残り香
三条は何が起きたのか分からないまま、眠れぬ夜を過ごしていた。時計を見ると、既に七時を回っている。気が抜けたのか、漸く重くなった瞼に睡魔が襲ってきた。
程なくして、一瀬が二階の自室からリビングへ、欠伸をしながら降りて来た。
(何だ、まだ寝てんのか)
三条の顔をチラリと見てから、水を一杯飲み、ベランダへ出る。
(アイツの顔を見てると、胸の奥に何か引っ掛かりを感じるな…)
煙を吐き出す一瀬は、昨夜の出来事を覚えていなかった。
★
三条はその後、昼頃になって漸く目を覚ました。まだ昨夜の余韻が胸に残っているが、昼食の時間には一瀬と一緒に食卓を囲む事になる。
その後、帰宅するまでの間、何を話すのか、何を思うのか――少し考えを巡らせた。
「(酒の力は偉大だ…。結局昼飯の感想しか言えなかった…。というか帰るって言うタイミング逃し過ぎて、このままじゃ晩飯の時間になるんじゃ?いや、俺的には嬉しいけど、そういう問題じゃねぇ)お、お兄さん!」
「あ?どうせなら晩飯食ってけ。で、何だ」
「あ、はい。いただきます。服洗ってお返しします」
左手で箸を持ち、視線は皿の上に落ちる。
「どっかソファにでも置いとけ」
「いやいや、それは駄目だよ。借りた物は洗って返す。相手に失礼だし」
「好きにしろ」
少し沈黙が続く。箸が皿に当たる音、食器を置く音、咀嚼音がリビングに響く。
先に沈黙を破ったのは一瀬だった。
「お前結構煙草吸うんだな」
「!」 煙草という単語に、胸が不意に跳ねた。
(何だ、今の)
一瀬は食事を終え、シャワーを浴びに風呂場へ。遅れて三条も食べ終わり、二人分の食器を洗い、薄手のジャージの上着を羽織る。
風呂から上がり、下着姿の一瀬がソファでスマートフォンを見ている三条の後ろを通り二階へ上がっていく。
「お兄さん筋肉ヤバ」
反射で画面に写った一瀬を見て、率直な感想を漏らす。
暫くして一瀬がリビングへ戻る。
「んだよ。ジロジロ見ても何も変わらねぇだろ」
三条は体を捻り、一瀬をジッと見つめた。
「お兄さんやっぱ格好良いなって」
「……」一瀬は何か言おうとしたがやめた。「るせぇ、出るぞ」軽く三条の頭に拳を乗せる。
一瀬の家を出て、軽く畳まれたジャージのズボンをシート下に仕舞う。
「お兄さん、昨日からありがとう。ご飯凄い美味しかった」
「お前が又一緒に飯食いたいって言ったからだ。それだけだ」
一瀬からすれば誘った自覚は無いが、理由はどうであれ三条からすれば嬉しい。
「お兄さん」
一瀬にヘルメットを差し出す手が僅かに震えていた事、三条自身は気付いていた。
一瀬は無言でヘルメットを受け取り、三条の後ろに跨った。
(漫画家の割には筋肉あるんだな)
背後から腕を回す一瀬は、ふと、そんな考えが過ぎった。
三十分程バイクを走らせ、一瀬が勤めるホストクラブに着いた。
「悪い」
「お兄さん、いってらしゃい」三条は右手を低くあげる。
返事をする代わりに、一瀬も又右手を低くあげた。
二人はそこで分かれた。
自分の手が震えていた事に、少し恥ずかしかった。




