一話 朧夜の密議
宵闇が昊天国の都を覆い、すべての光を飲み込んだ、深い夜のことだった。月の光さえも届かぬ、宮廷の奥深くにひっそりと佇む一室。そこには、ただならぬ空気が澱み、闇に溶け込んだ数人の影が、息を潜めていた。人々の囁き声も、庭を渡る風の音も、ここでは許されぬかのように、しんと静まり返っている。
その中心に座るのは、大占師・清明。齢二十といくらだろうか、若く整った顔立ちには一切の感情が窺えず、透明なほどに白い肌が闇の中で際立っていた。彼の眼差しは深く、しかし鋭く、この世の全てを見透かすかのようだった。彼はゆっくりと口を開く。その声は低く、しかし、場の空気を震わせるほどの力強さで、密やかに響き渡る。
「……神の子たる、この王子が、もし男として表立って生きれば、やがて命を狙われ、その死が世界の崩壊を招くであろう。忌まわしき宿命。幾千もの星の巡りが、そう告げているのだ。」
その言葉は、まるで冷たい霜が降りるように、居並ぶ貴族たちの心に重くのしかかった。彼らが信じる神託。清明の言葉に逆らう者など、誰もいない。だが、その瞳の奥には、恐怖と困惑の影が揺れている。王子が死ねば、世界が崩壊する――その絶対的な恐怖が、彼らを支配していた。
張り詰めた沈黙を破ったのは、部屋の隅に座る一人の貴族だった。彼には、後に「偽りの王子」として過酷な運命を背負うことになる愛娘がいた。その娘の父は震える声で、しかし、絞り出すように提案した。
「……ならば、我々は身代わりを立てねばなりませぬ。男だろうと、女だろうと、神の子の影として、その運命を肩代わりする者を。」
彼は、その言葉が自らの愛娘に、どれほどの苦難を強いることになるのか、知る由もなかった。その時はただ、目の前の世界崩壊の危機を回避することに必死だった。
清明の眼差しが、冷ややかに、そして満足げに春の父に向けられた。
「よかろう。その案、聞き入れよう。」
冷徹な声が、凍りついた空気を切り裂いた。その声は冷ややかでありながらも満足げで、春の父を安堵させた。
「清明さま…!ありがとうございます。」
この時、春の父の胸には、一瞬の安堵と共に、大占師に認められたこと、そしてそれに伴う昇進の期待が熱く膨らんでいた。まさか、自らの提案が、愛娘の人生を根底から覆すことになるとは、彼には知る由もない。清明の口元に、かすかな笑みが浮かんだように見えたが、それは闇に紛れて、誰も気づくことはなかった。
重い沈黙の中、夜の闇は、たったひとつの密約と、その裏に潜む冷酷な策略を、深く深く飲み込んでいった。
ーーー時は流れ、月日が巡った。
都の片隅、桜の木が柔らかな花びらを散らす庭の片隅で、五つになる王子、紫雲が、無邪気に蝶を追いかけていた。まだあどけない顔立ちながら、白い肌と繊細な面差しは、やがて来る春のように清らかで、触れれば壊れてしまいそうな儚さを纏っていた。彼には、まだ誰も知らぬ秘密がある。男として生まれながら、女の衣を纏い、世間の目から隠されて育つ運命。だが、今はただ、目の前の蝶の舞に心を奪われている。
その紫雲の傍らには、いつも、2つほど年上の娘がいた。名は春。墨色の髪を風になびかせ、はつらつとした笑顔を輝かせる彼女は、紫雲とは対照的に、活発で屈託がない。木登りも、水遊びも、男の子たちに負けぬ勢いで飛び回り、紫雲の遊び相手としては、時に荒っぽすぎるほどだった。
「紫雲様!あっちに珍しい花が咲いておりましたよ!」
春が弾むような声で呼びかけると、紫雲ははにかむように微笑んだ。二人の間には、身分を超えた、絆が確かにある。春の父親は宮廷の重役であるがゆえに、宮廷の離れで暮らすことが許されていた。宮廷に出入りする子どもたちの中で、紫雲と年が近いのは春だけであった。それゆえに身分差はあれど、互いに、かけがえのない、ただ一人の友であった。この時の彼らはまだ、朝の陽光を浴びる野の花のように、ただ光に向かい、憂いを知らぬ歳。 来るべき運命など、夢にも思わぬほど、ただただ穏やかな時間が流れていた。
「春、かるたをしよう。昨日、父上に一つ和歌を教えてもらったんだ。」
二人で咲き誇る花々を見つめながら、ふと思い立ったように紫雲が春に話しかける。
「いいですよ。どのような歌を覚えたのですか。」
にこやかに春が答える。
春と紫雲は、よくかるたで遊んだ。五つと七つの幼な子には、歌の意味など知る由もない。ただ、聞き慣れた言葉が出てくればそれだけで喜び、その響きを無邪気に楽しむ。ただ、それだけの日々だった。
「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」
時折つかえながら、時間をかけて紫雲が紡ぎ出す。その幼い口から紡がれる歌は、まだ何の色も持たず、ただ言葉の連なりとして存在している。春にはその様子が可愛くて仕方がなかった。春もまだ七つではあるが、二つ年下の紫雲は、まるで弟のようであった。
いつものように、その歌の意味を二人の世話係である、静に尋ねる。
「静!静!この歌は、なんの歌?」
静は「さてさて、今日はどんな歌でしょうね」と、穏やかな微笑みをたたえながら、紫雲の紡いだ歌に耳を傾ける。静は幼な子の母くらいの歳で、母と離れて暮らす紫雲にとって、またすでに母親を亡くしている春にとっては、慈愛に満ちた母親代わりのような存在であった。
「恋、つまり誰かを好きだということを知られてしまって恥ずかしい思いを綴った歌なのですよ。」
その意味が幼な子たちにはよくわからなかった。誰かを好きであることを知られて恥ずかしいなんておかしなことだと思ったのだ。
「おかしな歌。私は紫雲さまも静も大好きです。どうしてそれを知られて恥ずかしいの。」
目を丸くして静に問う春。紫雲もそうだそうだ、と言いたげな眼差しで春より少し控えめな様子で静を見つめる。静は少しだけクスリと笑うと優しい眼差しで語りかける。
「私も紫雲さまも春さまも大好きですよ。それは決して恥ずかしいことではありませんね。しかしながらこの好きだという気持ちと、水底から湧き出る泉のように静かに、抗えぬほどに満ちてくる特別な感情は同じようで、少しだけ違います。その気持ちは口に出すのを躊躇うほどに深く、胸を締め付けるような、甘くも切ない感情なのです。いつの日にか、お二方もその意味を知る日が来るでしょう。」
まだ幼い春にとって、「甘く、切ない」という相容れぬ言葉は混乱を招いた。誰かを好きであることに、ただ幸せしか感じぬ彼女にはその矛盾が余計に頭を悩ませる。思考の糸が絡まり疲弊した頭はいつものように覚えた歌でかるたを楽しむ方へと、自然と切り替わっていった。
それでもこの時の静の言葉だけは、幾度に歳を重ねても春の胸に深く刻み込まれ、春はやがて訪れるその感情を求め続けることになるのだった。
時の流れは、川の流れのように、止めどなく、そして無情に速かった。
春が十六歳を迎える頃、紫雲は十四歳になっていた。彼の十五の誕生日が近づくにつれて、公の場に出るための準備が本格化し、多忙を極めていた。 かつて無邪気に蝶を追いかけていた少年は、その面影を残しながらも、息を呑むほどに美しい青年へと成長していた。透き通るような白い肌はより艶を帯び、豊かな髪は、彼の動きに合わせて絹のように揺れる。なにより、その瞳の奥には、幼い頃にはなかった、どこか憂いを帯びた深みが宿っていた。
「紫雲様、今日もまた、お稽古ですか。」
春が、紫雲の部屋の入り口からそっと声をかける。もう、昔のように気軽に庭を駆け回ることはできない。紫雲は連日、武術や学問などに打ち込み、春が共に過ごす時間はめっきり減っていた。春は自身も、紫雲の武術の稽古に付き合うことはたまにあれど、それ以外の時間は、女中たちの手伝いや針仕事、そして静から教わる宮廷の厳格な女のしきたりに追われる日々だった。かつては誰よりも活発で、野を駆け回るのが好きだった春の歩みは、いつしか慎ましくなり、その身にはしっとりとした女性らしい奥ゆかしさが帯び始めていた。
「ああ、春か。すまないな、最近はほとんど遊べなくて。」
紫雲は、申し訳なさそうに眉を下げた。その表情さえも、春の胸を締めつける。幼い頃には感じなかった、この胸の痛みは、一体何なのだろう。春は、かつて静が語った「甘くも切ない感情」という言葉を、何度も反芻するようになった。
ある日のこと。 春は、紫雲が剣の稽古をする姿を、木陰からそっと見守っていた。汗に濡れた彼の横顔は、真剣そのもの。その凛とした姿は、以前の可愛らしい弟のようではなかった。背丈は春よりも遥かに高くなり、鍛え上げられた体からは、頼もしさと、そして、なぜか近づきがたい気配が漂う。
(ああ、紫雲様は、こんなにも美しく、遠い存在になってしまわれた……)
その瞬間、春の胸に、かつてないほどの熱いものが込み上げた。それは、ただの親愛や、弟に対する慈しみとは違う。もっと深く、もっと切なく、そして、どうしようもなく甘い感情。
――「恋」。
あの幼い頃の和歌が、今、春の心の中で、鮮やかな色を帯びて響き渡った。 「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」 人知れず、ひそかに抱き始めたこの想い。それが、春の心を締めつけ始めた。
その夜、春はなかなか寝付けなかった。窓の外の月が、どこか嘲笑うように輝いている。 彼女は、紫雲へのこの新しい感情に、戸惑いと同時に、抗いがたい喜びを感じていた。それが、どれほど身分違いで、許されぬ感情であるか、悟ってしまったからこそ、その秘密の甘さが、より一層心を捕らえた。
それからの日々、春は紫雲を意識せずにはいられなかった。彼の視線が向けられるたびに、鼓動が早まり、頬が熱くなる。紫雲もまた、以前にも増して春を目で追うようになっていた。宮廷の廊下ですれ違う時、庭で偶然顔を合わせる時。二人の視線が交錯すると、周囲の喧騒が遠のき、互いの存在だけが、鮮明に浮かび上がる。
「春、少し休まないか。無理をしているのではないか。」
ある日、春が女中たちと庭の手入れをしていると、紫雲が声をかけてきた。いつの間にか隣に立っていた彼は、春が手にしていた熊手をそっと取り上げ、涼しげな手で彼女の額に滲む汗を拭った。その指先が触れた瞬間、春の全身を電流が走ったような衝撃が貫き、思わず息を呑んだ。
「紫雲様……わ、私など、構わず……」
春は、顔を赤らめ、視線を逸らした。この至近距離で、彼の整った顔を見るのが、あまりにも恥ずかしく、そして、幸福だった。
「お前が無理をしていると、俺が落ち着かぬ。」
紫雲はそう言って、春の手に自分の手を重ね、優しく微笑んだ。その笑みは、幼い頃のはにかんだ笑顔とは異なり、どこか大人びた、慈しむような光を宿していた。 春の心臓は、激しく脈打ち、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。このまま時間が止まればいいと、心から願った。
静は、そんな二人の様子を、少し離れた場所から、複雑な面持ちで見つめていた。彼女は、かつて春に語った「特別な感情」が、今まさに二人の間で芽吹きつつあることを察していた。そして、それが、どれほどの苦難を伴うかを知っているがゆえに、その瞳には、深い哀しみが宿っていた。
夜が更け、宮廷が静寂に包まれる頃。春は、慣れない物音に目を覚ました。障子越しに、庭に人影がある。そっと起き上がり、音を立てぬよう庭に出ると、そこにいたのは、紫雲だった。彼は月明かりの下、一人、庭の桜の木の下に立っていた。
「紫雲様……どうなされたのですか?」
春の声に、紫雲は振り返った。彼の顔は、月の光を浴びて、一層儚く、そして美しく見えた。
「春……。お前が来てくれるとは、思わなかった。」
紫雲は、春に歩み寄ると、躊躇いがちに、しかし確かな力で、彼女の手を取った。その手が、春の冷えた指先を優しく包み込む。
「夜風が冷える。ここへ。」
紫雲は、桜の木の幹にもたれかかり、春を隣に誘った。二人は、静かに、月の光を浴びながら並び立つ。風が桜の花びらを舞い散らせ、二人の間を通り抜けていく。
「最近、お前と話す時間もなかったな。俺は、お前と話したい。誰よりも、お前と共に居たい。」
紫雲の声は、普段の王子の声とは違い、どこか弱々しく、しかし、切実だった。春は、俯いたまま答える。本当は、もっともっと、紫雲と話したい。彼の隣に居たい。その想いが、胸の奥で激しく渦巻く。
「……違う。お前が俺の傍にいてくれるだけで、それで良い。」
紫雲は、春の言葉を待たずに続けた。そして、春の顔を両手で包み込み、ゆっくりと持ち上げた。その瞳は、月の光を宿し、ビー玉のように輝いていた。
「春、俺は、お前を……」
彼の言葉が、春の唇に吸い込まれるように消えた。月下の桜の下、二人の影は一つに重なり合った。その甘く、そして、どこか切ない触れ合いは、彼らの幼い頃には理解できなかった「恋」という感情の、確かな始まりだった。桜の花びらが、まるで祝福するかのように、二人の周りに舞い降りた。
紫雲は、春をそっと抱き寄せ、耳元で囁いた。
「俺が公の場に出た後も、お前は変わらず、俺の傍にいてくれるか?」
春は、涙が込み上げるのを必死で堪え、彼の背中にそっと手を回した。
「はい……どこまでも、紫雲様の傍に。」
それは、幼い頃からの変わらぬ約束であり、今や、秘めた恋の誓いでもあった。
しかし、その穏やかな日々は、突如として終わりを告げる。
ある日、春は、父に呼び出された。父の顔は、いつになく青ざめ、その目は深い悲しみを湛えていた。そして、父の口から告げられたのは、想像を絶する、残酷な真実。
「春、そなたに頼みがある。否、頼みではない。これは、そなたの、そして我ら一族の……定めなのだ。」
夜の密議で交わされた、清明の言葉。王子の宿命。そして、父自身の口から提案された「身代わり」の言葉が、まさか自身の愛娘を指すとは、父は知る由もなかった。父の心には深い後悔の念が刻まれていた。
「そなたは、今日から、男として生きるのだ。そして、この国に代わることのない、『偽りの王子』となれ。」
父の震える声は、しかし、確固たる決意を帯びていた。だが、その急な発言に春はすぐに理解することができなかった。
「父上、今なんとおっしゃったのですか。私が男? 偽りの王子とは何なのでしょうか。」
「清明様より、仰せつかったことだ。この国は、王子の死によって滅びる運命にあると。我々は何としても王子を守らなければならない。しかし、王子は狙われる。だから身代わりが必要なのだ。紫雲様の存在はまだ、世には明かされていない。十五の誕生日に合わせて、お前が世に出るのだ。そして、しきたりに従い武道学校へ行け。」
父の言葉が、雷鳴のように春の頭を劈いた。女子である春が男として、それも王子として世に出ていく。それは春にとって衝撃の事実であった。しかし何よりも紫雲の傍を離れること。彼と結ばれたばかりのこの想いを、秘めた恋を、切り裂かれることは、春にとってはとても受け入れられることではない。
「嫌です!父上、嫌です!私は、紫雲様の傍を離れたくありません!」
春の声が響き渡る。昨日までの甘い余韻は、冷酷な現実によって、粉々に砕け散った。
「...清明様の御神託に、逆らうことなどできぬのだ、春。これがお前の、そして我ら一族の、定めなのだ……!」
父は顔を覆い、肩を震わせた。その老いた背中が、春にはかつてないほど小さく見えた。父が、娘にこれほどの苦難を強いることに、どれほどの痛みを抱えているか、春には痛いほど伝わってきた。もし清明の御神託に逆らえば、春はもちろんのこと、父自身の命も危ういことは、幼い頃から宮廷の厳しさを肌で感じてきた春には痛いほど分かっていた。
「父上、泣かないでください……。私が、行きます。」
春は決心せざるを得なかった。自分の気持ちを押し殺して、この場ではこう言わなければならないのだ。 家族を守るため。大切な紫雲様を守るため。春の小さな両肩に、あまりにも重い使命がのしかかった。
その夜、春は眠ることができなかった。自室の窓辺に座り、遠くにある紫雲の部屋の方を見つめる。先ほど父から告げられた言葉が、何度も脳裏をよぎる。男として生きる。武道学校へ行く。紫雲と離れる。胸の奥に灯ったばかりの、あの甘く切ない感情が、引き裂かれるような痛みを伴った。 そっと、部屋の戸が開く音がした。振り返ると、そこには静が立っていた。
「春様……お辛いでしょう。」
静は、春の隣に静かに座ると、震えるその手をそっと握った。その温もりが、春の心をわずかに落ち着かせる。
「静……私、紫雲様の傍に、ずっといたかったのに……」
春の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。静は何も言わず、ただ優しく春を抱きしめる。
「春様は、御自身の心に嘘をついてはなりませぬ。その想いは、確かに春様の一部なのですから。ですが、時に、真に大切なものを守るためには、別の道を選ぶことも、また、強さなのです。忘れないでください。あなたがどれだけ紫雲様になろうとも、あなたは『春』なのだと。それだけは決して忘れてはなりません。それを忘れなければ、きっといつか幸せが参ります。」
静の言葉が、春の心に、ゆっくりと染み渡る。紫雲への愛は、決して消えるものではない。ならば、その愛を守るために、私は、この身を捧げよう。紫雲がこの国を背負うように、私もまた、私にできる形で、彼を守るのだ。 夜が明け始める頃、春の目に宿っていた涙は乾き、確かな光が宿っていた。
春は、硯に向かった。震える手で筆を執り、白い文に言葉を綴る。しかし、どんな言葉も、伝えたい想いには届かない気がした。それでも別れの言葉を、せめて、書き残しておきたかった。
『紫雲様へ。 この文を、いつ、御覧になるか分かりませぬ。ただ、私は、紫雲様を、そしてこの国を守るために、新たな道を選びます。いつか、再びお目にかかる時、紫雲様が健やかで、心穏やかにいらっしゃることを、心から願っております。 いつまでも……』
紫雲に会うことは叶いそうもない。春は自室の机に、震える手で筆を執り綴った文をそっと置いた。きっと、紫雲もすでに父から話を聞かされているはずだ。彼が今、何を思い、自分と同じ痛みを抱えているのか、春はただ、そればかりを考えた。この手紙が、せめて彼の心を慰め、いつか再び巡り会う日の希望となることを願いながら。
翌日。朝日が昇る頃、王子としての門出が静かに開かれた。
そこに立っていたのは、見慣れぬ少年。艶やかな墨色の髪は高く結い上げられ、袖の広い狩衣に身を包んでいる。女の面影は、その瞳の奥深くに秘められ、凛とした少年の顔つきが、朝日に照らされていた。その幼い背中には、この国の未来が託されている。
春は、今日から紫雲となる。
まだ見ぬ運命へと、その一歩を踏み出した。