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大いなる談話

作者: 桐生甘太郎

こちらには哲学者がたくさん出てきて、それぞれの言葉で対話をします。私は哲学は苦手なのですが、頑張りました!





彼らの遥か下で誰かがぽつりとつぶやいたことが、彼らの議論に火を点けてしまった。しかしその人物には責任を取ることができないし、それを知る事もない。



「「1分間は60秒」、ね。特殊相対性理論を出さなきゃ、確かにそうよね…あーあ。そんなこと言われたって頭痛は治らないし雨やまないから、ご飯買いにも行けない…それに、そんなの、何の役に立つのよ…5秒後に死んだら満足できないもん…」




その女性のつぶやきが、雲の上に居る彼らにそれぞれ思念として届いて聴こえてしまった。今日は珍しく、ルネ坊ちゃまの開いた宴席の日だ。“坊ちゃま”は礼儀と冗談を上手く使い分けられるので、皆から歓迎されている。しかし、イマヌエルはそこに行くのが苦痛だった。彼は食事の席での哲学的な対話を避けたいのに、デカルトの誘いは断れないからだ。しかしイマヌエルは今日に限って、こう考えていた。


“この疑問には…ある種の“意味的感覚”があるように思われる…”




「これは…“カイロス”についての議論にするべきだろう」


プラトンはそう言って、手元にある蜜漬けのレモンを脇へ押しやる。すかさずデカルトはテーブルに両手を乗り出した。


「私は、観念から構築すべきと考えます。彼女が感じたのがどれなのかがまずわからなければ」


ルネは大きく片手で弧を描いて全員に見せる。それを盗み見ていたイマヌエルは、苦々しそうな顔を片手で隠した。


エピクロスだけはワイングラスに安心して片手を預けており、彼は付け足すように、「体にとって快くないなら、そんなものは敵さ」と笑う。そこでソクラテスがデカルトとプラトンに向け少し体を傾け、片手で道を探るような動きをする。


「ならば我々は、無知の知に立ち戻らなければならない。すでに知っていると思い込むのはどうなのかね?知っているなら我々は探す必要などないのでは?」




プラトンがソクラテスと話し込んでしまう前に、デカルトは「ではまず!」と少し大きな声を上げ腕を広げた。それは彼らが囲む円卓の形のようだ。


「“感じる事”、“判断する事”の2つを分けねばなりません。彼女はおそらくこれを同時に行った。では、どちらを先に考察しましょうか?」


そこにアリストテレスが落ち着き払って口を挟む。


「いいや、彼女の判断は“意味”だろう。それはそれ自体に質量と形相を持つ物だ。分けて考える事が出来るのかね」


デカルトは笑顔を崩さず、むしろアリストテレスに親しみを込めて微笑む。


「そうです。もし「分けて考えられない」と分かったら、その時こそ視点を変えて、より答えに近づける。一度やってみませんか」


それでアリストテレスは長い溜息を吐き、一口羊のチーズを齧った。そこへ、ある濁流が流れ込む。


「流転し続けるのがロゴスなのだ!君達はロゴスのあるべき姿を否定している!まったく!」


突如宴席にヘラクレイトスが姿を現したかと思いきや、彼は、アリストテレスがテーブルに戻したチーズを隣のデカルトのグラスに放り投げた。真っ赤な水溜まりがデカルトに掛かるところだった。息を切らして叫んでいたはずのヘラクレイトスは、唇を動かすだけで言葉を紡ぐ。


「これは何かね?」


ヘラクレイトスの視線は、決して無意味でなかった。だが、それはもはやチーズもワインも見えていないようだ。宴席も。


彼の発言で場は沈黙した。議論は瓦解したのだ。しかしここでイマヌエルが口を開く。彼の口調はややはっきりしているだけで、静かだ。彼自身はそろそろヘラクレイトスの無礼のため神経痛に苦しむだろうが。


「ヘラクレイトス先生、それは「感性で観測した現象」に過ぎないと私は考えます。我々はしばしば、「見ている物が確かな物だ」と思い込み、見ている物に意味を見出す。ですが、立ち止まって下さい」


ヘラクレイトスはカントを見ていない。カントは、ヘラクレイトスの癇癪を気遣い、慎重に先を続けた。


「貴方は“流れ続けている”と感じている。しかしそれには、我々の方で条件を用意する必要があります。チーズは確かにワインに溶けていく。それは一見すると“流れ”のように感じます。しかし、我々がそれを一つの“統合された対象”として理性により知覚しなければ、それは確かに、ヘラクレイトス先生の仰る通りに、定義の出来ない“物体”でしかないと、私は考えます」


ヘラクレイトスは本当に聴いていなかったようで、ふいと振り向き、彼らの後ろにある暖炉に近づき地面へ腰掛けた。その様を全員が見守っていたが、やがてプラトンがこう言う。


「ではイマヌエル、君は“意味”が全く個人の“経験”で左右されてしまっていいのかい?我々はそれを明らかにする者なのだろう?」


カントは眉を顰めたが、あえて苦言など言わなかった。プラトンはこう話す。


「我々には“料理”や“飲食”について決まった“型”がある。それを我々はイデアと呼ぶのだよ。従って我々が自分だけの判断でイデアを作る事は不可能だと言えよう。それは我々の魂が天上で見てきた物だよ。我々がこの世に降り立ったその時から、それは我々の背中に書かれていたのだ。我々の鏡に映るのが、我々の顔だけだと思っているのかね?例えば、生れて2年の幼子さえ、チーズを誤ってワインに放り込んでしまえば、どうしてどうして母親の目を気にするのだい?」


あくまで落ち着き払ってカントは初めてテーブルに両手を預ける。ルネは手拭きで円卓を拭いながら、我慢が出来なさそうに聴いていた。


「もちろん、幼子の悪戯での焦りが、通じてきた“経験”による“悟性”とは言いかねます。ですが、貴方の仰るようにイデアによって自明ならば、なぜ我々は過ちを犯すのですか?“行為”の前にイデアに立ち返るのは、「母親に叱られた」という“経験”なしに語れないのではないかと、私は考えます」


そこへソクラテスが「君達」と割って入った。彼は二人の顔を見比べながら語る。


「大変に君達は熱心で、優秀な若者だ。ただ、君達の語る“意味”が私にはよくわからないのだ。そもそもそれは何だと思うかね?もちろんその議論には私も参加させて頂こう。教えを乞う者としてね。二人の議論が沈黙と同じにならないためと思ってのことだ。口を挟むのを許しておくれ」


イマヌエルとプラトンが立ち止まって自論を組み立てている間で、ついにルネが立ち上がってワイングラスを掲げた。それにはまだヘラクレイトスの投げ入れたチーズが入っている。


「ソクラテス先生、それには僭越ながら私が一言添えましょう」


ソクラテスがにこやかに腰を低くしてデカルトを見詰めた時、プラトンはその目の先を追って自然とルネを見た。


「皆さんも確かにここに“変化”を感じているでしょう。ですが、それだけでは“意味”とはなり得ません。先に意味の定義をするのでしたら、我々にとって“明晰判明に知覚される観念”と私は言わせて頂きます。もし我々が“意味”を経験だけや、混濁した印象の中に求めるのであれば、それは“真”ではないのです」


プラトンは不愉快そうな顔をしたが、何も反論しなかった。イマヌエルは手元のドイツパンを一口齧り、忠実に咀嚼をしている風だ。ルネが続ける。


「我々は“判断”によってこそ、感性さえ秩序づけられるのです。順序こそ理性の証。だから“彼女”の「1分間は60秒」という言葉が我々に正しく伝わったのです。もしも我々が“どう数えるか”の形式を持たなかったら、どうでしょう?」


黙らされていた事でプラトンは「では詩人の詩は、ただの意味不明の響きかね?」と放り込んだ。ルネはそれに首を振る。


「プラトン先生、それは“意味”を問う言葉ではありません。もしも詩人が優美に歌う時、我々はそこに形式による“意味”など必要としません。我々はそこに、美しさ、先見の明、人間を包む肯定を見出すのですから」


ルネはすっかり得意になっていたが、そこへソクラテスがまた問いを投げかけた。


「失礼、割って入って済まないね。でもこう聞かせてくれないか。君はそれがどうして“明晰判明”だと知っているのだい?それが“そうでない可能性”が一切ないと、どうして言えるのだね?いや、君の素晴らしい理論を是非とももっと強固にしたいのだ」


明らかにルネは嫌そうな顔をして見せたが、その後音に名高い「我思う、故に我あり」へと歩いて行った。


ソクラテスは静かにこう言う。


「“混濁”が悪いとは限らない。そこから“明晰判明”な理が生まれないとも限らないのではないかい?“混濁”も交えてこそ、新しい意味が発見されるのではないかい?」


その話を聞いていて、自分の中の理性で太刀打ちしていく気力を失くしていたイマヌエルは、目立たないよう宴席から光溢れる庭に出た。そこには、一輪の野薔薇が咲いている。


イマヌエルは、ヘラクレイトスの言う“ロゴス”と、デカルトの“明晰判明”、そしてプラトンの“イデア”が頭の中でぶつかり続けるのが鎮まっていくのを感じていた。



薔薇をただ見て心和ませるイマヌエルへ、柔らかな声が掛かる。


「イマヌエル、あなたは“時計の時間”には詳しいでしょう。ですが、“心の時間”に触れた事はありますか?」


それはアンリ・ベルクソンだった。イマヌエルは気づかなかったが、アンリはずっと薔薇の隣に座りこんでいたのだ。


イマヌエルは思考を整理するべくもなく、「時間は形式であって、感じる物ではない」と断言した。しかしアンリは柔和な笑みを崩さずイマヌエルにこう言う。


「“持続する時間”は、分割も構成も出来ません。それは連続した内的な流れであり、思考や記憶、感情のすべてが溶け合っています。貴方は今、薔薇に見とれていた。その時、貴方には薔薇がどう見えていましたか?私達は、生きるとは何かを、ただ測り、決定するのではなく、味わう事をしているのです。貴方が薔薇に一時の救いを求めたように」


イマヌエルが反論を考えている間で、後ろからルネが現れた。彼は何度も角度を変えてソクラテスに説明を終えた後のようで、少々熱している。だが、彼はアンリに対して声を荒げたりはしない。


「しかし、“曖昧な感覚”を真理の基準には出来ませんよ。“意味”とは、感覚と切り離せるからこそ論じられるのですから」


アンリはそれに深く二度頷き、しかし「それは分析に過ぎません。生そのものではないです」と尚も譲らなかった。


ルネとアンリが全く平行線となってしまったのを聞いていて、ずっとイマヌエルは俯いていた。彼の思考は一旦混迷を極めたが、彼はやがて立ち上がる。


「二人とも、私は“理性の条件”がなければ認識は生まれないと信じてきました。ですがアンリ、君の言う“持続”という物には、私が理性に求めた物とは違い、そして私は確かに、それに理性とは別の必要性を感じている。それは、“豊かさ”です…」


野薔薇を手に翳すように薔薇に手を近づけ、アンリは瞼を寝かせた。


「花が美しいのは、五分咲きから七分咲きに変わるからではありません。その一瞬一瞬が、私達の目に焼き付いて心を捕らえるからなのです。人々は、水の都へ旅をする。それは確かに“意味”に基づいた行動でしょう。ですが、人々の心に残り続けるのは、都で豊かに溢れる水の景色です」


イマヌエルはそれに思わず頷き、こう呟く。


「我々は“時”を先に論じていたが、“時”の方で我々を待っていたのかもしれない…」




皆それぞれに疲れており、ソクラテスも例外ではなかったが、アンリはそこに救いを差し出したりしなかった。不意にソクラテスはこう言う。


「我々が追い求めている物は、いつまでも我々より先を走り続けるのかね…?」


宴席の暖炉に立てかけた鏡に、ある者の姿が映った。彼は疲労を感じる全員をこう諭す。その声は、天界においても雲の上から聴こえるようだ。


「貴方方は、“意味”に形を与えようとしてくたびれてしまったようだ。だが、形を与えてしまったら、それは“意味”ではなく、“かすんだ映像”に過ぎないのでは?プラトンの言うイデアは少々違うようだが、イデアとは知性を超えた物だ。我々が分かるのは、それが“在る”という事だけなのだ」


ルネはそれに言い返そうとしていたが、ソクラテスの絶えない問いかけにより彼は足を止めかけている。


「では、我々は“意味”を理性で決定する事など、到底できやしないと言うのですか…?」


鏡はルネを責めもしないし、慰めもしない。彼の鏡は光り輝かない。


「それは橋の向こうに“在る”のだよ。沈黙は時に、最も多くを語るのだから」


その話を聴いていて思い出したのか、ルネの後ろで空を眺めていたソクラテスは、ある青年を思い浮かべた。


「彼は、“語れぬ物については沈黙しなければならない”と言っていたな…」


それはルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの事だろうと、全員が納得していた。





誰もがもう、“意味”と“沈黙”を“人の一生”の中で“明晰判明な事象”として、同列に並べ始めていた。彼らの中で、分けてもイマヌエルが強く疲労を感じていたには違いないが、彼は次第に“沈黙”を理解し、そこへ身を置こうかと考えた。その時、イマヌエルの中に新たな想念が沸き上がったのだ。


彼は珍しく速足で歩き、対立していたプラトンの元へ立ち戻る。プラトンは宴席で甘い酒に酔っていた。


イマヌエルは乱暴ではなかったが、その目は大きく見開かれ光り、両手はプラトンの席へ突き立てられた。プラトンは一瞬それを見て、イマヌエルが絶望したのかと思ったのだ。


「プラトン先生…私は、“沈黙”が語る、“在る”や、“持続する時間”により内包された、意味ではない“生”、そして、それらにより姿を変えて表現されていた貴方の“イデア”にとって、好機が訪れたのではないかと喜んでいます。知性の満たされる喜びです。これはもしくは、地上の彼女について皆の語っていた事が、そっくりそのまま答えとなっていたのではないかという、喜びです」


イマヌエルに追いついたルネは、もうすっかりその言葉で元気を取り戻し、大きく胸に息を吸った。


「それは正に、我々の精神が想定していた範囲を超えた、知覚の“驚き”だよ、カント!」


エピクロスはそれに、「良かったじゃないかね、イマヌエル君。どうやら地獄ではないらしいな」と言った。彼はずっとテーブルで無花果を食みながら、赤ワインを飲んでいた。


アリストテレスも「我々が哲学者である限り、この感覚的確信の正体を、体系的に精査せねばなるまい」と言い、彼の前には羊皮紙と羽ペン、インクがぽかっと現れた。


プラトンは静かにグラスを置いて目を閉じ、沈黙する。そこへまた激しい炎が燃え盛った。


「これこそ流転の本質だ!かつての“今”が、再び戻らぬ“今”として流れるのだ!」



宴席は歓喜したヘラクレイトスに引っ掻き回されたが、イマヌエルは初めて、“この宴に来て良かった”と感じていた。ルネはまだ盛んに語っており、アリストテレスがそれを書き留める前にソクラテスが問い直して、アンリが別の視点を加えている。



おや、地上では雨が止んだようだ。先に天上の彼らに問いを与えてしまった彼女は、食物を買いに出かけている。彼女の表情は安らいでいて、むしろ満たされている。天上の彼らも同じだ。はてさて、私には何も起きていないように見えるのだがね。




お読み頂き、有難うございました!

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