02.
目が覚めると、枕元に温かい塊があった。
シルフィだ。小さな身体を丸め、規則正しく寝息を立てている。
きゅ……きゅ……。
翠色の鱗が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。魔力視を薄く開くと、淡い光がそこにある。穏やかで、満ち足りた色だ。
起こすのも悪い。トーコは静かに身を起こし、外套を羽織って外に出た。
◇
デッドエンドの朝は早い。
東の空が白み始めた頃、すでに鉱夫たちの声が遠くに聞こえていた。治療院の裏手に回ると、軒下に並べた薬草の鉢が朝露に濡れている。
柄杓で水をやっていると、通りかかった鍛冶師の老人が手を上げた。
「よう、先生。今日も早いな」
「おはようございます」
「これ、うちの畑のやつだ。たいしたもんじゃないが」
差し出されたのは、籠いっぱいの卵だ。
「ありがとうございます。いただきます」
「なに、娘の足の具合がよくなったんで、そのお礼だよ」
老人は照れくさそうに手を振り、行ってしまった。
少し歩くと、今度は村の女性が声をかけてくる。
「先生、牛乳いかがですか。今朝搾ったばかりですよ」
「いただきます」
「先生には本当にお世話になってるから。お代はいらないわ」
断ろうとしたが、女性はもう次の客に向かっていた。
トーコは卵の籠と牛乳瓶を抱えて、治療院に戻った。
◇
魔法コンロの前に立ち、鍋に牛乳を注ぐ。
卵を二つ割り、野菜を刻む。特別なものは何もない、簡単な朝食だ。それでも前世の記憶にある調理の手順は今も染みついていて、手が勝手に動く。
香りが広がり始めた頃、寝室の方でもぞりと音がした。
「きゅー」
目を細めたシルフィが、よたよたと台所に入ってきた。魔力視に映るのは、眠そうな、けれどどことなく期待に満ちた光だ。
——ご飯の匂いで起きた、ということだろう。
「おはよう」
小皿にシルフィの分を取り分けてやると、小さな舌がちょこちょこと動いた。
「きゅ!」
満足げな声だ。魔力視の光が、明るく跳ねる。
「美味しい?」
「きゅー!」
トーコは少しだけ笑い、自分の朝食に向かった。
◇
食器を片付けていると、戸を叩く音がした。
開院前だ。こんな早くに、と思いながら戸を開けると、若い母親が青ざめた顔で立っていた。腕の中に、ぐったりした幼い子供を抱えている。
「先生……子供が、昨晩から熱が下がらなくて」
「中へどうぞ」
診察台に寝かせると、子供は薄く目を開けた。顔が赤く、呼吸が浅い。
トーコは魔力視を開きながら、額に手を当てた。
「街の聖女様に。高いお金を払って治していただいたんですが、夜になってまた熱が出てきてしまって」
魔力視に映るのは、治癒魔法の残滓と、その奥で燻る濁った光だ。
——やはりそうか。
「聖女様が悪いわけではありません」
トーコは母親に向き直り、説明した。
「治癒魔法は、細胞の回復を強く促す力です。傷を塞いだり、骨を繋いだりするのには向いている。でも感染症は、体の中に入り込んだ菌が原因です。細胞をいくら元気にしても、菌そのものを取り除かなければ、熱は繰り返します」
母親が、不安そうに子供を見た。
「では……どうすれば」
「菌をやっつける薬を飲ませます。それと、水分が足りていないので補充します」
トーコは棚から小瓶を取り出した。ガルドと二人で調合した、この世界の薬草と医学知識を使った抗菌薬だ。前世の知識をもとに配合した、今のところデッドエンドにしか存在しない薬である。
それと、もう一つ。細い管と小さな袋でできた道具を取り出すと、母親が目を丸くした。
「それは……何ですか」
「点滴といいます。薬と水分を、少しずつ血の中に直接送り込む方法です」
母親が、息を呑んだ。
処置は一刻ほどで終わった。点滴の袋が空になる頃には、子供の顔色が明らかに戻っていた。額の熱も下がっている。うっすらと目を開けた子供が、か細い声で「おかあさん」と呼んだ。
母親が泣き崩れた。
「神様……薬神様……!」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟なものですか……! 先生、本当にありがとうございます……!」
トーコは処置道具を片付けながら、薬の飲ませ方を丁寧に説明した。三日分を包んで渡すと、母親はそれを両手で受け取り、また深く頭を下げた。
母子が帰っていく背中を見送り、扉を閉める。
振り返ると、待合室にはすでに数人の患者が座っていた。開院前から来て、静かに待っていたらしい。
「大丈夫でしたかい、あの子」
鉱夫の男が、心配そうに聞いた。
「ええ、もう大丈夫です」
「そうか、よかった」
男はほっとした顔で、また椅子に座り直した。
「みなさん、お待たせしました。今から診察を始めます」
待合室が、ほんのり和んだ気配になった。
◇
午前の診察が終わったのは、昼が少し過ぎた頃だった。
器具を洗い、カルテを整理し、薬棚の在庫を確認する。やることは尽きない。
肩に、小さな重みが乗った。
「きゅー……」
シルフィだ。魔力視に映るのは、心配するような、くすんだ翠の光。
「大丈夫よ」
「きゅ」
今度は少し、低い声だった。——そういう話じゃない、と言っている気がした。
「何?」
「きゅー!」
シルフィが肩から飛び降り、入口の方へ向かった。そして戸口の柱のあたりでぺしぺしと翼を叩く。
トーコが近づくと、そこに一枚の紙が貼ってあった。
丁寧な字で、こう書いてある。
——【求人。医療補助できる方を募集。詳しくは院内まで】——
「……シルフィ、あなたが作ったの」
「きゅ」
誇らしげな声だ。翠の光が、ぱっと明るくなった。
トーコは暫くその張り紙を見つめた。
——なるほど。そういうことか。
「わかった。動いてみる」
シルフィが満足そうに、ふわりと肩に戻ってきた。
◇
冒険者ギルドの受付には、顔なじみになった女性がいた。
「先生、今日はどうされましたか」
「人を探したいんですが。医療の補助ができる人を」
受付の女性が、困ったように眉を下げた。
「治癒師の方、ということですか。それは……なかなか難しくて。治癒師紋の持ち主は引く手あまたで、辺境には来たがらないんです」
「治癒師でなくても構いません。問診の補助や、患者の案内ができれば」
「もん、しん……?」
女性が首を傾げた。問診という言葉自体、この世界では馴染みが薄いのだろう。現に言葉のイントネーションが想定したものと違った。
「患者さんの話を聞いて、私に伝えてくれるだけでいいんです。あとは薬の受け渡しや、来院の記録をつけてもらえれば」
「ああ……そういう方でしたら、冒険者の中にもいるかもしれませんね。登録してみましょうか」
手続きを進めていると、ギルドの扉が開いた。
入ってきた人物を見て、受付の女性が姿勢を正した。
「ライナルト辺境伯閣下」
ライナルトは受付を一瞥し、それからトーコに目を向けた。
銀がかった黒髪。深い色の瞳。傷の具合を確認したのはつい数日前のことだが、もうすっかり動けるようになっている。
「仕事の依頼に来た」
「閣下のご依頼でしたら、窓口は奥の——」
「ここでいい」
ライナルトはトーコの隣に立った。
「先生にも聞いてもらいたい」
受付の女性が、そっと席を外した。
ライナルトがトーコを見た。その視線は静かで、押しつけがましくない。ただ、まっすぐだ。
「少し、話せるか」
「どうぞ」
「……忙しくしすぎている」
トーコは少し、間を置いた。
「仕事ですから」
「朝から晩まで一人で診て、器具を洗って、薬を作って。休んでいるのを見たことがない」
「見ていたんですか」
「街の者が話していた」
ライナルトが低く続けた。
「あなたが来てから、この街で死ぬ者が減った。それはわかっている。感謝もしている。だからこそ、言う」
トーコは黙って聞いた。
「倒れられては困る」
それだけだった。命令でも、説教でもない。ただ、静かな事実として告げる言い方だった。
「……先生が今日ここに来たのは、人を探しているからか」
「ええ。補助をしてくれる人を」
「ならば、うちの屋敷から雑務のできる使用人を回そう。医療の心得はないが、記録をつけたり、患者の案内をするくらいはできる」
「それは……ありがたいですが、お気遣いなく」
「気遣いではない」
ライナルトが、僅かに目を細めた。
「この街の医師が倒れれば、困るのは私だ。合理的な判断だ」
トーコはしばらく彼を見た。
魔力視に映るのは、落ち着いた深い青の光。嘘のない、真っ直ぐな色だ。
「……わかりました。お言葉に甘えます」
ライナルトが小さく頷いた。
窓の外で、デッドエンドの昼の光が石畳に伸びていた。
シルフィが肩の上で、きゅ、と小さく鳴いた。
魔力視に映るのは、温かくて、少し意地悪な翠の光だ。
——何が言いたいんだろうか。まったくもう。
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