メイブルースと青信号
青は進め。
そんなの誰でも知っている。
青信号を渡れなかった理由は、ただ気づかなかっただけだ。信号よりも、加藤のメールに気を取られていたから。
「今、そっちに帰ってるよ」
たったそれだけの文章だった。
五月の連休はとっくに終わり、夏休みはまだまだ先。ようするに今は、何でもないただの六月なのだ。加藤が帰ってくる理由なんか一つもない。
なんだか胸さわぎがした。二限からの講義をサボろうと決めて顔を上げたとき、信号はすでに赤に変わっていた。大学に向かう途中だった俺は、そのまま渡らずに、踵を返す。
加藤とは高校で一番仲が良かった。俺は勝手に親友だと思っている。この春に東京の大学へ進学した加藤は、向こうで一人暮らしをしていた。
「何時ごろこっち着く?」
電車の中で加藤にメールを送ると、驚くほどの速さで返信が届いた。
「あと一時間くらいだよ」
時計を確認して、返事を送った。
「じゃあ駅で待ってる」
家からの最寄り駅には、それなりに大きい駅舎とロータリーがあるだけで、まわりにコンビニや飲食店は存在しない。昔からこれが普通だったから、寂れているとも感じない。
改札は当然のように一つだけだ。駅に着いた俺は、改札を抜けた先で加藤を待つ。
落ち着かずにスマホをいじっていると、電話が鳴った。加藤からだ。
「おー、修平、駅着いた?」
「改札出たところにいるけど」
「じゃあもう一回ホームまで入ってきてよ」
「なんで?」
質問には答えないで、一方的に加藤は電話を切った。
俺の家と、加藤の実家の最寄り駅はここだというのに、どこへ行くつもりなんだろう。
再び駅の構内へ入ると、加藤はホームにあるベンチに座っていて、俺を見るなりふやけた笑顔を浮かべながら軽く右手を上げた。
「修平、元気だった?」
加藤が大事なものを守るみたいに、リュックを前で抱えているのを見て、俺は思わず自分のリュックを背負い直す。それは、高校を卒業する前に二人で買ったリュックだった。加藤がネイビー、俺がグレーの色違い。
「元気だったよ」
突っ立ったまま答えると
「俺、行きたいところがあるんだけど」
唐突に加藤が頼んできたので、「どこに?」と首をかしげた。
「修平の大学」
加藤はにんまりして、こちらを見上げている。
「あのなぁ、俺は今、大学からここに帰ってきたんだぞ」
「えっ、そうなんだ。講義午前中だけだったのか?」
俺は閉口した。加藤はいつもそうだ。人の心配とか、気遣いとか、そういうものを汲み取れない。その無頓着さは、たまに、俺にとって絶対に手に入らない宝物のようにまぶしい。
「まぁいいけど、うちの大学行って何するつもりだよ?」
「腹減ったし、修平の大学の学食、食ってみたい」
家から大学までは電車で約一時間かかる。ほとんど人のいない電車に揺られたあと、大学の目の前にある横断歩道で赤信号に阻まれた。
まるで朝の続きのようだ。ただ違うのは、隣に加藤がいること。
信号待ちをしている加藤の横顔は、一緒に高校へ通っていたころと何も変わっていないように見える。それもそうだ。加藤が東京に行って、たった二か月しか経っていないのだから。
「ほら修平、早く行くぞ」
よそ見していたせいで反応が遅れた。信号はとっくに青になっている。
横断歩道を渡り切って、目の前の校門を抜ければもう大学の敷地内だ。
校舎まで続く並木道はすっかり緑が深くなっている。入学式の日、ここにはまだ白い桜が咲いていた。
桜にとって、そして、加藤にとって、この二か月は「たった二か月」じゃなかったのかもしれない。
昼休みは終わり、三限がすでに始まっていたので、食堂に学生はぽつぽつ程度しかいなかった。知った顔がいないことに安堵しつつ、三限もサボってしまって罪悪感を抱いていると、俺の心の機微なんて知らない加藤は、ショーケースのメニューの写真やサンプルを嬉々として眺めていた。
テーブルをはさんで向かい合わせに座る。俺はカツカレーを、加藤は日替わりランチを頼んだ。今日の日替わりは、しょうが焼きとカニクリームコロッケだった。
「ん、うまい」
箸で半分に割ったカニクリームコロッケを食べた加藤は、そのまま白米も口に運んだ。
食べ慣れたカツカレーがおいしいかどうかなんて、俺はもう改めて考えたりしない。
「東京の大学のほうが絶対メシうまいだろ」
意地の悪い言葉を吐いたのに
「どうだろう。そんなに変わらない気もするけど、自分のところと違う学食だからワクワクするし、修平と一緒に食うとなんか美味く感じる」
恥ずかしげもなくそんな台詞を言った加藤を無視して、俺はカツカレーを食べ続けた。
ほどよいスパイスの辛さが心地良い。
おいしいかどうか考えなくなったカツカレーを食べる理由と、加藤と友達でいる理由は、たぶん似ている。
昼食を食べ終わったあと、コップのお茶に口をつけながら、加藤が呟いた。
「そろそろ帰るか」
どこに?
加藤が今、帰ろうとしている場所は、帰りたいと思っている場所はどこなのか。
腹の底が熱を持っているのは、カレーの香辛料のせいだけじゃない。ずっと外に出るか迷っていた言葉が、くすぶっている。
「お前……今日本当は、自分の大学に行く途中だったんじゃないか?」
「え?」
とうとう口に出したとき、加藤は心底驚いたような顔をしていた。
「泊まりにくる荷物の量じゃないし、一限に出ようと思って、でも行かなかった。だからこっちに着いたのが昼前だったんじゃないの?」
東京からこの辺りまで、在来線で三時間弱はかかる。何でも事前に連絡してくる加藤の性格からして、「今、そっちに帰ってるよ」という現在進行形のメールは、あまりにも不自然すぎた。
「いつから名探偵になったんだよ?」
困ったように笑顔を作る加藤の隣の席は空いていて、そこには一緒に買ったリュックが椅子の上に置かれている。二人で、「このリュックで通学しよう」と約束めいたことを言いながら選んだ、色違いのリュック。
「そうだよ。修平の言ったとおり、なんでかわかんないけど、大学の前で足が止まって行けなかった」
観念したように息を吐きだした加藤は、
「ホームシックなのかな」
眉尻を下げたのに、口角は少しだけ上げて、言った。
加藤の意を汲んで、俺はなるべく深刻にならないような口調で返す。
「そのわりには、ゴールデンウィークもこっち帰ってこなかっただろうが」
「五月病になるの怖かったからさ」
「今なってんじゃねぇか」
「ほんとだ」
ほんとだ、じゃねぇよ。笑ってんじゃねぇよ。人のことに無頓着なのに、自分のことにも無頓着なんて、ただのバカだろ。
「帰るって、東京にか? それとも実家?」
「まだ決めてない」
「だと思った。とりあえず俺んちに行って考えるか」
食器を返却口に戻してそう言うと、加藤は、そうだな、とどこか他人事のような返事をした。
並木道を抜けて、大学の出口に差しかかったとき、急に、大きな声が俺の名前を呼んだ。
「修平、青、青!」
加藤が指で示した先で信号の青が点滅していた。
急げば間に合う。走れば渡り切れる。
青は進め。
ふいに、駆け出しそうな加藤の肩に手をかけた。
青が赤に変わる。向こう側へ渡れずにたたずんでいる俺たちの沈黙を、車の走行音がかき消していく。
振り返った加藤は俺のほうに向き直ると、怪訝な表情で言った。
「何やってんだ、青は進めだろ」
「違う」
さっき肩をつかんだ左手を握り締めて、俺は顔を上げた。
「違うだろ。青は『進んでも良い』だ。信号に合わせて、無理して進む必要なんてないし、お前は自分がどこに行くかも決まってないのに、何をそんなに焦ってるんだよ」
加藤は何も言わない。こっちが興奮しているせいか、ひどく冷静を保っているような顔が憎たらしく目に映る。
「お前は止まってるわけじゃない。進むために休むことは意味があるだろ。休んで、自分が渡れると思ったら、そのときは青を渡ればいい」
とてつもない速さで毎日は過ぎていく。だからときどき、必死になって、呼吸を忘れる。息苦しさにも鈍感になってしまう。
「でも、結局無理だって、逃げたって、それはそれでいいんだよ」
一方的に言葉を投げていたら、ずっと黙っていた加藤が突然、吹き出した。
「修平、言ってることが支離滅裂だぞ」
「わかってるよ」
なんで俺のほうが苦しそうなんだよ。ちくしょう。なんでそんな──嬉しそうな顔してるんだよ。
「やっぱり俺、修平に会いに来て正解だったな」
にかっと白い歯をのぞかせた加藤は、空を見上げた。
昔と同じ笑い方の横顔に言い捨てる。
「お前はバカだ」
「じゃあ、バカを心配する修平は大バカだな」
信号は、今度は赤から青に変わった。
雨空が何度だって快晴になるように、青は、何度だってやってくるんだ。
最初の白線は、きっと、スタートライン。
追い風を背中で受け止めて、笑いながら、俺たちは横断歩道に一歩を踏み出した。