1 姉妹の温室
バラの香りが濃く絡みつく温室の奥で、姉妹は向かい合って座っていた。
「お姉様、私達やっと18歳になったわ」
そう言ったのは妹のラリッサ。
応えたのは姉のアナイス。
「そうね……」
双子。
同じ顔、同じ声。
見分ける方法は一つだけ。ラリッサの目元にある、針先ほどの黒子。
それだけが、二人の運命を分ける印。
漂う甘すぎる匂いは、呼吸をするたび胸の奥に沁み込んでいく。
まるで忘れたい記憶まで吸い込ませるみたいに。
アナイスはぼんやりと考えた。
こんなふうに、妹と向き合うのは久しぶりだと。
「お姉様はまだ、リュシアンを愛しているの?」
アナイスの喉がかすかに動く。けれど、言葉は出てこない。
裏切った恋人――リュシアン・パルジ伯爵令息。
愛しているのか、憎んでいるのか。
もう、自分の感情さえ信用できなかった。
「今も、あの庶子に夢中よ」
ブロンズ色の髪に指を絡めながら、ラリッサが吐き捨てる。
その横顔は、怒りで幼く見えた。
アナイスはため息をつく。
「私は諦めたのよ。そっとしておいて」
諦めた。
そう言いながら、胸の奥ではまだ何かが疼いている。
「あんな下品な子の、どこがいいのかしら」
幼馴染のリュシアンとは、双子のどちらかが花嫁になる。
恨みっこなし。
彼が選んだ方が、ロンブル侯爵家を継ぐ――そんな、幼い約束。
彼はアナイスを選んだ。
賢く、静かで、長女として家を背負う覚悟を持っていたから。
あの頃のリュシアンは、確かに彼女を見ていた。
けれど最後に彼が望んだのは、三女――庶子のシルビー。
父が愛人に産ませた、ひとつ年下の少女。
儚げで、触れれば壊れそうで、いつも涙を湛えている。
『彼女を守りたいんだ』
かつてリュシアンはそう言った。
守るために、双子を悪者にした。
シルビーを虐める義姉。
涙を流させる冷酷な女達。
「シルビーの涙を信じて、お姉様は婚約を破棄された」
──思い出したくないのに。
アナイスの眉がわずかに寄る。
胸の奥の傷が、また開く。
ラリッサは昔からこうだ。
思ったことを口にし、気に入らないと思えば誰にでも言い返す。
だからリュシアンとは、よく衝突していた。
「それでどうしたいの? ラリッサは」
静かな問い。
けれど、その裏には疲れが滲んでいる。
「あの二人を不幸にしないと気が済まないわ!」
強い声。
怒りは、まだ燃えている。
「貴方は……言い出したら聞かないんだから」
アナイスの声は、どこか遠い。
もう争う気力さえない。
ラリッサはローズティーを一口飲む。
赤い液体が揺れる。
まるで血みたいだ、とアナイスはぼんやり思う。
「やってやるわ!」
ラリッサの目には決意が見える。
アナイスは肩をすくめた。
どうでもいい。
でも、何か大切なものを、置き忘れてきた気がする。
──けれど、それを取りに戻る気力もない。
リュシアンの愛を失ったあの日から……。
「好きにすればいいわ。私はこの、お母さまが愛した温室を守って生きていくわ」
ここだけが、まだアナイスの居場所だった。
バラの香りに包まれていれば、壊れずに済む気がした。
ラリッサはカップを戻し、立ち上がった。
「見てなさい。どん底まで落としてやるんだから!」
その肩は怒りで震えている。
アナイスには、それが怖かった。
復讐は、きっと心をさらに空っぽにする。
それでも――ラリッサを止める言葉は、持っていなかった。
そっと妹を見送る。
光も希望も見失った瞳で。
温室を出たラリッサは、足を止めた。
そしてゆっくりと振り返る。
かつては、光を透かすガラスの城だった。
花の迷路、三人で笑い合った場所。
リュシアンと、アナイスと、そして自分。
あの頃は、未来が壊れるなんて思いもしなかった。
今は、幸せの余韻など一片も残っていない。
あれはもう城ではない。
姉を閉じ込める、哀れで美しい牢獄だ。
ラリッサの胸が軋む。
「お姉様、その牢獄も、壊してあげるわ」
今日、十八歳になった。
奪われたもの。
踏みにじられた誇り。
全部、取り戻す。
ラリッサの唇が、ゆっくりと吊り上がる。
その笑みは、無邪気には程遠く、悪意の滲む顔だった。
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