十一話 混乱
翌日からの直道は、まるで別人のようだった。
昼間、稽古場で春と顔を合わせても、直道は冷たい視線を向けるだけで、一切言葉を交わそうとしない。春だけを、露骨なまでに避け、その存在を無視するかのように振る舞った。春は、理由が分からず、ただ戸惑うばかりだった。あの夜の密会について、まさか直道が知っているとは夢にも思わない。
「直道…どうかしたのか?」
昼食の席で、春が心配そうに尋ねた。直道は、箸を置くと、春から視線を外し、無言で席を立った。春は、その背中を呆然と見送るしかなかった。 直道の突然の変貌に、春の心は深く傷ついていった。
夜、自室に戻った春は、やはり直道のことが気にかかり、彼の部屋へと向かった。避ける理由を知りたい。そう願っていた。
「直?いる?」
春が声をかけると、部屋の中から低い声が返ってきた。
「..ああ。」
春が扉を開け、中に入ると、直道は背を向けたまま、窓の外の闇を見つめていた。その背中から、これまで感じたことのない、張り詰めた、複雑な空気が漂っている。
「直、昼間から様子がおかしいよ。何かあったの。私に話せることなら…」
春の言葉を遮るように、直道がゆっくりと振り返った。その瞳は、夜の闇を映したかのように深く、しかし、その奥には、抑えきれない混乱と、どうしようもない感情の奔流が揺らめいていた。
「……春。」
直道の声が、低く、重く、部屋に響いた。その声には、春が知る直道の優しさも、親しみも、一切含まれていなかった。まるで、春の秘密の全てを知り尽くしたかのような響きに、春の心臓がどきりと跳ね上がった。
(なぜ…?なぜ直が、その名を…?)
春の顔から血の気が引いた。直道の瞳が、春の全てを見透かすように、深く、しかし迷いを帯びて春を射抜く。
「お前、「春」っていうんだな。そして…あの暁皇女が…本物の王子。」
直道の言葉は、独り言のように、しかし確かな響きをもって春の耳に届いた。春は絶句した。直道が全てを知っている。あの夜の密会を、全て聞いていたのだ。絶望が、春の心を覆い尽くした。
「なぜ…なぜそれを…」
春の震える声に、直道は一歩、また一歩と春に近づいた。その足取りは重く、春の心臓は激しく鳴り響く。背後に壁を感じ、春は逃げ場がないことを悟った。
「なぜだって?…なぜだろうな。俺は、ずっとお前を見てきたんだ。王子として、お前がどれだけ苦しんでいるか、いつでもお前の味方でありたいと思ってきた。」
直道の声は、混乱に満ちていた。まるで、自分自身に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「お前には守りたいものがあって、俺と同じ苦しみがあると思っていた。まさかそれが貴族の恋時のためとはな。愛する紫雲様のためか。..はは!」
直道は笑い出す。どうして自分が春をここまで責めるのか、そんな自分に嫌悪感を抱きながら。
「直…!」
何かを言おうと春が言葉を紡ごうとする。それを妨げるように、直道は春に触れそうなほどに近づき、
「…俺は、お前が、ずっと…」
そう言いながら直道の指が、春の頬にそっと触れた。その指先が震えているのが分かる。春は、直道の表情から、これまで知らなかった、激しい感情の渦を読み取っていた。それは、親愛でも、友情でもない、もっと深く、熱いもの。
「俺は、お前が…っ」
直道は、言葉にならない感情のまま、春の震える唇に自らの口を塞いだ。春の瞳が、恐怖と困惑に大きく見開かれた。彼の唇は冷たく、しかしその奥にある熱が、春を飲み込もうとしているかのように感じられた。
「…いや…!」
咄嗟に春は直道を突き放す。そのまま扉をあけ、必死に逃げ出した。春は、ただがむしゃらに駆けた。夜の廊下を、どこへ向かうとも知れず、ただ直道から遠ざかることだけを求めて。背後から追ってくる気配はない。
だが、直道の顔が、あの時の言葉が、唇の感触が、脳裏に焼き付いて離れなかった。