2 リュシアンの覚悟とラリッサの涙
その頃、パルジ伯爵家の客室で、リュシアンは三度目の覚悟を抱いて立っていた。
隣にはシルビー。
今日こそ。
今日こそ、認めさせる。
「シルビーと結婚したいのです。どうか認めてください」
父は椅子に深く腰掛け、まるで息子の未来など、既に失ったような目を向ける。
母だけが、必死に“まだ間に合う”と信じようとしていた。
「認めません。その子はただの庶子です。お前は婿入りする身。その子には、なんの資格もないのよ?」
シルビーは儚げで、美しい。
けれど夫人にとって、その美しさは、男の理性も、家の未来も、全て奪っていく魔物そのものなのだ。
シルビーの母親は、没落した男爵令嬢。
長年愛人として身を置き、正妻が亡くなった途端、堂々と侯爵家に乗り込んだ女。
今や侯爵夫人を名乗り、こちらにも偉そうな顔だ。
だから夫人は、はっきりと拒絶した。
しかし、シルビーは引かない。
「わ、私だって、お父様の娘です」
彼女は縋るように夫人を見た。
その目は、涙に濡れながらも、どこか計算された強さを秘めている。
「黙りなさい! ロンブル侯爵家との婚約を、苦労して漕ぎつけたのに、すべて壊した疫病神!」
夫人はリュシアンを完璧に育てた。
侯爵家の婿にふさわしくあるために。
美貌も、教養も、仕草の一つ一つにも愛情をこめて。
──それを、壊された。
「この子は、ラリッサと……いいえ、アナイスとは比べ物にならないわ。どうしてお前は分からないの!」
アナイスの名が出た瞬間、リュシアンの喉が詰まる。
裏切った婚約者。傷つけたはずの幼馴染み。
だがシルビーは怯まない。
「あの人達は私を虐めた悪魔です。見て下さい!」
差し出された腕。
白い肌に刻まれた、いくつもの小さな傷跡。
「ペン先でアナイスお姉様に何度も突かれました。ラリッサお姉様は「躾」と言って私の頬を何度も殴りました」
その言葉は弱さの告白のようでいて、同時に告発でもある。
リュシアンは彼女の腕をそっと撫でた。
守らなければという衝動が、胸を締めつける。
「可哀そうに、ずっと耐えていたんだね」
彼の声は優しく、そして盲目だった。
夫人は鼻で笑う。
「当たり前でしょう? お前は人の婚約者に言い寄ったのですから」
「母さん! 僕がシルビーを好きになったんだ!」
「本当に……情けないわ」
夫人は目元をハンカチでぬぐった。
三度目の懇願も堂々巡り。
リュシアンは唇を噛み、拳を握りしめる。
「やめろ!」
ついに伯爵が怒鳴った。
「もういい。認めてやろう。だが、後悔はするな? 二度とうちには戻れんぞ?」
静かな宣告だった。
「あなた……」
夫人の声が崩れる。
まだ、息子の救いを求めるように。
「色ボケした息子などいらん。出て行け!」
シルビーはリュシアンの腕を強く掴む。
指が食い込むほどに。
庶子として見下され続けた日々。
姉たちの背中を追い、惨めに生きてきた記憶。
奪った。
初めて、自分の手で。
この男を、絶対に離さない。
その瞳には、愛と復讐が同じ色で宿っていた。
「侯爵は認めてくれたんだ。僕はこの家を出るよ」
リュシアンは立ち上がり、
シルビーとともに、扉へ向かう。
「この親不孝者が!」
その瞬間、白磁のカップが足元に飛び、甲高い音を立てて砕け散った。
粉々になったのは、陶器だけではない。
親子の縁は、断ち切られた。
けれどリュシアンは振り返らなかった。
自分の選択が、正しいと信じて。
*
2階のバルコニーで、ラリッサは手すりに指をかけたまま、じっと門の向こうを見つめていた。
温かな風が静かにドレスの裾を揺らす。
今日は双子の誕生日。十八歳。
けれど屋敷は静かだった。
花もない。飾りもない。厨房から甘い香りも漂ってこない。
──忘れているのだ。
父はきっと、本当に忘れている。
双子が十八歳になったことを。
思い出すのは、あの日。
侯爵家で初めて開かれた、シルビーの誕生日パーティー。
双子は出席しなかった。
認めたくなかった。
どうしても、義妹だなんて呼びたくなかった。
友人たちにも声をかけた。
来ないで、と。
結果、会場は空っぽだった。
招待客のいない祝宴で、シルビーは大泣きした。
父は激怒した。
そして宣言したのだ。
『誰の誕生日であっても、今後パーティーは行わない!』と。
あの瞬間からだった。
『ちょっと、やり過ぎじゃないか?』
リュシアンがそう言ったときの顔を、ラリッサは今も覚えている。
責めるようでいて、どこか困ったような目。
『許すものですか! あの母娘は、私達のお母様を、死ぬまで苦しめたわ! リュシアンはあの子の味方をするの? 私達を裏切るの?』
言い返した。
激しく。喧嘩腰に。
それから、彼は少しずつ離れていった。
幼なじみの輪から、静かに抜け落ちるように。
*
風に乗って、車輪の響く音が聞こえる。
──ラリッサは我に返った。
門を通り越し、庭先に馬車が止まった。
胸が、わずかに高鳴った。
(やっと、この時が来た)と。
けれど、待ち人ではなかった。
扉が開き、降り立ったのはリュシアンとシルビーだった。
手を取り合って。
寄り添うその距離は、恋人同士。
見たくなかったのに。
ラリッサは不意に泣きたくなった。
いや、もう泣いていた。
彼女はリュシアンを愛していた。
子どもの頃からずっと。
隣にいるのが当たり前だった少年を、いつの間にか特別に思っていた。
でも彼は最初に姉のアナイスを選び、
最後にシルビーを選んだ。
その視線が、自分に向いたことは一度もない。
今日が双子の誕生日だと、きっと知らない。
リュシアンの手に花束はない。
祝福も、言葉も、きっと用意されていない。
彼の全てはシルビーの為にある。
「いいわ。リュシアンなんて嫌いよ、大嫌い」
涙は止まらなかった。
ぽろぽろと頬を伝い、落ちていく。
拭うこともせず、ラリッサは立ち尽くす。
二人の姿が屋敷の中へ消えていくまで。
読んでいただいて、ありがとうございました。




