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03.


 朝の診察が始まる前に、屋敷の使用人が来た。


 二十代前半だろうか。栗色の髪を後ろで束ね、辺境伯家の紋章入りのエプロンを着けている。背筋が伸びていて、所作が整っている。ただ、その目には隠しきれない色があった。


 ——なぜ私がここに、と書いてある。


「ミリアと申します。閣下のご命令で、こちらのお手伝いに参りました」


 丁寧な口調だった。完璧に丁寧だった。それが逆に、感情のなさを際立たせている。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 トーコは特に気にした様子もなく言った。


「まず、待合室の椅子を並べ直してもらえますか。患者が増えてきたので、もう少し数を足したい」


「……はい」


 ミリアが動き出す。その背中を、ガルドが胡乱な目で見送った。


「先生、ああいう子は信用できんぞ」


「仕事をしてくれれば十分です」


「しかし——」


「ガルドさん、今日の薬草の在庫確認をお願いします」


 ガルドは一瞬口を開け、それから渋々頷いた。



    ◇



 午前の診察が始まった。


 ミリアは待合室の案内と記録を任された。最初は要領を得ない様子だったが、飲み込みは早い。三人目の患者が来る頃には、名前と症状を手際よくまとめて渡してくるようになっていた。


 ——仕事はできる。


 トーコはそれだけ確認して、診察に集中した。


 ミリアの方は、診察室の様子を時折覗いていた。気づかれていないと思っているのだろうが、トーコには筒抜けだ。


 何を探っているのかは、だいたい想像がつく。


 辺境伯に取り入ろうとしている女が、どんな手を使っているのか。怪しい治療で患者を騙していないか。そういったことを、確認しに来ているのだろう。


 別に構わない。見ていればわかる。


 トーコは次の患者を呼んだ。



    ◇



 昼過ぎ、薬の荷物が届いた。


「こちらに運んでいただけますか」


 ミリアが木箱を持ち上げた。重さは相当あるはずだ。それでも彼女は顔色を変えず、棚の前まで運んでいく。


 置いた瞬間、僅かに表情が歪んだ。


 ほんの一瞬だ。すぐに元に戻った。


 トーコの目が、静かに細くなった。


「ミリアさん」


「はい」


「腰、いつからですか」


 ミリアが固まった。


「どう、してそれを? 鑑定スキル? あなたは無紋なのに?」

「私は魔力を持ちません。それゆえに、特別な魔力への感受性があるんです」


 人体を流れる魔力。健康な体ならば、スムーズに流れる。

 しかしたとえば体に不調があると、その部分の流れが滞るのだ。


 人は重いものを持ち上げるとき、無意識に魔力を足など下半身に集める。それによって体を強化し、物を持ち上げる体。


 しかしトーコの目には、ミリアの体を流れる魔力が、腰のあたりで滞ったのが見えたのである。


 これは腰に重大な不調を抱えてるというサインだ。


 そして、もうひとつ。

 魔力は精神から発せられるエネルギーである。怒り、悲し、憎しみ、そういった強い感情の発露が、そのまま魔力量の大小に影響される。揺れに変わる。


 魔力の揺れる様から、トーコは相手の感情がある程度わかるのだ。

 ミリアが重いものを持ち上げる時、彼女の魔力は苦痛の揺れ方をしていた。

 そして、自分がそのことを指摘した時、魔力は驚きの揺れを見せた。


 以上のことから、トーコはミリアに、腰の不調があると見抜いたのである。


(無紋なのに、そんなことがわかるだなんて……すごい)


 ミリアはトーコの技術に驚く反面、居住まいを正し言う。


「……問題ありません」


「そう見えません」


「本当に、大丈夫です。仕事に支障はありませんので」


 トーコはしばらく彼女を見た。


 魔力視を開くと、脊椎の周辺に歪んだ光がある。治癒魔法の残滓が幾重にも重なって、その奥で何かが圧迫されている。


「診察台に座ってください」


「先生、私は——」


「仕事中に倒れられると、私が困ります」


 ミリアが唇を結んだ。しばらく間があって、ゆっくりと診察台に腰を下ろした。



    ◇



「治癒魔法で痛みだけ抑えてきたんですね。ずっと」


 背中を確認しながら、トーコは静かに言った。


 ミリアは答えなかった。


「いつからですか」


「……二年、ほど」


「原因は何かありましたか」


「荷物の運搬で、腰を痛めて。治癒魔法をかけてもらったら痛みが取れたので、そのまま働いていました」


 トーコは魔力視で脊椎の状態を丁寧に確認した。


 椎間板が変形し、神経を圧迫している。

 いわゆる椎間板ヘルニアというやつだ。


 治癒魔法は痛みの信号だけを塞いでいた。根本の問題には、まったく触れていなかった。


「辺境伯の屋敷で働くために、隠していたんですか」


 ミリアがわずかに息を呑んだ。


「……隠していたのが、わかりますか」


「だいたい」


 短い沈黙があった。


「……クビになりたくなかったので」


 今度は、取り繕いのない声だった。


「弟が、三人いまして。下はまだ八つで」


 それだけ言って、ミリアは口を閉じた。続きは言わなかった。言わなくても、だいたいのことはわかった。


 トーコは向き直った。


「手術で治せます」


「!? ど、どんな」


「椎間板が神経を圧迫しています。それを取り除けば、痛みは消えます。根治です」


「根治……」


 ミリアがその言葉を、ゆっくりと繰り返した。


「治りますか。本当に」


「治します」


 断言だった。


 ミリアが初めて、素の顔になった。



    ◇



 施術はその日の夕方に行うことになった。


 処置室に入る前に、ガルドがミリアに小瓶を差し出した。


「これを飲め」


「……何ですか」


「麻酔薬だ。先生が調合した」


 ミリアが小瓶を受け取り、中身を見た。淡い緑色の液体だ。


「飲んだら、どうなりますか」


「眠くなる。施術の間、眠ったままでいられる」


「痛みを、感じないということですか」


「ああ。治癒魔法で使う気絶の術とは違う。ちゃんと、ただ眠るだけだ」


 ガルドが続けた。


「気絶の術は脳に直接働きかけるから、後で頭が痛くなったり、記憶が飛んだりする。先生の麻酔薬は、そういう後遺症がない」


「……飲んでも、大丈夫なんですか」


「俺が保証する。先生の薬で、ここまでひどくなった患者は一人もいない」


 ガルドが珍しく、まっすぐな目で言った。


 ミリアがトーコを見た。


「眠っている間、呼吸は……」


「シルフィが管理します」


 トーコが答えた。


 ミリアがシルフィを見た。肩の上の小さな神獣が、翠色の目でまっすぐ見返してくる。


「き……きゅ」


「風の神獣ですから。清潔な空気を、眠っている間も絶やさず送り込めます。あなたの呼吸は、施術の間ずっとシルフィが守ります」


 ミリアが、しばらくシルフィを見つめた。


 シルフィはじっと、動かなかった。


「……わかりました」


 ミリアが小瓶を傾けた。



    ◇



 シルフィが静かに肩から飛び立ち、翼を広げた。清潔な風の膜が、音もなく処置室を包んでいく。


 眠りに落ちたミリアの傍で、シルフィがゆっくりと羽ばたいている。一定のリズムで、穏やかに。眠る人の呼吸に合わせるように。


 魔力視に映るシルフィの光は、静かで揺るぎない。


 ——任せて、と言っている気がした。


「お願いします」


 トーコは器具を手に取った。


 脊椎の周辺は繊細な場所だ。神経の束が走っている。ミリ単位の精度が求められる。トーコの手は一切ぶれなかった。


 ガルドが息を呑んだ。


「……こんな場所まで、見えるのか」


「見えています」


 魔力視が、神経の走行を鮮明に映し出している。どこを傷つけてはいけないか。どこに圧迫の原因があるか。前世の解剖知識と、この目が、完璧に重なる。


 一つ、また一つ。


 圧迫していた組織が、正確な位置に戻っていく。


 処置が終わった頃、外はすっかり暗くなっていた。



    ◇



 深夜、ミリアが目を覚ました。


 処置室の隣、簡易の寝台に寝かされていた。腰に鈍い感覚はあるが、あの刺すような痛みがない。二年間、ずっとあったはずの痛みが。


 薄暗い部屋の隅で、灯りが揺れていた。


 トーコが椅子に座り、カルテに何かを書いている。


「……先生」


 トーコが顔を上げた。


「起きましたか。痛みはありますか」


「あります。でも、前の痛みとは違う。処置の傷の痛みだと、わかります」


「それなら正常です」


 トーコが立ち上がり、脈と体温を確認した。


「寝ていないんですか」


「経過を見ています」


「私のために……?」


「患者の術後経過を確認するのは当然のことです」


 ミリアは少しの間、トーコを見た。


 灯りに照らされたその横顔は、疲れているはずなのに、落ち着いている。急かしている様子も、嫌がっている様子も、まったくない。ただ、ここにいる。患者の傍に。


「……先生は、変わっていますね」


「そうですか」


「こんな夜中まで、見ず知らずの使用人の傍に」


「見ず知らずではありません。今日から私の患者です」


 ミリアが、静かに目を伏せた。



    ◇



 翌朝、ミリアは自分の足で立った。


 腰に手を当て、おそるおそる体を動かす。前屈み。横に曲げる。振り向く。


 どこも、痛くない。


 二年間、忘れていた感覚だった。


「……あ」


 声にならない声が出た。


 目に、じわりと熱が集まった。堪えようとしたが、間に合わなかった。


「……泣いていいですよ」


 トーコが、淡々と言った。


 ミリアは両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。肩が揺れる。


 しばらくして、ミリアが顔を上げた。目が赤い。それでも、どこかすっきりした顔だった。


「……なんで、こんなにしてくれるんですか」


「あなたが患者だからです」


「でも私、先生のこと疑ってました」


 トーコが少し、首を傾げた。


「辺境伯閣下に取り入ろうとしてる、怪しい人だって。最初からずっと、そう思ってました」


「知っています」


 ミリアが目を丸くした。


「……気にしていなかったんですか」


「患者を疑いで選んでいたら、医師は務まりません」


 それだけだった。言い訳でも、責めでもなく。ただ、そういうものだという声で。


 ミリアが、ゆっくりと立ち上がった。


 そして深く、頭を下げた。


「改めて……よろしくお願いします。今度は本当に、先生のお役に立ちたくてここにいます」


 トーコが小さく頷いた。


 そのとき、棚の上からふわりとシルフィが飛び降りた。そのままミリアの頭の上に、ちょこんと着地した。


 ミリアが固まった。


「え……あ……乗って、る……?」


「きゅ」


 魔力視に映るシルフィの光は、穏やかな翠色だ。


 ——認めた、ということだろう。


「大丈夫ですよ。噛みません」


「か、噛まないことは……わかるんですけど……!」


 ミリアが泣き笑いの顔で固まっている。


 ガルドが戸口で腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。


「賑やかになったな」


「そうですね」


 トーコは次の患者のカルテを手に取った。


 治療院に、新しい声が加わった朝だった。


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