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二話 門出

昊天国の都を覆う夜闇の中、宮廷は絢爛な光に包まれていた。今宵は、この国にとって、そして一人の若者にとって、歴史的な一夜となる。十五の春を迎えた王子が、初めて公の場にその姿を現す日。都中の貴族たちが、そして平民までもが息を潜め、その瞬間を待ちわびていた。この日だけは身分に関係なく、宮殿を訪れることができるのである。

厳かな太鼓の音がドンドンと地を這うように響き渡り、人々のざわめきがぴたりと止まる。中央の広間に続く大きな扉が、軋むような音を立ててゆっくりと開かれた。スポットライトのように射し込む月明かりの中に、一人の影が浮かび上がる。

そこに立つのは、紛れもない「王子」の姿。切り揃えられた艶やかな墨色の髪は、月の光を吸い込んで鈍く輝く。袖の広い狩衣かりぎぬに身を包んだその姿は、一瞬の静寂を支配した。顔立ちは、繊細ながらも凛とした美しさを湛え、見る者の目を釘付けにした。しかし、その瞳の奥には、どこか憂いを帯びた光が宿っている。

それは、まさしく春だった。

彼女は、背筋を伸ばし、顔色ひとつ変えずに、居並ぶ貴族たちの視線を受け止める。その視線は、期待と好奇心、そして、ある種の探るような色を帯びていた。春の心臓は激しく脈打っていたが、決して表面には出さなかった。


「皆の者、頭を垂れよ。これこそ、この国の未来を担う御方、紫雲様であらせられる!」


大占師・清明の声が、静まり返った広間に響き渡る。その声は、高らかでありながら、どこか冷徹な響きを持っていた。貴族たちは一斉に深々と頭を垂れる。平民たちもまた、その場にひざまずき、畏敬の念を込めて頭を下げた。春は、人々の視線が自分に集中する中で、父の姿を探した。父は深々と頭を下げ、その表情は伺えない。

清明が、春の手を取り、一段高い壇上へと導く。彼の指先は、ひんやりと冷たく、春の心を一層引き締めた。広間全体に、再び張り詰めた静寂が訪れる。春は、ゆっくりと、しかし淀みなく、その口を開いた。


「皆の者、おもてを上げよ。我こそが、この国の王子、紫雲である。」


その声は、わずかな震えを押し隠し、澄み渡って広間に響き渡った。春は、まっすぐに前を見据える。


「今日より、我はしきたりに従い、武道学校にて研鑽を積む。この身を捧げ、我が国の安寧のため、民のため、そして未来のため、尽力する所存である。」


その言葉には、偽りではない覚悟が込められていた。春は、さらに続ける。


「王子としての道は、平穏ならざるものと聞く。命を狙われることもあるやもしれぬ。しかし、いかなる困難が待ち受けようとも、我はこの身を盾とし、国を守る。それこそが、我が定めであり、我が使命である。」


春の瞳に、かすかな光が宿る。それは、愛しい紫雲とこの国を命懸けで守り抜くという、彼女の心に刻まれた揺るぎない覚悟と同じ光だった。

演説を終えた春は、深々と頭を下げた。その瞬間、広間から「おお……」という感嘆の声が漏れ、控えめながらも確かな拍手が沸き起こる。


「これが紫雲様……何と頼りになるお方だ……」

「我らの国は安泰だ」


平民たちの間からは、そんな囁きが聞こえてくる。貴族たちもまた、新しい王子への期待に満ちた眼差しを向けていた。人々の顔には、安堵と、希望が浮かんでいた。

儀式が終わり、人々が散り始めた頃、春は広間の片隅に立つ、見慣れた女性の姿を見つけた。静だった。彼女は、春の幼い頃からの世話係であり、春の真の姿を知るごく限られた数少ない人間の一人だ。静の目は、春を捉えると、安堵と、そして深い悲しみを湛えていた。春は、わずかに目を伏せた。

その夜、春は自室の寝台に横たわっていたが、眠りにつくことはできなかった。耳の奥では、清明の宣言が、そして自らの言葉が、まるで幻聴のようにこだましている。


「紫雲様であらせられる!」「我こそが、この国の王子、紫雲である!」

――その言葉が、春の心を深く抉る。


(私は、私ではない……)


苦しい気持ちを落ち着かせながら瞼を閉じると、幼い紫雲の顔が浮かんだ。あの無邪気な笑顔。そして、月下の桜の下で交わした、甘くも切ない記憶が胸をよぎる。

あの時の言葉が、今、胸に刺さる。


「俺が公の場に出た後も、お前は変わらず、俺の傍にいてくれるか?」

「はい……どこまでも、紫雲様の傍に。」


あの約束は、もう叶わぬ願いとなってしまった。私は今、彼の「傍」にはいない。彼になり代わり、彼を守るための「偽りの王子」として、別の道を歩んでいる。

春は、硬く目を閉じ、そっと胸元に手を当てた。彼女の心には、愛しい人を守り抜くという、決して揺らぐことのない誓いが宿っていた。

偽りの人生が始まったばかり。けれど、この誓いだけは、決して偽りではない。春は、静かな決意を胸に、夜明け前の闇の中で、来るべき試練に思いを馳せていた。


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