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十話 再会

あかつき皇女の視察が終わり、武道学校は再び日常の喧騒を取り戻しつつあった。だが、春の心だけは、昼間の出来事から一瞬たりとも解き放たれずにいた。懐に忍ばせた小さな紙切れが、わずかながらも春の胸を焦がし続けている。


(今宵、子刻。北の離れにて。)


子刻。夜の帳が完全に降り、人々が寝静まる時間。その時を待つ春にとって、時計の針はこれほどまでに遅く感じられたことはなかった。昼間の稽古も、食事も、全てが上の空。早く夜になれ。早く、彼に会いたい。そして、なぜ彼が「暁皇女」として現れたのか、その真意を知りたい。喜びと不安、そして切なさが入り混じり、春の胸は張り裂けそうだった。

直道は、そんな春のどこかふわりとした心を見抜いていた。昼間の視察中、春が見せた微かな動揺。そして、暁皇女が通り過ぎる際の一瞬の接触。紫雲(春)と暁は兄弟ではないことを直道は察した。そしてあの時、暁が春の懐に何かを滑り込ませたのを、直道は確かに見ていた。


(一体、何が……?)


春が、自分にさえ話せないほどの秘密を抱えていることは知っている。しかし、今日の出来事は、その秘密がさらに深く、複雑なものであることを直道に悟らせた。春のあの表情。直道の胸に、言いようのない不安が募る。春が、また一人で何かを抱え込もうとしているのではないか。


夜が深まり、静寂に包まれる頃。春は、人目を忍ぶように自室を出た。足音を立てぬよう、細心の注意を払いながら、北の離れへと続く小道を歩いていく。その背中は、どこか緊張し、しかし同時に、抑えきれない期待に満ちているようにも見えた。

直道は、紫雲(春)の様子が気がかりで眠れずにいた。春が部屋を出た瞬間、直道もまた、静かに布団を抜け出した。どこかへと静かに、そして少々足早に向かう紫雲(春)を見つけると、足音を殺し、影のように後を追う。なぜ自分がこんなことをしているのか、明確な理由はなかった。ただ、好奇心と漠然とした不安があったのは確かである。

北の離れは、武道学校の敷地の隅にひっそりと建つ、普段は使われない古い建物だった。月明かりがわずかに差し込む中、春は離れの扉に手をかけた。その扉の向こうに、何が待っているのか。春の心臓が、激しく高鳴る。

直道は、離れの影に身を潜め、春の様子を窺っていた。春が扉を開け、中に足を踏み入れた瞬間、直道もまた、離れの壁に耳を寄せた。

そして、その耳に届いたのは、直道がこれまで聞いたことのない、春の、そしてもう一人の人物の、切なく美しい声だった。

春が離れに足を踏み入れた瞬間、中に立っていた人物が振り向いた。昼間とは違う、簡素な衣をまとったその姿は何よりも焦がれた紫雲だった。


「紫雲様…!」


春は、抑えきれない衝動のまま、その名を叫び、駆け寄った。紫雲もまた、一瞬の躊躇もなく振り向き、駆け出した。二人の体が、固く、しかし優しく抱きしめ合った。そして長い口付けを交わす。

あの日、春が紫雲の身代わりとなることを告げられて以来、二人は一度も顔を合わせていなかった。お互いにとって、もう二度と叶わないとさえ思われた再会だった。何年もの歳月、離れ離れになっていた二人の心が、ようやく一つになった瞬間だった。


「春…!春…!」


紫雲の声が、切なさと安堵に震えている。春もまた、何度も紫雲の名を繰り返した。


「紫雲様…紫雲様…!」


熱い涙が、春の頬を伝い落ちる。直道は、壁の向こうから聞こえるその声に、全身が凍り付くような衝撃を受けていた。春の、あんなにも感情を露わにした声を聞いたのは初めてだった。紫雲に扮した女性の名が「春」であるということ、そして、紫雲と呼ぶその声が、目の前の「皇女」と呼ばれたその人に向けられていることに、直道の胸は激しくざわめいた。

二人はしばらくの間、言葉もなく抱きしめ合っていた。その沈黙は、互いの存在を確かめ合う、深い安堵と愛情に満ちていた。

やがて、紫雲が春の肩をそっと離し、真剣な面持ちで春を見つめた。その薄明の空を映したような瞳には、昼間の皇女としての威厳ではなく、春だけに見せる、深い愛情と、そして言い尽くせぬ苦悩の色が浮かんでいた。


「春…よく来てくれた。会いたかった…」

「私もです、紫雲様…ずっと…ずっとお会いしたかった…」


春の声はまだ震えていたが、その瞳は紫雲を真っ直ぐに見つめていた。


「あの日、お前が私の身代わりとなると聞いた時…私は絶望した。もう二度と、お前に会うことは叶わないと、そう覚悟したのだ。」


紫雲の声が、深い悲しみを帯びる。春は、言葉もなくその声に耳を傾けていた。


「そして、私は…王子としての素性を隠すため、女として、育てられてきた。公の場には出られず、身分を偽り、生きてきた。それが、大占師清明の言いつけで、紫雲の妹として生活することとなった。そして今…『暁皇女』としてお前の前に立っている…」


紫雲の告白に、春の表情が曇る。愛する人が、自分と同じ重荷を背負ってきた現実に、心が締め付けられる。


「紫雲様…ご自身の名前も名乗れず、王子としての立場でも入れず、女性として生きることになるなんて…」


春の声は震え、紫雲の顔にそっと手を伸ばした。その手は、彼の頬を優しく包む。


「違う!」


紫雲は、春の手をそっと握り返した。


「一番辛いのは其方だ。何も知らぬまま、私の身代わりとして重圧に晒され、女の身一つで私の代わりを努めてくれた。私に代わり、どれほどの苦労があったことだろう。すまない…本当に、すまない…」


紫雲の瞳から、一筋の光がこぼれ落ちた。春は、その涙を指でそっと拭う。


「…もう、長くは居られない。」


紫雲が、名残惜しそうに春の顔を見つめた。


「我々が長く共にいると、誰かに見られる危険がある。」


春は、顔を伏せた。会えた喜びも束の間、すぐに別れが訪れる現実に、胸が締め付けられる。


「だが、これで終わりではない。これからは、公には兄妹だ。また会うことができるだろう。この新しい立場が、私たちにもたらす希望を信じよう。」


紫雲は、春の顎をそっと持ち上げ、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「また会おう、春。その日を願って。」


春は、涙をこらえ、力強く頷いた。


「はい、紫雲様。必ず。」


二人は再び短い抱擁を交わし、紫雲は離れを後にした。春は、その場に立ち尽くし、消えゆく彼の背中を見送った。懐の中の紙切れが、まるで夢でなかったことを証明するように、微かに存在を主張していた。

直道は、壁の向こうで、その会話の全てを聞いていた。紫雲として生きる女性が「春」という名であり、そして、王子の妹としてやってきた「皇女」が本物の王子「紫雲」であり、彼もまた身分を偽って生きていること。さらには、二人がかつて恋仲であり、今もなお深く愛し合っていること。


彼の頭は、まるで嵐の中にいるかのように、激しく揺さぶられていた。


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