのでやめておく。
椅子に座り、元々行っていた計算を再開した。計算結果を書き込んでいると、翔がふと声を上げる。
「あ、言い忘れてた。空瀬、計算は咲希に任せてね」
顔を上げると、空瀬先輩と目が合った。何となく目礼すると、空瀬先輩はすいと視線を外して翔を見やる。
「電卓もあるし、然程手間でもない。頼むまでもない」
「いやあ、電卓なんて使ってたら時間が勿体ないよ」
さらりと返された言葉に、空瀬先輩が微かに眉を顰める。鉄面皮にも少しずつ慣れてきた私には、それが怪訝な面持ちだと何となく察せられた。
空瀬先輩の手元に目を凝らす。先輩の席はそこまで離れていないし、視力は2.0。この程度の距離なら書類の文字も読める。
果たして先輩の書類の文面を読み取った私は、先輩が手を止めている場所の数値から何の計算をしようとしていたのかを推測した。
(あ、面白い計算の仕方してる)
空瀬先輩が今やろうとしている方法は、翔が指示した通りのものではないだろう。アプローチが独特だ。けれど、「翔達がやらかした事を普通の生徒会活動らしく見せる」という大事な点はきっちり抑えている。
空瀬先輩らしい、普通とは違う視点と変則的な考えの道筋。それを仕事、それも助っ人としてやって来た身でも堂々と行うのがまた先輩らしい。
それにしても、このアプローチの仕方は本当に面白い。始めて会った時にも感じたけれど、私には先輩のものの考え方が新鮮で、それでいて同感出来る。
そんな事を頭の片隅で考えつつ、相変わらず翔に怪訝な視線を向けたままだった空瀬先輩に声をかけた。
「827753です」
答えを言った瞬間、驚く事となった。
(わ……なんか迫力)
今まで見た事の無い素早さで、空瀬先輩が振り返る。側にいた池上先輩と全く同じタイミングで、同時に2つの顔がこっちを向くのは予想外に心臓に悪かった。
(それにしても空瀬先輩、肉体言語は全て池上先輩に任せている割りには素早い動きでしたね、案外反射神経いいんですね驚きました、……なんて言ってる場合じゃないか)
ひとまず思考を空回す事で冷静さを取り戻すと、小さく首を傾げてみせる。
「どうかしましたか?」
平静そのものの声を聞いて、先輩2人が我に返ったような表情で顔を見合わせた。顔を戻した池上先輩が口を開く。
「香宮妹、今暗算したのか?」
池上先輩には私と哉也が兄妹である事は隠しているのに、どうしてかこの呼び方が定着している。名字が被るからなのだろうけれど、やめて欲しい。
「ええ、まあ。こういう計算で合ってますよね?」
そう言って今行った計算の概略を口にする。関数電卓では数段階の作業だろうそれに、空瀬先輩が頷いた。そして、そのまま視線を翔に向ける。
「電卓よりも香宮の方が早いと?」
「そう思うだろ?」
翔はにっこりと笑って、私の方を向いた。
「咲希の仕事は計算だから。必要な計算は適当に纏めて咲希に渡して。俺達もみんなそうしてるよ」
「少しは自分でやって欲しいけれどね」
しれっと仕事を増やしてくれる幼馴染みに、ささやかな反撃をする。確かにこの程度の計算は苦じゃないし、電卓使うより早いというのには賛成だ。けれど、計算してから結果を書き込むタイムラグが地味にストレスが溜まる。頭の中にある結果をそのままアウトプット出来ればいいのに、と何度思った事か。
(って、今はそれはよくて)
つい思考が脱線しかかったのを無理矢理戻し、意識を目の前の状況に集中する。未だに私を見つめていた先輩2人に、愛想笑いを浮かべて見せた。
「ここでは、それが私の仕事なので。気にせず回して下さい」
それでようやく納得がいったのか、空瀬先輩は1つ頷いた。
「……分かった。必要な計算は纏めて持っていく」
「はい」
頷いて、手元の作業に戻った。さあ、何時に終わるかな。
夕方6時。
「今日はこの辺りで終わろうか」
翔が投げ掛けたこの言葉が、生徒会室の空気をふっと緩めた。
「あー……肩凝ったなあ」
琴音が伸びをしながら漏らす言葉に、ちょっと笑って頷く。
「ずっと作業しっぱなしだから、どうしてもね。お疲れ様」
「お互いね。……さて、お茶でも飲もうか」
労いの言葉に笑顔で頷くと、琴音は立ち上がった。手伝うべく腰を浮かせ、生徒会室と直接繋がる給湯室へと足を運ぶ。
琴音がお湯を沸かして紅茶の葉を用意している間に、私はお茶菓子を選別した。
「うわ、翔達ったら本命もまとめて置きっぱなしにしてる……」
「まあ、あの2人がわざわざ選別するとは思えないけどね」
呆れ声を漏らす私に、琴音も呆れの混ざった言葉で返す。ハロウィンにもらったお菓子をひと月以上経った今でも堂々とここに放置しているのだから、当たり前だけど。
ひとまず本命らしきものをより分けて、日持ちのしないものからお菓子をお皿に移す。丁度お茶を入れ終えた琴音と共に部屋へと戻って、ちょっと足を止めた。
(うん、翔もさ、ここは適当に取り繕って帰ってもらおうとか思わないのかしら)
(面白がってるんだろ? 咲希も気にしなくて良いよ、あの2人に関しては)
アイコンタクトだけでそんな会話を交わして、私達は何食わぬ顔でテーブルに運んだものを置いた。
労いのお茶会は、作業する机とは別に置かれているテーブルをソファで囲んで行う。書記と監査の先輩は帰っていたけれど——彼女達なりの自衛だろう、妬む人は少なくない筈——、奥に哉也と翔、翔側の隣のソファには池上先輩と空瀬先輩がそれぞれ座っていた。
……翔はともかく池上先輩の位置取りは緩衝材だ、間違いない。正直ありがたいので目で謝意を示すと、池上先輩は黙って肩をすくめた。
私と琴音は、先輩達の正面のソファを選んだ。理由は言わずもがな、琴音が哉也の近くに座れるように。
……友として当然の気遣いだけど、結果的に空瀬先輩の真正面だ。この先輩は時々油断ならないので、表情の読まれやすい正面は避けたかったんだけどな。
表面上も和やかならざる空気の中、人気者揃いの面子によるお茶会が始まった。
テーブルのお菓子を取り上げた池上先輩が、顔を顰める。
「おい、これってウチのクラスの誰かが配ってた奴だろ」
首を傾げて先輩の手元を覗いた翔が、のんびりとした声で答えた。
「あ、そうかも。カードにクラスと名前付きでくれた子だと思うよ」
「……ンなもんフツーに出すなよ、あんたらも」
生温い眼で見られた私達は顔を見合わせる。肩をすくめた琴音が、さらりと反論した。
「給湯室見れば分かるけど、物凄い量なんだよ。あのままにするのは勿体ないだろ」
「にしたってよ……」
「向こうもこっちにその気がないと分かって渡すんだから、問題無いさ」
いつもの笑顔を浮かべたままさらりと言う翔を見て、池上先輩が嘆息する。
「これが品行方正、爽やかな人格者で知られてる生徒会長の本音だもんな」
「それは勝手に幻想を抱いている方が悪い。印象を押しつけ型に嵌めて無自覚に枷を付ける。社会においては必要な機能かもしれないが、当人達がそれに従うかは本来自由だ」
さらりと辛辣な事を言ったのは言うまでもがな、空瀬先輩だ。面白そうだから何か返してみようかな、と思ったら、それよりも早く琴音がびしっと返す。
「はいはい、宏の持論はいいから。それに、翔の場合はそれを逆手にとって周りを動かしてるんだから、枷とも思っていないでしょうよ」
空瀬先輩は大人しく口を閉じた。これが哉也辺りの発言なら、いや、他の誰でも反論するけれど、先輩は琴音にだけは逆らわない。いつも思うけど、不思議な関係だ。
「まあ、それは良いとして。翔も哉也も、本命ごと放置するのはどうかと思うよ」
空瀬先輩が黙ったのを見て、琴音が改めて2人に向き直る。視線を向けた哉也と視線が合ったのか、琴音は微妙に身動いだ。
「……全部置いてる訳じゃない。面倒そうな女の分とどうでもいい分を放置してる」
「わお、予想通り。道理でほとんど置きっぱなしな訳だ」
「厄介事はごめんだ。どうせここで食ってんだから問題無いだろう」
平静を装っているのが丸分かりの琴音も、いつもより低い声で答える哉也も、微妙に視線を逸らしている。思わず翔と視線だけで会話を交わす。
(持ち帰ったの、琴音のお菓子だけ?)
(多分。食べ終わってるのは間違いなく琴音のだけだね。甘いもの食べる方じゃないし)
(そうね。……ねえ、哉也、目合わせられないの?)
(あれ、気付かなかった? ハロウィンの後辺りからだよ)
(…………)
もう1度2人の様子を伺う。お菓子の扱いの雑な哉也を琴音がからかって、哉也がそれに言い返していた。会話自体は今まで通りなんだけど、2人の間はどうもぎこちない空気が流れている。しかも、その原因は主に哉也らしい。
(……誰だ)
そもそも哉也が人と話す時目を逸らすというのがあり得ない。どんな話でも絶対に目を逸らさず、時に睨んでいると誤解されてしまう程の哉也が、泣きそうになってる訳でもない琴音と目も合わせられないとは。
(今まで気付かない振りをしていたのをようやく意識したのだろうけれど……遅い、遅すぎる。あれからひと月以上経ってるのに未だにそれか)
ハロウィンの後翔に聞いたけれど、琴音は無事哉也に「本命」を渡しているし、哉也も最後の1つ——こっちは狙っていた訳じゃないらしいけれど——を渡している。ここまで来れば哉也も琴音の気持ちを無視出来ない。しかも、自分の気持ちも無視出来なくなったらしい。それは悪くない展開だけど、未だにその状態のままとはどういう事だ。
琴音の推しの弱さを嘆くべきか、哉也のへたれ度合いを嘆くべきか。友人としては迷うまでもなく後者だ。普段あんなに即断実行派なのに、どうしてこの1番大事な場面で腰が引けるのか。
私が内心で哉也をさんざ悪し様に思っている中、2人の言い合いと言うかじゃれ合いが終わらなくなりそうな気配を感じたのか、翔が口を挟む。
「そう言う琴音はどうなの?」
「うん?」
視線を向けた琴音の空気が、今まで眼中にありませんでしたと語っている。それ位気付く筈だけど、翔は食い付かず質問を繰り返す。どうやら2人のペースを見守るつもりらしい。
「琴音も沢山お菓子貰っただろう? あれはどうしてるの?」
「んー、どうでもいいのは宏と2人で地道に消費してるよ。ダメになった奴は捨てた」
さらりと琴音がそう言うから、思わず空瀬先輩を伺う。視線が合ってしまったので、無意味に頭を下げた。そのまま視線も逸らす。
……危ない。うっかり「空瀬先輩も沢山貰った筈ですよね。2人分食べているのですか?」と聞く所だった。
ハロウィンの出来事は事故という事にしている。知らなかったとは言え「貴方と親密になりたい」なんて意味を持つものを渡してしまったのは、間違いなく疲れによる事故だろう。向こうも何も言ってこないし、事故扱いで問題無い。
そもそも、世俗に興味の無い空瀬先輩がそんな事を知っているとは思えない。というか知っていたら渡すまい。先月の協力後ならともかく、あの時はまだ文芸部部長と生徒会の手伝いという間柄だ。文芸部には先輩の行動を妨害した生徒会の一味と見なされている以上、「貴方と親密になりたい」はない。
けれどそんな意味を持つ事をしてしまった以上、ハロウィンのお菓子の行方を聞く事は出来ない。下手に意識していると思われても困る。
「咲希は?」
「……え?」
そんな事をつらつらと考えていたせいか、反応が少し遅れた。声の主、翔の方を見れば、にこやかに尋ねてくる。
「哉也は選んで放置、俺は軒並み放置、池上は全て破棄、琴音と空瀬はどうでもいいのを2人で少しずつ消費。咲希はどうしたんだろうなーって」
さりげなくさっき聞きかけた事まで教えられた気もするけれど、池上先輩酷いなと思ったけれど、それには何も言わずに答えた。
「母と2人で地道に消費してるわよ。多分、みんなよりは早く無くなると思う」
思った以上に沢山貰ったお菓子は、夜遅くまで働く母にも嬉しい甘味だった。母は食べても太らない体質だからどんどん食べる。私も運動している以上そこまで気にする必要が無いから、小腹が空いた時に頂いている。勿論日持ちのしない物から食べてるから、捨ててもいない。もう半分もないはずだ。
(うーん、まともな扱いしてるのって私だけだなあ。貰う量が違うのもあるでしょうけれど)
そもそもの人気に差があるのだ、扱いに差が出ても仕方ない。私もあの3倍貰うともなれば流石に捨てる事も考えるだろうし。学校中の人気者は今日も大変そうだ。
そう結論づけてお茶を飲んだ私は、翔と琴音が笑いを噛み殺していたのも、哉也が呆れ顔なのも、池上先輩が何とも言えない表情で空瀬先輩を窺っていたのも、全て見逃した。
***
春影高校の冬休みは、成績関係無く全員補習がある。午前中4コマ。冬休みの宿題とは別に課題が出たり小テストがあったりと、進学校の名に恥じない本格的なものだ。
午後の授業が無いのは、文武両道を謳うこの高校が部活を重んじているから。午後いっぱい、部活や自由活動に使えるようになっている。
補習4日目。授業が終わった後、弓道部である私は体育館へ向かった。道場の更衣室は小さいから、1年生は体育館の更衣室を使うのだ。
手早く着替えて道場へ向かう。先輩達が出てくる前に道場を掃除するのが1年生の仕事だ。箒とちりとりを使っていると、ポケットの携帯が震えた。見れば、翔からのメール。
『今日部活抜けられない?』
直ぐに返信を打ち込んだ。
『無理。どうして?』
部活の時間は手伝いをしない、最初にした約束だ。残った分は持ち帰っているから、補習と同時に始まった手伝いの3日間、文句を言われた事は無かった。
なのに何で今、と不思議に思っていると、直ぐに返信。文面を見て、溜息が漏れた。
『予定ぎりぎりなのと、哉也が爆発しそう』
年末の収支決算は、時々話し合いもする。作戦会議と言うべきか、どこをどう誤魔化すのか口裏を合わせている。相変わらず黒い生徒会だ。
そしてその話し合い、結構空瀬先輩も発言する。翔が意見を聞くからだけど、哉也は私と違って先輩ととことん意見が合わない。噛み付きたいのを必死で我慢して平静を装い反論していたけれど、流石に限界が来たらしい。
哉也が切れると、空瀬先輩との口論がいつまでも終わらない。何故か空瀬先輩も、哉也相手だといつまでも反論する。相性が悪いのか、議論する価値があると認めているのか。両方かもしれない。
生徒会へ赴く度に感じていた頭痛がぶり返すのを感じながら、メールの返信を打ち込む。
『正規練は抜けられないから、自主練早めに抜けます』
部活全員で練習する正規練は絶対参加だけど、自主練は一応自由参加だ。それでも原則参加するようにと言われているけれど、用事があれば認めてもらえる。家の用事と言えば納得してもらえるだろう。多分。
了解の返信メールが来たのを確認して、私は掃除を再開した。
全員が揃った所で、弓道場に置いた神棚に拝礼。その後正規練は始まる。試合を意識して、5人ずつ順番に射場に入って弓を引き、1年生が結果を記録する形式だ。
私の出番が回ってきたので、弓と4本の矢を手に射場に入る。2本を1度床に置いた。流れるように矢を1本弓に番え、ゆっくりと掲げる。
呼吸と合わせて、弓を引く。矢が水平になった所で全身の感覚を研ぎ澄ませ、身が引き締まったまま伸びるという矛盾した感覚を受け入れて静止する。
こうしていると、腕で引いた以上に弓の弦を引き絞る事が出来る。限界まで伸び、的を狙う心が落ち着くその時を待つ。
ふっと、周りの音が消えた。心が身体からふわりと離れていくような、不思議な感覚。全ての感覚が的に収束していくのを感じながら、静かに矢を放つ。
ぱぁん……と小気味のよい音を上げて、矢が的の中心に突き立った。
小さく息を吐きだし、次の矢を番える。同じように的の中心に中ったのを見届けて、足元の矢を拾い上げる。そのまま矢を番えようとして、ふと顔を上げた。視線を感じた気がしたのだ。
弓道場は2年生の校舎以外に見下ろせる建物がない。だからこそ見上げた2年の校舎には、果たしてこちらを見ている人影。逆光で顔までは見えないけれど、シルエットが空瀬先輩だ。無意味に瞬く。
先輩もまた、部活が終わってから手伝いに向かっている。だから今は根城の文芸部室にいるはずで、校舎にいるのは少し妙だ。
忘れ物を取りに来るには中途半端な時間だし、几帳面らしい空瀬先輩——琴音がそう言ってたから多分間違いない——が忘れ物をするというのもしっくり来ない。何か用事だろうか。彼の行動は一貫性があるけれど、理論が独特すぎる為、未だに読み切れない部分がある。
(夏前から関わりを持って、大分分かるようになったと思ってたんだけど。……何か悔しい)
そんな事を思いつつ、矢を番えて弦を引き絞る。そのまま射ようとした、その時。
(……?)
くらり、と視界がぶれた。狙いを合わせていた的が揺れ、僅かに手元が狂う。
(あ、しまった)
弓は少しでも集中を手放せば容易く外れる。ましてや、狙いを定める手元が狂っては中るはずもない。矢は、的から10センチほど離れた安土に突き刺さった。
矢を外したのなんて久しぶりだ。ちょっと感慨に近いものを覚える。中学の時にさんざん聞いたお祖母様の叱責の声が蘇ったのは嫌だけれど。
首をすくめたい気分になりながら、最後の1本を番える。今度は問題なく的の中央近くに中った。一礼して、射場から下がる。
「珍しいね、香宮さん」
意外だ、という声で話しかけてきたのは、部長だ。高校に入ってからはほぼ全て中ててきたから、外す所なんて初めて見られたかもしれない。思わず苦笑した。
「少し手元がぶれてしまいました」
「そう。押手はしっかりね」
「はい、ありがとうございます」
軽く一礼して、仕事を変わる。そうして先輩達の射を見守っている間に、目眩の事は綺麗に忘れ去った。
正規練後、部長に謝り倒して抜けた。何故かあの後も何度か目眩がして外してしまったから、不調の時は休むのもありだね、と言ってもらえた。それは全く関係無いからとても申し訳ないけれど、好都合だ。
早歩きで生徒会室へと向かう。最短時間で辿り着いた扉をノックしようとしたその時、哉也の低い声に手を止めた。
「だから、そのいちいち回りくどい方法で相手を騙くらかしては違う土俵でものを語るやり方はやめろと言っている」
「視点をずらす事で物事を有利に進めるのは基本だろう。中西もよく使う手だ」
「同じにするな。翔のは相手にも気付かれないように騙すが、お前のは相手を混乱させて誤魔化そうとしてんのが丸分かりなんだよ」
(…………うん)
1つ頷いた私は、静かに下がった。気配を消して、そうっとその場を離れようとする。これは場の収拾が付くタイミングを見計らって出直すのが吉だ。
足音を殺して立ち去ろうと背を向けたその時、がらりと背後でドアが開いた。
「どこ行くの? 咲希」
「ちょっと忘れ物」
「そう。後でいいよね」
有無を言わさぬ翔の声に、渋々振り返る。呆れ顔の池上先輩が、ドアを開けて待っていた。やっぱりこの先輩が気配を察知したらしい。気配を消していたのにどうして気付くのか。この人の勘は時々超人的だ。
「……まあ、気持ちは分かるけどよ」
ぼそりと言葉を落とし、先輩は私を招き入れる。諦め半分に中に入れば、案の定、腕と足を組んで椅子にふんぞり返った哉也と、普通に座っているのに妙に堂々たる様子の空瀬先輩が睨み合っている。
奥にいた翔が事情を説明するよりも哉也と空瀬先輩が口論を再開するよりも早く、意見を告げた。
「やり方が合わないのは今更なんですし、それぞれ好きにしてはいかがです? 結果が同じなら別に問題無いわよね、翔」
「うん。ただ互いに連携取る必要のある仕事があるから、そこの調整がきかないんだ」
どっちも譲らないから困っちゃって、と言葉とは裏腹な笑顔で言う翔に、哉也の額に青筋が浮かんだ。そもそも振り分けをしたのは翔の筈だし、分からなくはない。
「だったら別の人で組めば? 琴音と哉也、翔と空瀬先輩、とか」
それなら問題無いだろうと見やれば、翔が笑顔のまま嘯いた。
「俺も空瀬のやり方って合わないんだよね。何というか、微妙にずれててさ」
(……それは翔が腹黒過ぎるからじゃないかな)
咄嗟に浮かんだ言葉は、心の中に留めておく。余計な事は言わない、存外人生で大事な事だ。
書記と会計の先輩に視線を向けると、あからさまに逸らされた。この先輩方は空瀬先輩が苦手だ。別に取って食ったりはしないだろうに。
(仕方ないか……)
「じゃあ、私と空瀬先輩で。先輩もそれで宜しいですか?」
私は先輩の考え方をそれなりに理解、共感出来る。少なくとも、哉也や翔よりは遥かに相性が良い。
気が進まないのは、そもそも私はここでの手伝いは計算のみと言う約束だったから。契約不履行だ、どうしてくれる。
「ああ」
そんな私の内心を余所に、空瀬先輩はあっさり頷いた。それを見た翔がにっこりと笑う。
「じゃあ、仕事しやすいように席替えしようか」
「は?」
哉也の低い声——まだ機嫌は戻らないらしい、琴音と仕事出来るんだから文句言うんじゃない——をスルーし、翔が言葉を重ねた。
「琴音と哉也、咲希と空瀬で並ぶように移動して。その方が打ち合わせ楽だろ」
そう言って返事も待たずに机の移動に取りかかるものだから、なし崩しにそうする事に。別に仕事の効率は変わらないんじゃと言う疑問は、私だけのものじゃないと思う。
(哉也と琴音が一緒なのはいい事だけど。そろそろあのぎこちなさを乗り越えて貰わないと)
友としては2人の距離が近付く事を応援すべきだ。そう思い、机の移動を手伝う。
「……中西って歪んでんのな」
何も言わずに重い机を運んでくれる池上先輩が、突然そう言った。何事だと振り返った先で、翔がにこりと笑う。
「何の事?」
「分かってて誤魔化してんじゃねえよ。ホント、俺はお前のそういう所が苦手だ」
「奇遇だね。俺も、池上のこういう時の勘の良さが苦手だよ」
苦い顔をした池上先輩とにこやかに笑う翔が、一瞬睨み合う。けれど次の瞬間には何もなかったかのように顔を背け、作業を再開した。
(……?)
全く分からないやりとりだったけれど、短い間に流れた険悪な空気は気のせいじゃない。下手に掘り返さない方が良いだろうと思い、無言で止まりかけていた手を動かした。
流石に力のある男子が揃っているだけあって、席替えは直ぐに終わった。そのまま作業開始。
机の上に詰まれた大量の書類に流れ作業で計算結果を書き込んでいると、ふと視線を感じて顔を上げた。空瀬先輩とばっちり目が合う。
「……どうしました?」
「仕事内容の説明が必要だろう」
(……あ)
書類の山に気を取られて、机並べて作業している意味をすっかり忘れていた。直ぐに謝って先輩の説明を聞く。然程聞かぬ間に、何とも言えない気持ちが込み上げた。
(……先輩。哉也に喧嘩売りたかったんですか……?)
先輩の案は、哉也がいかにも嫌いそうな捻くれた策だった。先輩の考えには哉也に理解出来るものと出来ないものとあるけれど、これは哉也が理解出来てかつ絶対に受け入れられないものだ。どうしてわざわざこんなものを提案したのか。
(分からなくはないけど……不器用なのかな、この人)
話を聞けば、先輩の考えは分かる。確かにその方法は効率が良いけれど、他にもっと受け入れられやすい方法だってある。なのに効率に拘ってこれを通そうとするのは、頑固というか不器用というか。
「——だ。それで良いか?」
「はい」
けれど、私はその考え方が嫌いじゃない。頷いて、先輩が差し出した用紙に必要な計算を書き込み、更に少しだけ改良をして見せた。
「これでどうですか?」
「……ああ」
少し間を置いて、先輩が頷く。よかった、意図は通じたみたいだ。
後は先輩が詰めるだろうと、自分の作業に戻る。書類の数値に目を通し、頭の中で計算式を展開しようとした、その時。
(……あれ、また)
ふっと視界がぼやけた。揺れた視界の中、計算式が消える。
(寝不足かなあ……)
一秒も経たずに戻った視界の中、苦く思う。生徒会の仕事、冬期補習の課題や小テストの勉強に加えて個人的な用事もあって、ここ4日間、4時間以上の睡眠を取れていない。少し疲れが出てるのかもしれない。
まあ、あと数日の事だ。そう思い、余り気にせず作業を再開した。
午後6時、作業終了。日課となったお茶会——慣れてしまえば案外居心地が良い——の中、ふと思い出して翔に声をかけた。
「翔、聞き忘れてたけど、作業の締め切りっていつなの?」
なにやら哉也と雑談を交わしていた翔が、振り返って答える。
「出来れば24日には終わりたいなって思ってるけど?」
「24? 補習は26までよね」
中途半端な日程に首を傾げると、翔ではなく琴音が振り返った。
「咲希、クリスマスくらい遊びたいよ」
「……ああ、クリスマス」
すっかり忘れてたけれど、そういえばそんな行事もあったな。
「この時期は大変だよね、色々と。そういう意味ではこうやって仕事してると楽だよ」
翔の言葉に、池上先輩のからかいの言葉が飛ぶ。
「流石に学校の人気を2分する奴の言葉は違うな」
「どういう事です?」
さっぱり分からない会話に口を挟むと、翔が答えてくれた。
「この時期になると、告白の数が増えるんだよね。ほら、クリスマスを1人で過ごしたくないから、なりふり構わずってやつで」
「そんなもの頷く訳無いってのに、しつこく言い寄ってくる奴もいるからな。生徒会で仕事に集中していれば、流石に邪魔するのは気が引けるのか来ないから、確かに楽だ」
「……あっそ」
続く哉也の発言に嘆息した。相変わらずこの2人は、女子の理想を打ち砕くような事を平然と言う。告白を煩わしく思うのはどうなのだろう。
「ていうか、咲希だってあるんじゃないの? 告白」
そう聞き返してきた翔の口元は小さく上がっていた。何だか面白そうなその表情に顔を顰めつつ、頷く。
「最近ちょっと多いから何事かとは思ってたけれど、理由は同じかしらね。……ねえ、何でクリスマスを1人で過ごしたくないのかしら」
ふと不思議に思ったので訊いてみると、それには琴音が答えた。
「そりゃあ、クリスマスに他人がいちゃついているのを横目に1人で過ごすのは嫌だろ」
「それはクリスマス以外でも同じでしょう? クリスマスだからって拘る必要、ある?」
ますます分からなくて首を傾げると、琴音は苦笑を漏らして言う。
「……ま、結局は理由と切欠が欲しいだけじゃないかな」
「ああ、成程ね」
答えは目の前の友人に集約していた。要するに、何でも良いから理由を付けて、好きな人と一緒に過ごしたいのか。
さりげなく視線を流せば、素知らぬ顔を装って紅茶に口を付けている哉也と、どこか生温い笑顔を浮かべる翔が目に入る。あの様子だと、まだ哉也と琴音はクリスマスの予定を決めてないのだろう。
(この2人が一緒に過ごせる流れに上手く持って行けたらなあ……)
琴音は未だにそういう誘いはかけられないようだし、哉也は期待するだけ無駄だ。出来るなら手伝ってあげたいけれど、恋愛はよく分からない。下手に口を出さない方が良いだろう。
そう思って、特に何も言わずに紅茶に口を付ける。その流れで、ちらりと目の前の先輩達を窺った。
空瀬先輩や池上先輩は、今現在恋人がいない。……というかその様子を想像する事すら出来ないのだけれど、2人はクリスマスにどんな印象を持っているのだろう。「興味ない」で終わらされそうなイメージが強いけれど。
(けど、それを聞いて哉也を刺激するのもね。クリスマスも近いから、後でこっそり琴音と哉也が話を出来る段取りでも翔と相談……え?)
そこでようやく気付いて、壁に掛けられているカレンダーを見やる。
冬期補習は19日から26日までの8日間だ。今日は補習4日目の22日。クリスマスイブが24日、クリスマスが25日。……つまり。
「後……2日?」
思わずぽつりと落とした言葉に、翔は呆れ混じりの声であっさりと言った。
「やっと気付いたの? そうだよ、後2日」
「…………」
思わず隣の琴音を見る。多分私がしているだろうな、と思うそのままの顔をしていた。2人して頷き、翔に向き直る。同時に聞いた。
『……間に合うの?』
それぞれの机に置かれた書類は未だ大きな山のまま。今までの進み度合いを考えても、あと2日3日で終わるとはとても思えない。
焦りに腰の浮きそうな私達とは裏腹に、翔と哉也は平然としている。
「間に合うよ。こういうのは最初の作業に時間がかかるんだ。ここからは早い」
「つーか、間に合うよう日程調整したに決まってるだろ。翔が無計画な事するかよ」
翔も哉也も何だか根拠の無い自信に満ち溢れているように見えるけれど、言っている事はそれなりに筋が通っている。どう見ても間に合うようには見えないんだけど。
「一番危ないのは咲希かな? 計算のペースは変わらないだろうし。まあ、もうそこまで計算する事は多くないだろうけど」
「え」
指摘されて、思わず口元を引き攣らせる。自分の机の上にある大量の書類をもう1度見る。ペースは落ちても仕事は増える事も考えて、簡単に見積もってみると。
(……間に合わない)
明らかに補習期間ぎりぎりまでかかる量だ。今までの作業時間ではとても終わらない。けれど部活はこれ以上削れない。となると、選択肢は1つ。
「……持って帰るわ」
「うん、それが良いかもね」
にこりと笑ってあっさり言う翔に頭痛を覚える。更に睡眠時間が削られかねない事を言っておいて、何て呑気な笑顔だろう。確信犯か。
けれど、自分の仕事である以上仕方の無い事だ。溜息を噛み殺していると、空瀬先輩が名を呼んだ。
「……香宮」
(……うーん?)
空瀬先輩は、私も哉也も「香宮」と呼ぶ。けれど不思議な事に、どちらを呼んでいるかは自然と分かる。微妙なニュアンスというか響きというかに違いがあるのだ。哉也も間違えないから、気のせいでは無いと思う。
けれど今のは、どっちか全く分からない。珍しいなと思いながら、一応視線を向けた。
「補習と仕事と。優先されるべきはどちらだと思う」
そう続けた先輩の視線は、哉也を向いていた。呼んだのは哉也の方だったらしい。哉也に聞くには妙な質問だけど。
「……人それぞれだろ。捨てたら批判されるのは同じだ」
けれど哉也は妙とは思わなかったらしく、眉をしかめながらもそう答えた。それに頷いて、更に空瀬先輩が聞く。
「香宮はどちらを選ぶ? 両方か?」
「可能ならな。状況次第では削るか手を抜く」
「手を抜く条件は?」
「主に自分にかかる負担を考える。こんなもんに潰されちゃ適わないからな」
「そうか」
そう言って考え事をするように目を伏せた先輩を、哉也は醒めた目で見やった。
「俺の意見が空瀬の役に立つとは思えん。思考回路が根本的に違う」
「そうなのか?」
「当たり前だろ」
(……うん。今更だと思いますよ、空瀬先輩)
心の中で哉也の言葉に同意する。哉也と先輩の考えが違うなんて事は今更の事実だ。どうしたのだろうか。
(先輩も疲れてるのかな、そんな事訊くなんて……)
疲れていても無理も無い気はするけれど、何だからしくない。少し心配しつつ、私は立ち上がった。
「じゃあ、私帰る。お疲れ様です」
仕事を持ち帰るのだし、早く帰った方が良い。稽古の前に少しでも進められるようにと、手早く荷物を纏めて部屋を後にした。
夜。
お祖母様の稽古が終わって帰宅した私は、鞄から大量のプリントを引っ張り出した。課題と小テストの範囲と生徒会の仕事に分けて机に置く。
時刻は既に22時半。明日も和尚の所での朝稽古があるから5時には起きる。今までは0時、どんなに遅くても1時には終わらせていたけれど、今日からはそうも行かない。確実に24日に終わるように、時間を気にせず一定量を終わらせる。単純計算で2時、下手したら3時までかかるかもしれない。
……2〜3時間睡眠なんてとても憂鬱だけれど、どのみちあと2日だ。終わったらゆっくり寝よう。
心の中で独りごちて、まずは明日締め切りの課題に取りかかった。数学のプリントは稽古前に終わらせたから、英語と古典の予習。25日に数学の小テスト、26日に英単語の試験があるから、それも少し勉強しておこう。
テキストの英文訳をノートに書き込みつつ、ふと思い出すのは哉也の言葉。
哉也は自分に負荷がかかりすぎない様に仕事量を調整すると言っていた。らしい言葉だな、と思う。哉也は良くも悪くも自己中だから、周囲の評価を気にするのも必要なら手を抜くのも、自分が納得するのが最優先だ。周りの為に自分が不利益を被るなんざまっぴらごめん、と言い切る哉也の様子に周囲は苦笑しながらも、不思議と受け入れている。
私の場合、仕事を優先する。与えられたものが無理難題に見えても、内容を整理して方法を工夫すれば出来る。厳しくても少し無理をすればどうにでもなるのだから、言い訳したり断ったりする事に労力を割くより片付けてしまう方が早い。哉也のように「無理」と突っぱねるのは苦手だ。最初に引き受けたのは自分だし、その責任は果たさなければ、と思うからだ。相手にも「出来るでしょう?」と言われてしまうし、その通りだし。
課題も同じ。しかも、これは自分の不利益にもなるから尚更だ。後回しにしたら受験前に後悔するのは目に見えている。今から少しずつ積み上げておいた方が良い。
「……出来た」
課題を終えて、小さな声を漏らした。英単語を15分程勉強してから、作業に取りかかる。
それにしても仕事量が多い。計算は元々可能な限り速くしているし、手で書く時間は短く出来ないから、量がそのまま負担になる。だからこそ、この持ち帰りなのだけど。
(……ま、集中さえしてしまえば何とかなるかな)
時計をちらりと見て、1つ頷く。余り睡眠時間を削るのは稽古で危ない。いつものやり方より疲れるけれど、ちょっと張り切る事にした。
作業するプリントを3枚広げる。一瞥で全ての数字が目に入る場所に配置してから、目を閉じる。深呼吸で集中力を高めてから、目を開いた。
(インテグラルに累乗に平方根、こっちは微分でこっちは数列……よし)
1度に出した答えを一気に3枚全ての紙に書き込んで、次のプリントに手を伸ばす。
昔から計算だけは得意な私は、いくつもの計算を同時に行う事が出来る。流石にパソコンのように沢山の式は処理出来ないけれど、プリント3枚分の計算——15〜20くらいかな——なら5秒もいらない。あっという間にプリントの山が減っていく。
普段これをやらないのは、単純に保たないから。流石にこれを放課後の作業時間ずっと保たせる事は出来ないし、連日続けたら多分倒れる。でも1度やればそれを続ける事を求められそうだからという、最低限の自衛だ。
(なるべく身内以外に知られたくないしな……空瀬先輩達なら構わないけれど)
自分の能力が少しばかり普通じゃない事位は分かっている。だから、これを知っているのは哉也と翔だけだ。琴音は単純に、教える機会が無いから言っていないだけ。他の人には余り言いたくない。
空瀬先輩は私が何が出来ても出来なくても気にすまい。せいぜい、計画の上で利用する位だろう。私もそれならOKだし。
(本当は元々敵対関係だったのだし、これからもそうなる可能性がある筈なのだけれど)
空瀬先輩はあくまで自分の為に動く。だから、この間協力関係になったからと言って、これからもそうとは限らない。寧ろ何をやらかしてもおかしくない人だ、そういう点では手の内は隠しておくべきなのだろう。
(でもなあ……何だか、そんな気がしないというか……)
ここ最近味方でいたが故の錯覚か、直感か。何となくでしかないけれど、空瀬先輩は今後敵にならない、そんな気がする。だからこそ、知られる事を躊躇う気にならない。
不思議と言えば不思議だなあと頭の片隅で首を傾げた所で、今日のノルマが終わった。やっぱりこの方法だと圧倒的に早い。それでも2時になってしまったけれど。
母がしばらく出張で家にいなくてよかった。いたら、こんな夜更かしを許してもらえなかっただろう。確か補習の終わる26日に戻ってくると言っていたから安心だ。
息と共に疲れを盛大に吐きだして、私はベッドに潜り込んだ。
***
「あー終わった、お疲れ様ー!」
「お疲れ様」
琴音の声に、私もふわりと笑顔をこぼした。
「うん、みんなお疲れ。予想よりも早く終わって何よりだよ」
翔が笑顔で言うのにも、今ばかりは素直に頷ける。早く終わるのはやはり嬉しい。
「空瀬先輩も、お疲れ様です」
「……ああ、お疲れ」
気持ちが浮き立つまま、隣の空瀬先輩にも挨拶する。普通に返事が返ってきたので、ちょっとほっとした。無言で流されなくてよかった。
「紅茶淹れる?」
「そうね」
琴音の提案に頷いて、立ち上がる。がんと頭痛が響いたけれど、無視してそのまま給湯室へと足を向けた。
「香宮」
「はい?」
歩き出そうとした時に空瀬先輩に呼ばれて、振り返る。先輩は少し躊躇うような間を置いた後、首を横に振った。
「……いや、何でも無い」
「……そうですか?」
先輩が何かを言い淀む所なんて初めて見た。珍しいものを見た感動と怪訝な気分を同時に味わいつつ、琴音の元へと向かう。
「あ、2人とも。今日はお茶良いよ」
「え?」
そこでまさかの翔から待ったをかけられて、戸惑った。琴音も同じだったようで、驚いたような声が返される。
「どうして? まだ何かあった?」
「うん、けど仕事じゃないから安心して」
翔が笑顔でそう言ったのでほっとする。これ以上何かあったらたまらない。
けれどじゃあ何が、と首を傾げるより先に、哉也が低い声で聞いた。
「……おい、翔。まさかあれか?」
「そう、あれ。恒例行事」
「あれって何? 聞いてないよ」
琴音が驚いた様子で口を挟む。少し不満げなのは、この後誘いをかけるつもりだったのだろうか。だとしたら翔も余計な真似を、と見やった先で、翔が琴音の疑問に答えた。
「生徒会は毎年クリスマスイブに、近くでやってるクリスマスイルミネーション見に行くんだよ。いつからの恒例かは知らないけど、収支決算の慰労を兼ねての食事会ついでに」
「……それ、今年もやるの?」
物凄く微妙な気持ちで聞くと、翔が不思議そうな顔で頷く。
「しない理由はないだろ?」
「大ありよ。滅茶苦茶目立つじゃない」
クリスマスイルミネーションは、普通カップルが集まる場所だ。集団と言うだけでも目立ちそうなものを、哉也に翔に琴音までいては衆目を集めまくる。翔達は慣れていても、私は人に注目されていたら落ち着かない。そんな状態でイルミネーションを楽しめる程、私は図太くない。
「私パス」
「え? 基本こういうのは全員参加だよ? 高宮さんと真柴さんも来るだろ?」
翔に問われ、監査の高宮先輩は苦笑気味に、書記の真柴先輩はふんわり笑って頷く。
「参加するよ。特に用事無いしね」
「私も。予定がなくて寂しいから、寧ろ嬉しいなあ」
先輩方2人がそう言ってしまえば、何となく断りづらい。ちょっと言葉に詰まった私に変わるようにして、哉也が口を出した。
「翔。もしこの場にいる全員を誘うつもりなら、俺は抜けるぞ」
「ええ? 何で?」
「ここを出てまで空瀬と行動する訳ねえだろうが」
眉根を寄せて言い切った哉也に、翔がやれやれという顔をする。
「そうは言っても、空瀬も手伝ってくれた訳だし」
「誘う分には好きにしろ。ただ、俺は出ん」
「あ、そ。けど琴音はこっちに参加して貰うよ? 来年の為にも。それでも?」
「…………」
(う、わ。黙った)
感慨深さを味わいながら、苦虫を100匹程噛み締めたような顔で黙り込む哉也を窺う。ここで黙るという事は、空瀬先輩を拒絶する感情よりも琴音と共にいたいという感情が強いと、この場にいる全員の前で認めているようなもの。その位は分かっている筈の哉也が、それでも黙ってしまうか。
元々見栄を張る為に嘘をつくのはプライドが許さない性格とは言え、沈黙という最高の肯定は、口では無敵の哉也を知る人間にはある意味奇跡のような光景だ。関係はほとんど進んでいなくても、哉也の心の内で琴音の存在は相当大きくなっているらしい。
実の兄が友人に心奪われているのを目の前で見せつけられ何とも言えない気分になりながら、そっと琴音を見やる。恋愛には初心な所のある友人は、余りにも露骨なやりとりに、可愛くも朱に染まった顔を隠せないまま固まっていた。
(あー……これは、仕方ないか)
私は私で、腹をくくった。ここで不参加を言い張ってこの空気に水を差す事は出来ない。気は進まないけれど、友人の為に一肌脱ぎますか。
腹立たしい事にそんな私の心の動きまで狙い通りだったのか、翔が手を叩いた。
「さて、そうと決まれば善は急げだ。もう外は十分暗いし、荷物纏めて行こう」
「はあい」
真柴先輩ののんびりとした返事——この人ちょっと天然さんだと思う、ここで返事出来るのはある意味凄い——を皮切りに、全員が荷物を纏め始める。私もいつもより少しもたつきながら自分のものを鞄に詰めていると、不幸にも奥でやや小さい声で交わされる会話が耳に入った。
「中西、俺はこの後用事だから帰る」
「あ、そう? 残念だね」
特に残念そうな響きも無いあっさりとした翔の言葉に、池上先輩の声が低くなった。
「思ってもねえ事言うな。ぶっちゃけ俺は、歪んだお前と学校ん外でまで関わりたくねえ。香宮兄が空瀬嫌がるのとは別次元でな」
「つくづく意見が合うな、俺もだよ」
「似たもの同士ってか?」
「冗談。俺とお前はどこまでも違う。だからこそ、心底気分が悪い」
「……違いねえ」
(そういう話を今しないでよ、もう……)
あくまでも涼やかな声で毒を吐く翔と獣が獲物を狙うような獰猛な声を出す池上先輩に、心の中で文句を言う。関わりたくないし、無難に聞こえなかったふりをするけれど。
「……どうもあの2人は相性が悪い」
不意にぼそりと落とされた声に振り返る。空瀬先輩が、翔達に視線を向けていた。
「まあ……元からですし」
「ああなるのを分かっていて来るのを止めなかったのは俺だ。不快に思ったなら謝る」
「…………。いえ、角突き合わせるのはあの2人が勝手にやっている事ですし」
(空瀬先輩、他人事で謝るとは何事ですか)
この人が謝罪する時って、いつもこうな気がする。普通の人がする場面では絶対にしないのに、普通の人がしないだろう場面で不意打ちのようにしてくるからだろうか。
「そうか」
微妙な気持ちで見上げる私の視線の先、空瀬先輩は1つ頷いて鞄を取り上げる。丁度私も荷物を詰め終わったので、同じく鞄を手に持って身を起こした。
(今年の冬は寒いなあ……)
視界を圧倒する青い光を見るとも無しに眺めながら、私は白い息を手に吐きかけた。
駅前の広場からお店の並ぶ道沿いにかけて、ブルーライトが眩いばかりに輝いていた。街路樹や店先、果ては駅の建物にまでライトが付けられている。
今年だけなのか毎年なのかは今まで1度も来た事がなかったから分からないけれど、蒼の光が溢れる様子は好きだ。蒼く染まった世界は海の底のようで、それとはまたどこか違う。不思議な空気感が非日常のようで、何となく心が浮き立つ。
もう1度冷たい手に息を吐きかけながら、そっと同行者達の様子を伺う。琴音と哉也は少し離れた所で、2人イルミネーションを眺めている。言葉は無いようだけれど、私達がさりげなく距離を置いている事にも頓着していないから、完全に2人の世界だ。
(頑張れ琴音、雰囲気に任せて明日のデートの約束でもするのよ)
心の中でエールを送る。黙ったままは色々と惜しすぎる。出来れば哉也に誘って欲しい所だけれど……期待出来るだろうか。
高宮先輩と真柴先輩は、翔と楽しげに話している。翔はその気になれば胡散臭さを気取らせず、気持ちの良い会話を楽しませる事が出来る人だ。時折笑い声を上げながら話をしているから、翔本人も十分に楽しめているらしい。
「あのー、すいません」
声をかけられて、私は振り返った。楽しげな笑顔を浮かべたまま、やや年上だろうカップルがカメラを差し出してくる。
「写真、取ってもらえませんか?」
「ああ、いいですよ」
駅前広場で1人街を眺める私は、格好のカメラマンだ。先程から何度も声をかけられている。頷いてカメラ画面が開かれたスマホを受け取り、構える。
「はい、チーズ」
寄り添って立つカップルを写真に納める。幸せそうな2人の笑顔とイルミネーションが綺麗に映る角度を意識して取った。素敵な思い出になると良いと思う。
「これでいいですか?」
「はい、ありがとうございました」
「いえ、お気になさらず」
お礼を言って去って行くカップルを何となく見送って、私はまた手に白い息を吐いた。身体が小さく震える。
寒さには強い方だから、コート以外の防寒具は身に付けていない。けれど哉也も翔もマフラーを巻いているし、私以外の女子はマフラーと手袋できっちり寒さから身を守っている。高宮先輩なんて耳当てまでしていた。
ここ数日ひどく冷え込む日が続いているから、彼女達が正解なのだろう。実際、今私は物凄く寒い。身体の芯が凍えているらしく、さっきから時折ぞくりと体が震える。手はいくら息を吹きかけても暖まらないし、風が吹く度に首元を寂しく感じた。
(仕事の後真っ直ぐ帰るつもりでいたからなあ……マフラー持ってくれば良かった)
今思ってもどうしようもないと分かっていても、自分を恨めしく思う。寒すぎて逆に頭は燃えるように熱いし、何だかぼうっとしてきた。
(おまけに頭痛は酷くなってるし……くらくらする)
連日頑張ったのと睡眠不足のせいだろうか、昨日から鈍い頭痛がしていた。それが酷くなっている。生徒会にいる時までは立ち上がったり振り返ったりする時だけだった響くような痛みが、今ではずっと続いていた。そのせいか、どうも身体が安定しない。
(早く中に入って暖まりたいけれど……無理よねえ)
明らかに良い雰囲気の哉也と琴音に、そっと息をつく。ここで早く食事に行こうというのは空気を読まなさすぎだ。翔たちも楽しそうだし、もうしばらく景色で意識を寒さから逸らしつつ耐えるしかないだろう。
視線の下がりがちな顔を上げる。街路樹に飾り付けられたブルーライトは、木々の並びも利用して流線を描いている。光が流れ、遊ぶように広がり、集約する先は1本の大きなクリスマスツリー。飾りも沢山飾られたそれはデザイナーが手がけた物らしく、独創的ながらも派手に主張し過ぎず、自然と人々の目を惹き付ける。
広場のあちこちに飾られたライト、高い位置にある街路樹のライトが、広場全体を蒼い光で包み込む。しんしんと冷え込む世界の中、それは酷く幻想的で、揺らめいて——
(……あ、れ——?)
くらり、と。視界が大きく揺れる。並列計算を続けた時に感じるものに似る、酩酊したような感覚。視界一杯に満ちる蒼い光だけが、妙に印象的で。
(マズイ、かも——)
ぼんやりと思うも、熱い頭は上手く働かない。このイルミネーションで現実感がないせいか、足元がふらついてバランスを崩した時も、呆然と街並みを眺めているだけだった。
このまま転んだら受け身も取り損ねるかな、なんて危機感もなく考えながら、身体の平衡を完全に手放しかけたその時——誰かの手に、受け止められた。
「……香宮?」
降ってきた声に、ぼうっと見上げる。微かに眉を顰めている空瀬先輩が逆さに写った。
(ええと……?)
よく働かない頭を無理矢理動かして、状況を把握する。崩れ落ちかけた身体は後ろから誰かに支えられていて、見上げたら逆さの空瀬先輩が見えて。この体勢から見上げて逆さに見えるという事は、先輩は後ろにいて。……という事は、つまり。
「あっ……その、すみません」
慌てて足に力を入れて身を起こした。支えてもらっておいてぼうっと見上げるだけって、何て失礼な。
(というか、街でいきなりふらっと倒れる人っておかしいし……うう、気まずい)
気恥ずかしく思いながら、表面上は平静を装い振り返った。丁寧に頭を下げる。
「少しふらついてしまって。ありがとうございました」
頭を下げた先、空瀬先輩の手元が目に入る。缶コーヒーが2本、先輩の手に収まっていた。
(あ、その手があった。……でも何で2本?)
確かに温かい缶の飲み物は即席カイロ代わりになるし、駅前なら必ず自販機がある。2本も買う必要は無いと思うけれど。
内心首を傾げながら顔を上げた私だけれど、先輩がその1本を私に差し出してきた事でその疑問は氷解した。
「嫌いじゃないなら」
「あ……ありがとうございます」
お礼を言って受け取り、財布を取り出そうとする私を、先輩は首を振って止める。
「金は必要ない」
「え……」
聞き慣れない言葉を聞いて、戸惑いつつ空瀬先輩を見上げた。貸し借りは嫌いじゃなかっただろうか。
「構わない。……暖を取った方が良い」
「……ありがとう、ございます」
困惑しながらも、好意に甘える事にした。熱い缶が冷えきった手に嬉しい。
考えてみれば、空瀬先輩はここに到着してからずっと視界に入らなかった。先輩が一言も話さないのも時折異様に気配が無いのもいつもの事だから気にしていなかったけれど、もしかしてずっと後ろにいたのだろうか。
(それで私が手に息吐きかけてるの見て私の分も買って来てくれたとか……え、何それ先輩らしくない)
気遣ってくれたのかと自然な流れで想像したけれど、それを空瀬先輩に当てはめると壮絶な違和感を覚えた。他人を気遣う空瀬先輩は、もうそれは空瀬先輩じゃない気がする。
ぼうっとした頭で少し失礼かもしれない事を考えつつ、せっせと缶で暖を取る。けれど流石に寒いらしく、直ぐ温くなった。諦めてプルタブを起こし、コーヒーを啜る。無糖だった事にほっとした。甘いコーヒーは嫌いだ。
けれど温かいコーヒーを飲んでも、身体はちっとも温まらない。寧ろどんどん身体の芯が冷えてきて、今や小刻みな震えが止まらない。
そろそろ移動になれば良いなあと罪の無いコーヒーを睨みつつ思っていると、額に冷たいものが当たった。視線を上げれば、今度ははっきりと眉を顰めた空瀬先輩の顔が近くにあって、驚く。
「空瀬せんぱ——」
「——体調が悪いなら、何故言わない」
どうしたのかと問いかけようとした私の言葉に被せられた言葉に、目を見張った。
「……え?」
何の事だと困惑して見返すと、手から冷たいものが離れる。同時に視界に入ってきたのは、先輩の手。どうやら額に手を当てられていたらしい。寒いとは言え体温を有しているはずのそれが、随分冷たく感じたのは。
「かなり熱がある。風邪か?」
「ねつ……?」
ぼんやりと瞬く私を見て、空瀬先輩が嘆息する。そのまま視線を流した。
「中西」
「ん、何?」
翔が空瀬先輩に呼ばれて近寄ってくる。先輩達も訝しげな顔で付いてきた。
「香宮の体調が悪い。帰らせるぞ」
「え? そうなの、咲希?」
驚いたように目を見張った翔が覗き込んできた。慌てて平気だと言おうとしたけれど、それよりも早く空瀬先輩が答える。
「熱が高い。この寒さだ、悪化したかもしれない」
「うわ、それは悪い事したな」
珍しくも翔が殊勝な事を言うものだから、面食らう。その間も2人は話を進めていく。
「けど、咲希の家って結構遠いんだよね。しかも咲希、近寄らせたがらないし」
「家を知られたくないという意味か?」
「そう。俺の家は家族が旅行中だから今1人だし、哉也の所は駄目だし。空瀬の家は?」
「俺は構わない。琴音がいるから支障も無いだろう」
「うん、それが良いな。空瀬の家、確か近いだろ」
「ああ」
「ちょっと待って下さい」
頭が上手く働かないのもあって、ようやく口を挟めた。2人がこちらを見る。
「その、大丈夫です。今日は帰りますから、他の人達はこのまま」
「ふらついている状態で1人で帰ると? さっきも倒れかけていただろう」
「え、そうなの? 止めときなよ、咲希。危ないし」
空瀬先輩と翔に口々に言われて、必死で返す。大事にされても困る。
「子供じゃあるまいし大丈夫よ。寒いのと頭痛いだけだから、帰って寝れば治るって」
「……尚更放っておけなくなってきたな。咲希、本気で体調悪いだろ」
眉を顰めて言う翔に首を振る。ああ、いつもより言葉が出てこない。
「少し調子悪いけど、平気」
「そうは思えないけどな……」
翔が困ったように眉を下げているけれど、困っているのは私だ。少し強い口調で言う。
「大丈夫、もう帰るから。あんまり騒ぐと——」
「咲希、どうかしたの?」
(うう、遅かったか……)
訝しげな琴音と哉也がやって来て、痛む頭を押さえる。2人の邪魔する前に帰ろうと思ってたのに、勘付かれてしまった。
「何でもな——」
「香宮が熱を出した」
「結構悪いみたいだから琴音と空瀬の家に泊まったら、て言ってた所」
何でもないと言いかけた私の言葉は、2人に遮られてしまった。言わなくて良い事を。
「え、咲希大丈夫? うち泊まる?」
予想通り心配げな顔をする琴音に、首を振る。
「大丈夫。さっきから1人で帰るって言ってるのに、2人が過剰に心配してるだけよ」
どこの世に、熱を出した位で余所様にお世話になる高校生がいるだろうか。しかも「家が近い」なんて理由で。体調悪くても、家に帰る事くらい出来る。
「そう? ……あれ、待って咲希。確か今、お母さんいないよね?」
「そうだけど?」
だからどうしたのかと見返せば、琴音は溜息をついた。
「咲希、基本他人の心配なんてしない宏がうちにって言うくらいだから、余程でしょ。その状態で1人家に帰って、自分の看病するって? 無理だよ」
「無理じゃないって。世の中の1人暮らしの人はみんなそうしてるのだし」
「放っておけないよ。私が看病するから。無駄に部屋は余ってるから遠慮はいらない」
有無を言わさぬ口調で言われて、言葉に詰まる。心配されているのが分かるから断りづらい。
けど、今から食事の予定なのだ。私は流石に抜けるとしても、琴音まで抜けさせるのは気が引ける。第一、折角哉也と良い感じだったのに。
ますますぼうっとしてきた頭に苛立ちながら、説得の言葉をひねり出そうとする。
「平気だから、気にしないで——」
「お待たせ。必要そうなものコンビニで揃えてきたよ。これだけあれば足りる?」
けれどその前に、高宮先輩が小走りで駆け寄ってきた。レジ袋を下げている。
「……はい、後はうちに揃ってるので大丈夫です。ありがとうございます」
「予約はキャンセルしておいたよ。稽古の休みは哉也が伝えるだろうし。だろ?」
「ああ」
「ありがと翔、哉也。ほら、咲希行くよ」
「…………」
(こんな時に生徒会の優秀さ発揮しなくて良いってば……)
問答無用で状況を整えてしまった周囲に恨めしげな目を向ける。そうだ、この人達はそういう人だった。これではもう、断る意味が無い。
「行くぞ」
「香宮さん、お大事に〜」
空瀬先輩に背中を押されて、渋々歩き出す。真柴先輩の声を背中に受けながら、駅前広場を後にした。道を曲がって、琴音の家へと歩き出す。
(……さむ)
建物が上手い具合に風を遮っていたのか、人の熱気だったのか。広場を離れると、風が吹き付けて更に寒かった。ますます身体の芯が冷え、頭が熱くなってくる。
これは確かに少し拙いかもな、と思ったその時、ふわりと首筋に温かいものがかかった。驚いて手を伸ばせば、毛糸らしき生地の布が触れる。
「巻いていろ。無いよりはましだ」
頭上から空瀬先輩の声。どうやら先輩がマフラーを首に巻き付けたらしい。温かいから、先輩が巻いていたものか。
「……ありがとうございます」
先輩が寒いからと返すべきだけれど、正直この温かさはとてもありがたい。甘えさせてもらう事にした。首元を覆う温もりに、少し顎を埋める。
けれど、それでも状態は改善しなかった。少しして、また目眩に襲われた。足元がふらついてしまって、二三歩よろける。
「咲希っ……」
「大丈夫か」
琴音の慌てる声よりも先に、背中を支えられる。空瀬先輩がまた支えてくれたらしい。
「ありがとうございます……」
(あー……本格的に拙いかな……)
お礼をいう声が何だか弱々しくて、ぼんやりとそう思う。頭がふわふわして、危機感は余り覚えない。
「歩けるか?」
「大丈夫です……」
空瀬先輩の低い声に頷く。まだ一応目の前はきちんと見えているから、歩く分には支障は無い。
「うわ、これ本当に重症だ……宏、気付いてくれてありがと」
「いや……」
琴音達の言葉が耳をすり抜けていく。何を言っているのか、今ひとつ判然としない。
ふわふわと浮いているような感覚の中、時折ふらつきながら歩く。ふらつく度に空瀬先輩の手が支えてくれなければ本当に転んでいるな、と他人事のように思う。
「……宏、肩支えてあげて。本当は抱えさせたい所だけど……」
「分かった」
2人の声が聞こえたかと思うと、肩に温かい腕が回る。力を込められたたらを踏めば、肩が温かいものに当たった。
「せんぱい……?」
「……そのまま、ゆっくり歩け」
静かな声に、こくりと頷く。先輩に肩を支えられて歩くのは、不思議と安心した。ふわふわと不確かな世界で、その腕だけが確かで。この人に支えられていれば大丈夫、そう信じられた。腕を頼りに一歩一歩、歩いて行く。
「着いたよ、咲希」
琴音の声に顔を上げれば、前に1度来た事のある友人の家だった。二階建ての一軒家。高校生がたった2人で住んでいるとはちょっと思えない、大きな家だ。
「……お邪魔します」
琴音が先に中に入り、電気を付ける。空瀬先輩の腕に促されて続いた。
「寝室用意してくる。宏は咲希をリビング連れてって、温かいものでも飲ませてあげて」
「ああ」
琴音と空瀬先輩が言葉を交わし、琴音がぱたぱたと奥へ行く。それをぼんやりと見送っていると、空瀬先輩の低い声。
「靴は脱げるか」
「……はい」
靴の事をすっかり忘れていた。少し手間取ったけれど、屈んで靴を脱ぎ、揃える。先輩が直ぐに続いて、私を支えて奥へと導いた。
広いリビングに入る。既に電気と暖房が付いていた。琴音だろう。大きくて柔らかな革製のソファに私を座らせ、空瀬先輩は身を起こした。鞄を置いてコートを脱ぐ様子を、ソファに身を沈めたままぼうっと眺める。
「少し待っていろ」
そう言って、先輩はふわりとコートを私にかけて去って行った。体温の残ったコートを引き寄せて、少しでも暖を取る。暖房は付いたばかりで、まだリビングは寒い。
しばらくして戻って来た先輩は、マグカップを手にしていた。ふわりと漂うのは、懐かしい香り。
「しょうが湯……?」
「そうだ。飲めるか」
こくりと頷く。幼い頃、風邪を引くと母が作ってくれた。最後に飲んだのはいつかな。
空瀬先輩は私の両手にマグカップを握らせると、隣に座った。肩と肩が触れ合う位置。先輩の体温が服越しに伝わって、温かい。
しょうが湯に震える息を吹きかけ、ゆっくりと啜る。ぴりっとした味が美味しい。少し蜂蜜も入っているだろうか。
先輩は、ただ黙って私の側に座っている。その沈黙を不思議と心地よく感じながら、ゆっくりとしょうが湯を飲んだ。
半分くらい飲むと、少しずつ体が温まってきた。部屋も暖まったのかもしれない。身体の芯には寒さが残っているけれど、さっきまでの冷え切った状態よりは随分ましだ。
けれど、そうして温まってきた事で気持ちも緩んだらしい。ぼうっとしていた頭が、更にぼうっとしてきた。何だか、眠い。
うつらうつらしそうになるのを、懸命に堪える。琴音が部屋を用意している筈から、そろそろ移動する。寝てしまうのは拙い。
(もう少しだから……)
自分に言い聞かせるも、眠気はどんどん強くなる。時々ふうっと意識が遠のいて、マグカップを取り落としてしまいそうだ。瞼が重い。
「……香宮、眠いのか?」
「……へいき……」
カップが危なっかしげに揺れるのに気付いたのか、空瀬先輩に声をかけられた。やや舌足らずに言葉を押し出し、自分の声で眠気を覚まそうとする。
(もうすこし、だから……)
自分に言い聞かせる言葉も、纏まらなくなってきた。のろのろと頭を振るも、眠気はちっとも遠のかず、逆に深まっていく。
「……香宮」
名前を呼ばれ、マグカップを持つ手ごと包み込むようにして握られた。そのまま、そっとマグカップを取り上げられる。コト、とどこかから音が聞こえた。
肩に腕が回る。そっと引き寄せられ、先輩の肩に頭が乗る。
「眠いなら、寝て良い。大丈夫だ」
囁く低い声が、優しく聞こえて。触れる体の温かさに、髪を梳くように頭を撫でる手に、自然と心緩んで。声に促され、素直に眠りへと沈んでいく。ゆるゆると、瞼が落ちた。
「——……お休み、咲希」
遠くに聞こえた低い声を最後に、私の意識は心地よい闇へと落ちた。
***
目を覚ました私は、一瞬ここがどこだか全く分からなかった。少しパニックになりかけたけれど、見覚えのある天井に気付いて息を吐く。
(確か、前に泊まらせてもらった琴音の……そっか、泊めてもらったんだった)
昨夜の事がぼんやりと蘇る。正直途中から余り良く覚えていないのだけれど、空瀬先輩と琴音に半ば強引に連れられてきたのだと思い出した。
身体を起こす。途端に鈍い頭痛が襲い、思わず顔を顰めた。結構痛い。
(風邪、かあ……)
熱を出す程風邪を引き込むなんて、一体何年ぶりか。余りに久しぶりすぎて、全然気付けなかった。
ドアがノックされる。返事をすると、琴音が入ってきた。
「起きたんだ。……って、寝てなよ。咲希、まだ熱高いんだから」
琴音に言われて、素直にベッドに潜り込む。肩が寒く感じてきていたのだ。
「熱……まだあるのかな」
「少なくとも前に測ったときには39度近かった。測ってみて」
差し出された体温計を脇に挟む。ベッドの脇に置かれた椅子に座った琴音は、ベッドの上からタオルを拾って、氷水の入ったボウルに浸した。きつく絞って、額に置いてくれる。タオルは身を起こした時に落ちたものだった。温くなっていたから気付かなかった。
電子音が聞こえて、体温計を取り出す。琴音がそれを取り上げて、溜息をつく。
「38度。下がってはいるけど、まだ高いね。朝だし……、まだ上がるかな」
「え……ちょっと待って、琴音。今何時?」
嫌な予感を覚えて、身を起こす。それを手で押し止めつつ、琴音はさらりと答えた。
「10時。よく寝てたよね、咲希。汗もかいていたし、1度起こして着替えさせたけど、覚えてないでしょ?」
「覚えてない、ありがとう……じゃなくて、10時って」
今日はまだ冬期補習中だ。授業は9時から始まるのに、何で呑気にここにいるのか。
「心配しなくても、ちゃんと咲希の分も欠席連絡はしてるよ? お母さんいないから代わりに看病しますって言ったら先生も納得してくれたし」
「……別に寝てるだけなんだから、放っておいてくれても大丈夫なのに」
看病はありがたいけれど、わざわざ学校を休んでまでしてもらう必要は無い。どうせ補習も13時には終わるのだから、寝ておけば良いのだし。
けれど琴音は私のその言葉を聞いて、にーっこりと笑った。
「咲希。ちょおーっと、反省しようか?」
「う……何?」
反射的に首をすくめる。昔から琴音のこの笑顔には弱い。この顔で笑う時の琴音はかなり怒ってるし、大抵物凄く怒られる前兆だ。
「体調、結構前から悪かったんだろ? 何で黙ってたの。翔だって鬼じゃないんだから、調子が悪いと分かってたらちゃんと仕事量減らしてくれるよ」
「……え? 気付いて……?」
仕事の途中から現れた頭痛と目眩。言っていないのに、何で知っているんだろう。
驚いて瞬く私に、琴音は器用にも驚きと呆れを等分に混ぜて溜息を漏らした。
「……半信半疑だったけど、本当だったのか。宏が、ね。気になってたけど、余りに普通にしてるから何も言わなかったんだって。宏も少しは周りに言えってね」
琴音の言葉に、驚く。そういえば空瀬先輩、ハロウィンの時も私が疲れているのに気付いていたっけ。本当に、あの特殊技術は何なのだろう。
「咲希も咲希だよ。黙って全部仕事片付けて、挙げ句寒空の下ずっといて、馬鹿だろ」
「馬鹿って何よ。自分の仕事をきちんとするのは当たり前だし、あれは恒例行事で」
少しむっとして言い返すも、琴音にぴしゃりと言われた。
「体調悪いなら別。行事も風邪こじらせてまで出る必要のあるものじゃないでしょうが。倒れられたら周りもびっくりするし、心配するじゃないか」
「……ごめんなさい」
迷惑をかけた自覚はあるので、流石に声が小さくなる。それを見た琴音が眉を上げる。
「倒れた事を怒ってるんじゃないの、一言も言わなかった事を怒ってるの。駅前でも、宏が本格的に拙いって気付く前から、結構きつかったんでしょ?」
「う、うん」
「その時帰れば良かったでしょうに」
「だ、だって……」
「何」
(うう、これは怒るかなあ……だって、本気で大丈夫だと思ったんだもの)
本気で説教モードの琴音に首をすくめつつ、ぼそぼそと言った。
「その……体調悪いからって帰ったら琴音も帰るの目に見えてたし、そうでなくても気にして食事どころじゃなかっただろうし。折角哉也と良い感じだったから、邪魔するのは気が引けて……その、平気だと思ったから、我慢しようって」
琴音は一瞬呆気に取られた顔をした。けど、みるみるその顔を怒りに染めていく。
「……そんな理由で無茶するんじゃない!」
「無茶じゃ無いと思ったのよ……」
結果的に邪魔をした以上、強くは言えなかった。体調管理が悪かったのは事実だ。
「もう、咲希はいつもそうだから……!」
「程々にしておけ、琴音。相手は病人だ、疲れさせては意味が無い」
本腰を入れて説教に取りかかりかけた琴音を止めたのは、抑揚の無い低い声だった。思わず目を見張った私を余所に、琴音が憤懣やるかたないという様子で振り返る。
「だって、宏! 咲希は言わなきゃ分かんないんだろ!」
「言った所で香宮の体調は良くならない。疲れさせるだけだ。治ってからにしろ」
(いや、治ってからも遠慮したいのですけれど……)
そう思ったけれど、琴音がいかにも渋々といった様子で引き下がるのを見て黙っておいた。迂闊な事を言ったら、また怒られる気がする。
(……って、そうじゃなくて)
「あの……空瀬先輩まで休みを……?」
非常に気まずい思いで聞くと、空瀬先輩がこちらを見た。先輩が頷く。
「すみません……でも、あの……」
琴音1人で十分だろうとは流石に言えず言葉を詰まらせるも、先輩は雰囲気で察したらしい。
「琴音は粥が作れない」
非常にシンプルかつ琴音のデリケートな部分に触れる答えを、あっさりと言った。
「……あー……」
「病人食を作らせると焦がす。あれは病人に食べさせるものじゃない」
「それは本末転倒では……いえ、納得しました」
「うるさいな。放っといて」
琴音がぷいと明後日の方向を向く。そうか、お粥はまだ駄目なのか。
(……今度教えてあげよう)
密かに心に決め、私は先輩に頭を下げた。
「すみません、ご迷惑をお掛けしています」
「気にするな」
短く言って、空瀬先輩がお盆を手に近付いてきた。再び起き上がった私の膝に置く。
先輩が用意したのはお粥ではなく雑炊だった。出汁の香りがするし、卵で綴じてある。
「……いただきます」
口籠もりながらそう言うと、空瀬先輩は頷いた。
「食べ終わる頃に取りに来る」
そう言って、部屋を出て行く。見られているのも落ち着かない。正直ほっとした。
置かれていたさじで掬って、息を吹きかける。少しだけ口に入れると、優しい味がした。味が分かるなら、直ぐに良くなるかな。
ほっとしつつ食べていると、琴音が息を吐きだした。目を向けると、眉を下げている。
「……うん、言い過ぎたな。ごめんね」
「謝られる事じゃないわよ……そもそも私が悪いのは事実だし……」
居心地悪く言って、雑炊に目を落とす。沢山の人に迷惑をかけたのは、本当に自己嫌悪だ。
「……迷惑かけて、ごめんね」
ぽつりと言うと、琴音が笑う気配がした。そっと窺うと、柔らかい表情に戻っている。
「咲希は体調悪くても分からないから、少しでもおかしいと思ったら言って。……後」
言葉を止めた琴音は、いきなり私の頬を抓んだ。痛くないけれど、急な事に面食らう。
「ふぇ、ほとね……?」
「迷惑とは思ってないの。ただただ心配だったの。咲希、びっくりするくらい危なっかしいんだもの」
言い聞かせるように言われた言葉に、胸の奥が温かくなる。本当に心配してくれたと、分かるから。
「だからね、咲希。こういうときは「ごめんなさい」より「ありがとう」が嬉しいな」
そう言って、琴音がようやく手を離してくれる。瞬きを繰り返して見上げた。
「……心配してくれて、ありがとう?」
「うん、どういたしまして」
琴音がにこりと嬉しそうに笑うものだから、何だか私まで気持ちが浮上してくる。現金だなあと呆れながらも笑った。
「さて、食べたら寝な。まだ熱は高いのだし」
「うん、そうする。琴音も一晩中看病してくれたのでしょう? 少し休んで」
琴音の事だ、寝ている間細々と面倒を見てくれたのだろう。余り眠っていないだろうからとそう言うと、何故か琴音は悪戯っぽい笑顔になった。
(……え、何故そこでその笑顔?)
無意識に身構える。何となくだけれど、ちょっと嫌な予感がするのだ。
けれど、そんな身構えなんて、続く爆弾には全く効果が無かった。
「ううん、平気だよ。着替えとか汗拭いたりとか以外は、宏もやってくれたし」
琴音の言葉が理解出来ない。滅多に無い出来事だ。
「…………。ごめん、もう一回言って」
「だから、咲希の世話はかなり宏も見てくれてたから、私はそれなりに寝てるよって」
「どうしてそうなるの!?」
思わず引き攣った声を上げる。大声が頭に響いて、う、と声を漏らした。
「ほら、大声出さない。だって、宏が手伝ってくれるって言うし。力のある奴がやった方が良いものって多いんだよ」
「そうかもしれないけど……!」
色々駄目だろうとこのどこかずれた友人に声を大にして訴えたい。友人に面倒見られるのと先輩に見られるのでは天と地程差がある。
「て言うか、やっぱ咲希、昨夜の事ってかなり覚えてなかったりするんだ?」
「……ごめん、何かやらかしたの?」
引き攣った顔で尋ねる。知らないうちに更にご迷惑をお掛けしたのだろうか。
「まず、どれくらい覚えているのか知りたいな」
物凄く楽しそうな顔をしている琴音に全力で警戒心を覚えつつ、必死で記憶を辿る。
「……イルミネーション見てて、空瀬先輩に熱気付かれて……あれ、何を話してたかな……で、半ば強引にここに泊まる事になって、ええと、歩いてきたのよね……?」
改めて思い返せば、驚く程覚えていない。この家までどう来たのかさっぱり覚えていないのは、ある意味凄いと思う。
「あと、何があった、か、な……えっと、翔?」
「え?」
戸惑った声で聞き返す琴音を見上げて、記憶の欠片に引っかかったそれを尋ねた。
「ここに着いてから翔に呼ばれた気がするんだけど……哉也かな。どっちか来た?」
「……ううん?」
「気のせいかあ……」
本当に記憶は当てにならないらしい。変な事してないと良いけれど。
少し冷めた雑炊を口に運びながらそう思っていると、琴音が深々と嘆息した。
「……もういっそ凄いというか、ここは面白がって遊び倒すべきなのだろうけど流石にちょっと同情するというか、でもやっぱりそこが面白いというか……」
「……ええと、琴音? どうかした?」
聞き取りづらい声で呟く琴音にそっと声をかけると、我に返ってにこりと笑う。
「ううん、こっちの話。まあ覚えて無くても無理ないよ、あんな高熱だったんだもんね」
「わ、分かったってば……」
笑顔のまま威圧してくる友人に身をすくめ、最後の一口を飲み込んだ。
「それは良いとして。咲希、良い事教えてあげる」
「……何か聞きたくないなあ……」
苦い思いで漏らす。琴音の「良い事」が碌な事だった試しがない。特に、今みたいな凄く楽しそうな笑顔を浮かべている時は。
「家について直ぐ、私はこの部屋を用意したんだけどね。まあ、流石に少し時間かかるから、その間宏に温かい飲み物でも、って任せて上がったんだけどね」
(既に辛い……)
ちょっと遠い目になりかける。知らぬ間に、先輩に飲み物を用意させていたらしい。ほとんど覚えてないから、お礼もまともに言えていないのでは無かろうか。
後で謝っておいた方が良いかなあ、何て逃避し掛ける私に、琴音は容赦なく続けた。
「風邪で弱った上に冷えた身体が温まったんだから、当然眠くなっちゃったみたいでね? 部屋を用意し終えて降りてきたら、咲希ったら、宏にもたれてぐっすり眠っちゃってて」
「…………!」
声にならない悲鳴を上げた私に構わず、琴音は超特大級の爆弾を落としてくれた。
「仕方ないから、宏に抱えて上がってもらったんだ。いわゆるお姫様抱っこってやつ?」
余りの事に、声が出ない。しばらくただ口を開閉して、ようやく戻って来た声は絶叫に近かった。
「っ、なんで起こしてくれなかったのー!?」
あんまりだ。あんまりすぎて受け入れられないというか絶句するしかないというか。いや、落ち着け自分。
(って、落ち着ける訳がないわよ……!)
「起こしたよ。声かけて軽く揺すったけど、全く起きる様子すらなかったから」
「抓ってでもひっぱたいてでも起こしてよそこは!」
「いや、病人相手にそれは無いし?」
言葉だけなら至極尤もに聞こえるけれど、琴音の顔を見れば分かる。明らかにそうなる事を予測してあえて起こさなかったのだ、この友人は。
「私にはそれの方が無いわよ! よりにもよってそんな……!」
「はいはい、ほら咲希落ち着いて」
「誰のせいよ!?」
叫んだ所で、ドアが開いた。微かに眉を顰めた空瀬先輩が入ってくる。
「香宮、熱があるのなら騒がない方が良い。琴音も興奮させるな」
「いやあ、咲希が勝手にパニックになっただけだし?」
しゃあしゃあと言う琴音を睨むけれど、滅多な事は言えない。藪蛇が怖くて口を噤んだまま、手元の食器を片付けてトレイごと先輩に返す。
「ごちそうさまでした。……美味しかったです」
「ああ。もう寝ろ」
空瀬先輩の言葉と同時に、琴音が肩を押す。逆らわずに身体を倒すと、タイミングを合わせて支えてくれた。上掛けを掛けられる。
「ありがとう」
「いいえ。まあ、今日明日はゆっくり寝てなよ。お休み」
琴音の言葉に、頷く。熱があるのは本当らしくて、あっという間に眠くなってきた。
「ん、お休み……」
ぼんやりとそう言って、私は目を閉じた。
次に目を開けた時、頭痛は随分と治まっていた。
「起きたか」
「……空瀬先輩?」
声に横を向けば、空瀬先輩がベッド脇に置かれた椅子に座っている。体温計を差し出されたので、脇に挟んだ。待っている間に、尋ねる。
「今何時ですか?」
「4時過ぎだ」
少しして電子音の鳴った体温計を見せると、先輩は息をついた。
「37.5度。回復早いな」
「琴音と先輩の看病のお陰です。……琴音は休んでいるのですか?」
身体を起こしながら投げ掛けた何気ない疑問への返答が、琴音不在のまま本日3回目の爆弾を落としてくれた。
「出かけた」
「……え?」
耳を疑って見上げれば、先輩は淡々と繰り返す。
「出かけた。留守の間は任されている」
(それはもしかしなくても私の看病の事ですよね……)
あの話の後2人きりにするとは良い根性だ。恨めしく思いつつ、更に尋ねる。
「買い物ですか?」
「いや。香宮と待ち合わせだと言っていた」
「……琴音、誘ったのですね」
一体いつの間にそんな勇気を絞り出したのだろうかと妙に積極的な友人に驚いていると、その従兄たる先輩ははっきりと首を横に振った。
「今の琴音にそんな事が出来る程の行動力は無い。昼頃、香宮から連絡があったらしい」
「……哉也が、ですか」
更に驚愕の事態。何と、あの哉也が琴音をデートに誘い出す事に成功したらしい。翔辺りがせっついたにせよ、あり得ない。明日は嵐か。
「意外か?」
「今までのへたれぶりからして……あ、空瀬先輩もご存知でしたか」
「あれだけ琴音が熱心に菓子もどきを量産していれば分かる」
「……そこは「もどき」を外してあげて下さい」
ハロウィン前日の苦労を思い出しつつ、苦笑して言う。もし先輩が制作過程を目の当たりにしていたなら、「もどき」と付けたくなる気持ちも分かるけれど。
「というよりも、気付いていない人間が生徒会に居るのか」
「いえ。哉也が気付いてない振りをして誤魔化していただけで、全員が」
流石によく見ているなと思いつつ、直ぐに首を振る。それに頷いて、空瀬先輩が手を伸ばしてきた。やや冷たく感じる手が、額に当たる。
(……あ、何かこれ覚えがある)
ぼんやりとした記憶の向こう、同じように手を当てられた記憶が微かに蘇った。
(って、さっき体温計で測ったから必要ないじゃない)
「あの、空瀬先輩——」
一体何を、と聞こうとして、先輩のいつもより低い声に遮られる。
「——体調が悪いなら、無理に平気を装おうとするな」
琴音も言っていたが、と付け加えるように落とされた言葉に、首をすくめた。
「無理をしたつもりも平気な振りをしていた訳でも無かったので……」
「妙なのには気付いていたが、ああまで悪化する程には全く見えなかった。尋ねるなり誰かに相談するなりすべきだと琴音に言われた。その通りだったな」
そう言って嘆息する先輩に、眉が下がる。先輩が後悔するような事じゃない。
「……久々の風邪で酷さを見誤りましたが、誰かに頼る事でも無いですし……」
「頼ると言う程の事でも無ければ、周囲が気付かない事前提で動くべきでもない。不要な遠慮だ」
「…………」
「香宮は、表に出さなさすぎる。周囲も何をして良いか分からないから、結果無関心のような状態になる。中西も、香宮もそうなのだろう」
「…………」
「本当に無関心なのではない。手を出せないから目を向けなくなる。そういう事だろう」
「いえ、あの2人は別に心配とか……」
「しないならば、昨夜帰る時にあれ程積極的に対応しない。琴音がこちらへ来たのも、香宮が気付いて来させたからだと聞いた」
「…………」
「少しは、動きたくても動けない周りを頼りにしてやれ。香宮の周りの人間は、頼りに出来るのは、俺より香宮の方が知っている筈だ」
(…………琴音の目的はこれか…………)
流石は友人というか、私が理論立てて説教されるのに最も弱いという事をよく分かってらっしゃる。そしてその分野にかけて、空瀬先輩の右に出るものはいない。
「香宮が眠っている間、中西や香宮だけでなく、高宮や真柴からも琴音に連絡が来ていた。何も言わずに周囲に心配をかけるよりは、先に告げておいた方が後の心労は減るだろう」
「……仰る通りです……ごめんなさい……」
これ以上は勘弁して欲しいと、私は弱々しく謝罪を口にした。淡々と説かれると、とても心が痛い。
「……別に、追い詰めたい訳では無いのだが」
けれど、しおしおと俯いた私に空瀬先輩が困惑気味な気配を漂わせるものだから、先輩としてはただ単に心配をかけるな、と伝えたかっただけなのだと察した。
(そういえば、琴音も言ってたっけ。心配された時は「ごめんなさい」じゃなくて——)
「あの……色々と心配していただいて、ありがとうございます」
気まずさから顔を上げきらず、上目がちにお礼を言う。
却って怒らせないような言い方をしたつもりだけれど、……失敗だったらしい。
「…………」
完全完璧無表情な空瀬先輩の顔に、今直ぐどこかの穴に入りたかった。
(うう、琴音の嘘つき……)
ややびくつきながら様子を伺うも、先輩は無表情のまま微動だにしない。元々鉄面皮な人から表情が抜け落ちると、その整った造作と相まって、本当に人形みたいだ。
(……何か……やだな)
ふと、そう思う。ここ最近関わりを持って、表情の変化から感情を読み取れるようになった。そうして少しは彼の心に触れていたから、だろうか。今こうして、人形のような顔をした先輩を見るのは、とても嫌だった。何だか、寂しい。
「あ、の……空瀬先輩」
そっと声をかけると、先輩は瞬きを1つして表情を取り戻してくれた。ほっと胸を撫で下ろしていると、先輩は深々と嘆息する。
「どうしましたか?」
「……いや、何でもない」
「はあ……」
明らかな誤魔化しだったけれど、言いたく無さそうだったので追求はやめた。そのまま何となく視線を彷徨わせて、声を上げる。
「あ、雪……」
つられて空瀬先輩が振り返った先、窓の向こうでは、純白の結晶がちらちらと舞っていた。粉雪よりは大きく牡丹雪よりは小さい、真白の粒。
「ここ数日、寒かったからな」
「そうですね……今度は琴音が風邪を引かないと良いのですが」
綺麗、と息だけで呟いて、私は口を閉じた。空瀬先輩も何も言わず、外を眺めている。
しん、と静かな部屋の中。きっと外も、雪が音と共に全てを吸い込まんばかりの様子なのだろう。雪降る空を見上げるのは好きだから、中からしか見られないのは少し残念だ。
(でも……こういうのも、良いな)
横目でそっと空瀬先輩を窺う。先程の人形のような無表情とはまた違う、何かを考えているような、静かな表情。先輩の声や表情は雪に少し似ているな、とちょっと思った。
2人の間に、言葉は無い。何も言わず、ただ黙って窓の外の雪を眺める一時。不思議と居心地の良いこの静かな空間が、良いな、と思う。
いつ終わるかも分からないその時間が、ずっと続けば良いのに、と。この時の私は、本気でそう思ったのだ。
どれだけの時間、そうしていただろう。部屋は暖かいから、寒さを感じる事もなく。やがて窓の外が暗くなり、雪が光を反射した時しか見えないようになるまで、私達はずっと外を眺めていた。
「……あの、空瀬先輩」
静かに、声をかけた。振り返った先輩に、自然と浮かんだ言葉を伝える。
「昨日も、今日も、本当にありがとうございました。その、助かりました」
余り良く覚えていないけれど、何となく。昨日の私は、この先輩の静かに差し伸べる手に助けられたのだと思うのだ。根拠も無い勘だけれど、そう確信出来る。それが凄く助かったと思うから、何かを返さなければ。
この人に何か返したい、と思った。
「あの、お礼、というのも変なのですけれど……お返しに、何か出来たらなあって。私に出来る事なら何でもしますから、何かありませんか?」
その思いのままに、真っ直ぐ言葉を向ける。自分の気持ちを伝える時は、哉也や琴音のように、はっきりと言った方が良いのは、2人を見て知っているから。
先輩の目を真っ直ぐ見て伝えた言葉に、先輩の静かな瞳が揺らいだ。凪いだ水面に投げた石が作り出した波紋は、けれどはっきりとした形になる前に先輩が目を閉じてしまって、見えなくなる。
「……香宮、お前は……」
「はい?」
久々に「お前」と呼ばれた気がする。その事実に驚きながら返事をすると、先輩は何事か言いかけた言葉を飲み込んで首を振った。
「……いや、何でもない」
「はあ……」
(そんなはっきりと目を逸らしたまま言われてもなあ……まあ良いけれど)
哉也と同じく人の目を見て話す空瀬先輩にしては珍しいその光景も気になったけれど、今気になるのはそれよりもさっきの質問への答えだ。
「あの、それで……」
「……ハロウィンの、菓子」
「…………え」
今物凄く無かった事にしたい単語を聞いた気がして、少し心が引き攣る。それを必死で表に出さないようにする私を余所に、先輩が一言ずつ押し出すように続けた。
「あの時の、菓子は……香宮が作ったのだろう」
「ええ、まあ……」
量産優先の全力手抜きお菓子だ、とは言えず、曖昧に頷く。それに気付く事無く、先輩は今度こそ私と真っ直ぐ目を合わせた。
「あれを、良ければ……また、作って欲しい」
(……ただの手作りお菓子? それだけ?)
その程度の事だろうかと微妙な気持ちになりつつ、聞く。
「ええと……同じものを? 別のものですか?」
「香宮のしたいようにしてくれれば良い」
「では、別のものにしますね……何かリクエストあります?」
「特には。嫌いなものも無い」
(よし、豪華にケーキでも作ろう)
心の内で1人頷く。お礼代わりなのだから、この間のクッキーのような手抜きは絶対にしない。
「はい、では近いうちに」
「ああ、待っている」
(渡すのは……琴音に預ける……のもなんだかな。またここを尋ねれば良いか)
1つすべき事が決まって、ほっと息を吐く。今回お世話になった他の先輩方には、そのうち生徒会へ差し入れでもすればいいだろう。
そろそろ寝るべきかと、何となしに先輩を窺う。そろそろ寝ろと言われるかなと思ったのだけれど、先輩は未だ私を見つめていた。何かもの言いたげと言うか……迷っているというか。そんな雰囲気が感じられる。
「……空瀬先輩?」
この物凄く即断実行な人が何か迷うような事が、とそっと声をかける。微かに瞳を揺らした先輩は、それでもしばし迷うような間を置いて、そっと身を乗り出してきた。そのままベッドに腰掛ける。
(……え?)
ベッド脇の椅子に座っていた空瀬先輩はただでさえ近かったのに、隣に座られればほとんど触れ合うような距離感になる。何を、と面食らう私に、先輩がすっと手を伸ばす。
(——あ、良かった)
反射で手首を極めずに済んで、ほっとする。不意打ちで手を出されるとうっかり関節を極めそうになるのだ。稽古の悪しき副作用である。
そんなちょっと笑えない危険を回避したとは露知らぬ空瀬先輩の手が、頭に触れる。男子にしては細くて長い指が、ゆっくりと私の頭を撫でた。そのまま、手櫛で梳くように、何度も指が髪を滑っていく。
「あ……あの、空瀬先輩……?」
裏返りそうになる声を抑えようとして微妙に失敗した、微かに震える声が出た。先輩が何を考えているのかさっぱり分からないのはまあ良いとして——
(うう、心臓が……)
思わぬ事態に動揺しているのか、触れる手が妙に心地良いからか。先輩が物言わず髪を撫でるこの状況に、心臓がやけに煩い。
おまけに、先輩が髪に触れるその様子が、壊れ物を扱うような雰囲気で。先輩が醸し出す何かが、ますます動悸を速くさせる。何故か耳が熱くなってきた。
何となく先輩を直視出来なくて、きゅっと目を閉じる。頼むからこの無駄に早い心臓と熱い耳には気付いてくれるなと祈りながら、ただただ固まる。
一定の動きで髪を梳っていた手が、そっと髪を掬い上げる。優しい動きで持ち上げて、なにやら弄っていたかと思うと。
「……っ、え……?」
「もう少し、動くな」
いきなり触れた冷たくて硬い感触に狼狽した声を漏らすと、先輩の真剣な声が聞こえた。咄嗟に動きを止めて待つ事しばし、先輩の手が離れる。何だか、少し頭が重い。
「良いぞ」
そう言われて、そっと目を開ける。やっぱり近い先輩の顔をじっと見上げると、先輩は微かに表情を動かした。
「……似合っていると、俺は思うが」
「え?」
何がだろうと困惑して見返せば、手鏡を渡される。受け取ってさっき髪を触られていた辺りを見れば、くるくると巻き上げた髪を止める、淡い翡翠色の簪が映った。
「え、先輩、これ……?」
「誕生日なのだろう」
「……は?」
聞き慣れない単語を聞いた気がして、顔を上げる。空瀬先輩が繰り返した。
「12月25日。香宮の誕生日なのだろう。琴音から聞いた」
「…………たん、じょうび…………」
非常に縁の遠い単語を繰り返す。しばらく口の中で繰り返して、ようやく、誕生日、と単語が繋がった。
(…………そういえばあったな、そんなもの)
存在自体忘れていたけれど、そういえば今日は私の誕生日か。そう考えると、とんだ誕生日である。
(……そういう事でも無くて)
今最も重要な事——目の前の先輩がそれを口にしたという事。今髪に飾られている飾りが、先輩の手から渡されたという事。
それはつまり。
(…………誕生日プレゼント!?)
ようやくその事に思い当たり、目を見張った。慌てて何か言おうとして、何を言えば良いのか分からず更に慌てる。
「いえ、あの、えっと……」
「違ったのか?」
「いえ! それはあっているのですけれど、そうではなくて……!」
必死で気持ちを静めて、言葉を作る。未だ収まらない動悸に震える声で、聞いた。
「あの、どうして……?」
誕生日プレゼントを貰うのは、琴音くらいだ。哉也達とそんなやりとりはしないし、クラスメイトとはこの時期は会わない。少なくとも去年まではそうだったし、今年はこうして欠席しているから同じだろう。とにかく忘れられやすい日だし。
琴音も去年は色々あって会っていなくて、貰っていない。それもあって忘れていたのだけれど、何故この先輩から。琴音からの、という訳でも無い様だし。
混乱と困惑とで見上げた先、空瀬先輩は表情を変えずに端的に答えてくれる。
「渡したいからだ」
「…………」
「俺の勝手な意思だ。嫌なら捨ててくれ。……迷惑だったか?」
直ぐに首を横に振った。少し頭が痛いけれど、気にならない。
「いえ、その……嬉しいです。ありがとうございます」
鏡越しに見た簪は、とても綺麗だった。一目で気に入ってしまったし、何より。
(凄く、嬉しい……)
幼い頃から、クリスマスで忘れられていたからだろうか。誕生日プレゼントというのは、何だか無性に嬉しかった。
嬉しい、と。ただただ、そう思う。この人がこうして私にと簪を渡してくれたのが、似合うと言ってくれたのが、何故かどうしようもなく嬉しい。
もしかしたら、少し熱に浮かされているのかもしれない。そう思う程、今の私は気持ちが高揚していた。
「ありがとうございます。大事にします」
「……ああ」
少し低い先輩の声を聞きながら、そっと簪に触れる。幼い子供のようなくすぐったい感情とこの状況に恥ずかしさを覚えながらも、私はそっと先輩に笑いかけた。