幕間 悲劇のヒロイン《sideアシュレイ》
時間は、ダンジョン迷わずの森クリア後。
グレイが意識を失っていたときまで遡る。
ユースティティア学院の保健室。室内は静まり返り、魔導灯のやわらかな光だけが淡く差し込んでいる。
その一角、ベッドに横たわるグレイの枕元には、アシュレイがひとり椅子に腰かけていた。
昏々と眠り続ける彼の顔を、アシュレイはじっと見つめている。
細く整った指先がそっと膝の上で組まれ、まるで祈るように動かない。アシュレイの顔には、静かな焦燥と、言葉にできない想いがにじんでいた。
「いつまで寝ているんだ。いい加減、目を覚ませ……バカ」
アシュレイは、グレイに向かってそうつぶやく。
迷わずの森から脱出した直後、魔力切れを起こしてグレイが意識を失ってから、もう半日が経過していた。
保健室の先生の見立てによると、純粋な魔力切れの症状に加え、かなり疲労が溜まっているとのこと。
どうやら、グレイが魔力切れを起こしたのは、今回が初めてじゃなかったらしい。
毎日のように限界まで魔法を使い続けていたのだという。
そのため、しっかりと休ませれば、時間はかかっても回復するだろう——そう保健室の先生は言っていた。
「……それも、当然か」
アシュレイは思わずそう呟き、そっと目を伏せた。
自然と思い出されるのは、ダンジョン迷わずの森でグレイが見せた、信じられないほどの活躍だった。
グレイの魔法の成長は、アシュレイの想像をゆうに超えていた。
いや、《《この世界の常識すら完全に逸脱していた》》のだ。
ほんの一ヶ月前のグレイは、基礎中の基礎である一般魔法《ルークス》一つ、ろくに扱えなかった。
それが今では、基礎はもちろんのこと、威力の仔細な調整や、魔法の軌道計算といった応用技術まで、完璧に自分のものにしていた。
貴族の子どもたちは、物心がついた頃から魔法の訓練を始めるのが普通だ。
まずは魔力の扱い方から、魔力回路の構築、そして基礎魔法の習得へと進む。
それらを十年以上かけて順を追って身につけ、ようやく学院に入学する頃には、一通りの基礎が整っているというわけだ。
もちろん、アシュレイも例外ではなかった。両親の手ほどきを受けながら、長い時間をかけて少しずつ魔法を習得していった。
それをグレイは、ものの一ヶ月でやってのけた。
間違いなく、天賦の才を持っている。
本人は、口を開けば『俺は学院一の落ちこぼれ』とくさしているが、この一ヶ月の成長は、彼のずば抜けた魔法の資質を、なによりも雄弁に物語っていた。
しかし、きっと才能だけじゃなかったのだろう。
「グレイ……君は、ずっと努力していたんだな」
アシュレイは小さく呟くと、そっと手を伸ばし、グレイの髪を優しく撫でた。
その瞬間、不意に胸の奥が、かすかにきゅんと疼く。
けれど、その胸の疼きの意味が何なのか、アシュレイ自身にはまだはっきりとはわからなかった。
「君は誇るべき友だ。君と友人になれて……本当によかった……」
言葉を重ねるたびに、アシュレイの胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていった。
自然と頬がほころび、目尻もやわらかく下がっていく。
「そうか……私は……君に……」
その先の言葉を告げようとした瞬間。
ガタンと乱雑に扉が開かれる音がした。
アシュレイはびくりと身体を震わして、髪を撫でていた手を引っ込める。
驚きに目を見開きながら扉の方へ視線を向けると——そこに立っていたのは、まったく予想もしていなかった人物だった。
「セルヴィス、様……」
そこに立っていたのは、金髪を七三に撫で、ウルザの制服に身を包んだ青年だった。
クラスウルザ一年にして、アシュレイの婚約者。
公爵貴族、セルヴィス・ギルモアが神経質そうな顔でアシュレイを見据えていた。
「やはりここにいたか」
ギルモアはアシュレイの元まで歩み寄ると、ベッドに横たわるグレイを一瞥する。
それから視線をアシュレイに引き戻した。
「このクズと未だ付き合っているとは、どういうつもりだ……?」
アシュレイは、慌てて椅子から立ち上がる。
「……セルヴィス様、私は——」
「付き合う人間を選べと、僕は言ったはずだが」
有無を言わさないその物言いに、しばし沈黙するアシュレイ。
やがて意を決したように口を開く。
「グレイ・ブラッドレイは……私の誇るべき友人です」
「なん、だと?」
「確かに……普段の素行や態度に、貴族としてふさわしくないと、思われることがあるかもしれません。だけど、彼は……貴族として最も大切なものを持っています。それは——」
アシュレイが言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
「ふざけンな!」
「ぁ——」
乾いた音とともに、頬に鋭い痛みが走った。
反射的に手を当てながら、アシュレイは顔を上げる。目の前には、怒気を帯びた視線を真っ直ぐにぶつけてくるギルモアの姿があった。
その瞳には、冷たい怒りと、見下すような軽蔑の色がはっきりと浮かんでいた。
「お前は僕の婚約者なんだ! 僕の所有物なんだよ!? 所有者の僕がやめろと言ってるんだから! つべこべ言わずに黙って言う事を聞けよ!? そうだろうが! ああ!?」
セルヴィスは声を荒げて喚き散らしていたが、やがて大きく息をつき、少しだけ落ち着きを取り戻す。
乱れた前髪を指先で整えると、アシュレイをまっすぐに見つめながら、なおも言葉を続けた。
「アシュレイ、まさか君は、自分の立場を忘れたんじゃないだろうね?」
「私の立場……とは……」
「アストリッド家に、我がギルモア家がどれだけの支援をしているか。その支援がなくなれば、あっという間にアストリッド家は立ち行かなくなる……そうだろう?」
セルヴィスの言葉が胸に突き刺さる。
たった今受けた頬の痛みなど比べものにならないほど、アシュレイの心は強く締めつけられた。
思わず顔をしかめ、うつむいてしまう。
「それとも君は、君の代で家をつぶしたいと? もしそう思っているなら、《《手伝ってあげてもいいんだよ》》?」
アシュレイは両手をぎゅっと握りしめた。指先が白くなるほどに強く力を込め、怒りと屈辱をなんとか飲み込む。
「……もうしわけありませんでした、セルヴィス様」
か細く震える声が、アシュレイの喉からこぼれ落ちた。
「分かってくれればいいんだよ」
セルヴィスはアシュレイの言葉に反応し、一転してにこやかな笑みを浮かべた。
「アシュレイ。どうやら君は、この男にすっかり誑かされてしまったようだね」
そう言いながら、セルヴィスはすっとアシュレイの肩に手を添える。
その瞬間、ぞわりと背筋を這い上がるような不快感が走る。アシュレイは思わず、身体をこわばらせてしまった。
「安心してアシュレイ、すでに手は打ったよ」
「……え?」
「僕から父上に掛け合ってね。このたび正式に、君との婚約時期が早まった」
「な……!?」
思いもしなかった言葉に、アシュレイは息をのんだまま動けなくなった。
「それに伴い、君は一学期をもって、学院を退学してもらうことになる。なに、安心してアシュレイ。学院退学後はギルモア家が責任を持って、君に対し、公爵貴族の婚約者としてふさわしい、淑女としての教育を施してあげるからね……」
セルヴィスはそう言って、愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
その笑顔にぞっとするような嫌悪感を覚え、吐き気とめまいをこらえながら、アシュレイは必死に声を振り絞った。
「……婚姻は学院卒業後だと……そういう約束だったはずじゃ……」
「マグナクラスに属し、下流貴族や平民のクズに毒されていく君を見ていてね。このままじゃいけないと、考えを改めたよ。君はこの学院にいてはいけない。僕の花嫁としてふさわしい振る舞いを学び、僕の隣に立つ資格を手に入れるんだ」
アシュレイの呼吸が、どんどん浅くなっていく。
「セルヴィス様……お願いです……私は、まだ……」
「なに? また口答え?」
「……ッ!」
セルヴィスは冷酷な瞳でアシュレイを睨む。
それでアシュレイはすべてを悟ってしまった。
残酷な世界の真実。
公爵貴族の持つ権力の前では、子爵貴族の自分に拒否権はない。
意向に沿わなければ、その力に蹂躙され、飲み込まれるだけなのだ。
父が、母が、先達が守ってきたアストリッド家を、自分の代で終わらせるわけにはいかない。
「……わかり、ました」
「うん、いい子だ」
セルヴィスは満足げに笑った。
「だけど、セルヴィス様。一つだけ我儘をお許しいただけないでしょうか?」
「……言ってみろ」
アシュレイは、ギルモアに向かって深く頭を下げる。
「学院を退学するまでの間は……これまでと変わらず、グレイやリオン……友人と日々を過ごすことをお許しください。どうか、お願いいたします」
その懇願を受け、しばらく沈黙するギルモア。
「……いいだろう、最後の学院生活だ。君の好きにするがいいさ」
「ありがとうございます……!」
「だが、勘違いするなよ、アシュレイ」
その言葉とともに、セルヴィスはアシュレイの顎を指先で持ち上げ、無理やりその瞳を覗き込んだ。
「《《君は僕の婚約者なんだ》》。くれぐれもその自覚を忘れないように」
「はい……忘れません」
アシュレイは目を閉じ、自分の心の奥底にある本音を押し殺して、掠れるような声でそう告げた。
「いい子だ、僕のアシュレイ——」
言葉とともに、セルヴィスの手が静かにアシュレイの顎を離れる。
その冷たい指先の感触だけが、皮膚に焼きついたように残っていた。
***
ギルモアが保健室を去ったあと、アシュレイは静かに椅子へと腰を戻した。
再び向き合ったのは、ベッドで眠るグレイの穏やかな寝顔。
アシュレイはそっと胸元に手をあてる。まるでそこからこぼれ落ちそうな感情を、なんとか押しとどめるかのように。
胸を引き裂くような痛みと、どうしようもない悲しみが、じわじわと心を満たしていった。
「バカ……泣くな。泣いても、どうしようもないんだ」
じわり浮かんだ涙を袖で拭う。
けれど、拭っても拭っても、涙はとめどなく溢れてきた。
それでも、涙はあとからあとから溢れてきて、頬を伝い落ちていく。
堪えきれず、アシュレイは顔を両手で覆った。
「お願い……誰か……」
それは祈りにも似た、か細い声だった。
「お願いだから……助けてよ……」
誰に届くとも知れず、ただ静かに、保健室の空気に溶けていった。
そのとき——
「ぅ……」
ベッドから、小さなうめき声がした。
アシュレイは慌てて顔を上げる。
「グレイ……」
視線の先で、グレイが目を覚ました。
グレイはぼんやりとした顔で視線を彷徨わせたあと、やがてアシュレイの存在を捉えた。
「……アシュレイ? 俺……」
アシュレイは、視線を外し、思い切り袖で涙を拭う。
そして、グレイに向き直った。
「目を覚ましてくれた……よかった……!」
彼女は、そっと仮面をかぶる。
心に渦巻く痛みも、哀しみも、すべて閉じ込めて——
なにもかも失いつつある悲劇の少女ではなく、気高き男子爵令息としての〝完璧な自分〟を演じるために。
たとえ、学院での日々があとわずかだとしても。
せめて最後まで、大切な友だちと笑い合っていたい。
それだけが、今のアシュレイに残された、ただ一つの願いだった。




