世界の主人公
あなたの世界の主人公はあなただ。
それは事実であり、君はそのことに奇妙なほど納得している。
朝の目覚めは君の場面転換であり、皿洗いの一瞬すら君のモノローグの一節に思える。
君が選ぶ朝食の匂い、君がふと見下ろした靴の汚れ、君が誰かにかけた些細な言葉、すべてが君の物語を形づくる記号になっていく。
その実感は甘く、時に力を与える。
しかし、この世界は君だけの舞台ではない。
路地裏の自動販売機の前で電話をしている女も、昼休みに眠りこける配達員も、夜道を急ぐ学生も、それぞれが自分の幕間を生きている。
誰もが自分が主人公だと信じている。
そう信じることが、人を動かし、傷つけ、時に救う。
もし全員が「自分は主人公だ」と声高に主張したらどうなるのか。
最初はただの錯覚だろう。
やがて錯覚は衝突に変わる。
交差点での譲り合いは譲る側の損失のように映り、会話は相手を説得し、征服するための舞台装置になっていく。
誰もが脚本を書き換え、誰もが自分の見せ場を求める。
そのとき、世界は同時多発的な独白で満たされ、やがて互いの声が干渉してしまう。
自己中心的な人間が溢れた世界は、まず静かに壊れていく。
親密さの代わりにパフォーマンスが入り込み、助け合いの合図が見せ物にすり替わる。
誰かの苦しみは「いい話の素材」へと転用され、慰めは拍手を集めるための手段になってしまう。
ほんの小さな誤解が連鎖し、人々は自分の立場を守るために真実を削る。
その結果、生まれるのは孤立だ。
孤立はやがて一本の冷たい線となって町を分断する。
同じバスに乗っている者同士が、もはや互いを背景としてしか認識しなくなる。
挨拶は演技になり、視線は競争の道具になる。
誰かが泣いていても、誰もがその涙を自分の演出に取り込むことしか考えなくなる。
そうして人間関係の繊維は擦り切れ、簡単に裂けてしまう。
だが、意識的に留意すれば道は少し違う。
君が自分を主人公と認めるのと同時に、他者の主人公性を認めることは可能だ。
それは自分の物語を縮めることではない。
むしろ、新しい章を開くための場所を作る行為だ。
隣の誰かの小さな勝利に拍手を送り、見知らぬ人の疲れた肩に一瞬の手を置くだけで、君の場面は豊かになる。
調和は強制されるものではない。
それは自発的な気配りと、小さな想像力の賜物である。
他者の台詞を耳に入れ、背景にある事情を想像し、時には自分の見せ場を譲る勇気。
そうした行為が積み重なって初めて、「共通の物語」が生まれる。
共通の物語は、誰か一人の栄光ではなく、重なり合った日常の連続だ。
この世界は調和で成り立っている。
森の木々が互いに日光を奪い合っているように見えても、実際には根で繋がり、水を分け合う。
同じように、人は互いの存在によって支えられている。
君が主人公であるとき、その背後には他の主人公たちの世界が無数に広がっている。
それらは君の物語の背景であると同時に、別の舞台でもある。
ここで重要なのは、君の世界の主人公が「確かにあなただ」ということと、「しかしこの世界の主人公はあなたでは無い」という二つの真実を同時に抱くことだ。
矛盾に見えるかもしれないが、この二つを並べて置くことが、成熟した視線を生む。
自分を中心に感じることを止めはしないが、その中心が相対的であることを忘れない。
その認識が、君の行動を柔らかくし、言葉を慎重にする。
世界は君の独白で飾られるほど単純ではない。
けれど君の物語が失われるわけでもない。
君は主人公であり続けられる。
ただ、君が主人公であるという事実は、他者の主人公性を消す理由にはならない。