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ALONEMAN  作者: 籠池源行
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ⅲ(1)


   ⅲ



〝……気が付いたぞ、よかった、どうやら乗り切ったみたいだ〟また何かの声で目が覚める。〝……ああ、体の毒もすっかり抜けているようだな〟〝…恐らくこの子はもうこの種のものは受け付けないだろう。二度と同じ目には合わないはずだ〟

 ぼんやりと身を起こす。何気なく辺りを見渡してみる。

 ここがどこだか考えて程なく理解ができた。あの女衒に拾われた森である。そうだった。

 見覚えがある。それに何故だか、この声たちにも。

 だけど周囲には誰もいない。不思議だった。気配だけがある。あるいは風の会話を盗み聞いているみたいにも思える。

〝……聞こえてないのかな?〟〝…いや、反応はしていたよ、もしかして元から喋れないのかもしれない〟〝…本当かい? それは気の毒に!〟

 さらに妙なことは自分の中にもある。あれほど限界に思えた疲労がなくなっている。肉体や精神の両方ともが綺麗さっぱり消え去っている。むしろ反動で何も感じなくなっている。完全に真っ白になっている。まるで長い闇から抜けたみたいだ。

 手足も動かしてみる。異様に軽い。全身が浮き上がってしまいそうにも思える。今までが何だったのかというぐらい自在に動かせるようになっている。

 ただ、その代わりというのか別な感覚が宿るのを感じ取れる。下腹の辺りだ。熱の芯が舞い戻っているのを感じる。凍り付くようだった自分の中にそれは確かに息づいている。じわじわと分厚い表層を溶かすみたいに内部から私自身を温めている。

 その直後に囁きがあった。〝……おい、見ろ、あの男が来たぞ〟〝…奴だ、この子を連れてきた男だ!〟一瞬で、彼らが霧散(むさん)する。そのあと間もなく誰かが遠方から近づいてくる。

 それは何だったか。覚えていない。木々の間を掻き分けて、だんだんとこちらに迫ってくる。果たして男は現れた。

「生き延びたようだな」

 平然とした男の顔を見た瞬間であった。

 唐突に私は目を見開く。無意識の奥底から狂ったような激情が飛び出してくる。

 それは度し難いほどの怒りと殺意である。凶暴性が一気に沸騰する。その勢いのままに男に向かい襲い掛かっていく。

 だけど私の拳は彼を捉える直前で虚しく空を切った。ついでに、いとも簡単に投げ飛ばされてしまう。

 それでも受け身とともに反動で起き上がり、木の幹を蹴って再び男に飛び掛かっていく。

 感嘆(かんたん)したように男は言った。

「なるほど、獣の程度には動けるようだな」

 それから幾度も攻撃を繰り出すが、そのことごとくが(かわ)されるか、いなされる。

 あの部屋で子供らを相手にした時と一緒だ。触れることもできない。まったく歯が立たない。

 そしてとうとう一撃のもとにねじ伏せられる。強烈な拳が私の横っ面を殴りつけた。男は見下ろして言う。

「憎いか? なら抗ってみせろ、私を殺すぐらいにな」

 呼吸の乱れは一つもない。こちらは病み上がりの上でのことを理由にせずとも起き上がることもできない。

 不思議な男だった。蛇よりも鋭いその眼力を持ちながら、まるで雄鹿のように優し気な瞳で私を見据えていた。

 私は口惜しさと苛立ちで彼をまともに見ることができない。それすらもできない。自分が情けなくて堪らなかった。

 だけど男は立ち去ろうとする間際に、来ないのか?と言った。もうここには戻らんぞ、と私を促す。

 それでますます理解ができなくなる。まるで自分を引き連れようとでもいうように聞こえたから。子供とはいえ殺意を向けた相手にどうしてそんなことが言えるのか。そんなことをしたって何の利もないはずだ。何故、私を放置しておける。殺さずにいられる。彼女らに対しては慈悲のかけらも与えなかったのに。あっさりと手にかけたはずなのに。

 ただ一つだけ分かったことがあった。普通の人間ではないことだけは確かだった、肉体的にも精神的にも。人を触れずに倒すほどの何やら怪しげな能力すら秘めている。

 この男を殺すには観察しなければならない、単純に隙をつくような程度では彼を殺すどころか触れることもかなわないだろう。〝……心が戻らないんだね、憎悪から〟〝…この子には時間が必要だ、冷静になれるだけの時間が〟私はその声に耳を傾けないまま、屈辱に鈍る四肢を起き上がらせる。よろよろと男をつけ狙うように後をついていく。



 最初のかなり長い間、男は誰とも会うことはなかった。荒れ地や森の中をまるで意図的に人里を避けるように旅する。

 私もまた執念によって見失うまいと後を追い続ける。

 男がそうする理由は分からない。行く先も当然知らない。ただ日の出とともに歩み、日の入りとともに休むという単純な周期を繰り返すのみだ。

 確かに彼は私のことを見抜いていたはずだ。こちらが終始殺害の機会を窺っていることなど承知していたはずである。なのに、彼は人里を避け続ける。不可解なほどに険しい未開地ばかりを進み続ける。

 何故なのか。逃げるだけなら人に紛れる方が確実だろう。あるいはそうしないのは自分のせいかとも考えた。面倒事を避けるゆえに、あえてそのようにしているのだと思った。

 だけど、それはどうやら違った。観察して間もなく、そのわけを思い知る。というのも彼ならいつでも自分を巻いて逃げられるのだと気付かされることとなる。

 それは何というべきだろうか。どう表現すべきか。

 あえて断言すると、彼には気配というものがまるでなかった。

 どれほど目の前にいたとしても簡単に見失う。何時いかなる場合でもそれをやってのける。

 まず気配のない人間はいないだろう。眼前で注意深くして見失うことなどあり得ないはずなのだ。なのに、ふとした瞬きの隙に視界から消え去っている。居たという痕跡すらも分からなくなっている。

 一体どうなっているのか。ほとんど野生の獣を相手にしているような錯覚にも陥る。その都度(つど)、必死に探し回って、ようやく僅かなものを見つけ出す。

 荒野の中にぽつんと消えかかった足あとや、森林の樹皮(じゅひ)の不自然な擦れ痕、あるいは上っただろう岩壁の足場の一つなど、限りなく精神と神経を研ぎ澄まして小さな手がかりを見出す。

 酷いときは数日見失うときもあった。手詰まりのような状況に絶望することもしばしばだった。それでも何とか男に食らいつくように追跡をやめなければ、何かしらは見つけることができた。あたかも絶妙に潜められた場所に、常にそのものを見出すことができた。必ず手がかりとなるものは置かれているのである。

 やがて、そうすることを続けるうちに、男があえてそうしているような、まるでこちらを弄んでいるかのような、何とも倒錯した思考へと至るようになる。

 私が男を観察しているのか、男が私を観察しているのか。追われているのは今はどちらなのか。ともすれば男は自分をいつでも殺せるのに殺さずにおいているだけなのではないのか、などと。

 そうした緊張が私の感覚を一層過敏にさせる。絶えず切迫したものへと変化させていく。

 どれほど長い間そうしていたのか。果てしない瞑想のような追跡と逃亡の日々に晒され続ける。そのことで不可思議な感覚を覚えるようにもなる。いつしか男の癖や足音を自然と記憶し、やがては見失った後でも、その痕跡や在り処を知るようになっていく。

 それは例えるなら五感を極限まで剥ぎ取った先に残る何かの表象(ひょうしょう)(※直感的に浮かべられる内的対象。イメージ)だ。全身を受容器とまで研ぎ澄ました向こうにある、もう一つの知覚でもあった。

 だが、まだ男は殺せない。自分が見ている以上に男はこちらを見ている。遥か先の高みにいるのだと思い知らされる。彼を知れば知る程にそのことが強く分かるようになっていった。

 あるとき男は突如、目の前に現れた。これから人の中にいく、と私に告げる。

「私を殺すならば彼らから多くを学べ。言語を学び、算術を学び、星読みを学び、作法を学び、詩や踊りを学び、美術を学び、心理を学び、医を学び、薬と毒の境を学び、物質の組成を学び、あるべき世界の構造を学び、そうしてありとあらゆる術を学べ。そうすれば、いつかお前は私を超えるだろう。いや、必ずな」

 私はもう男から目を逸らすことはなかった。ただ一つしっかりと頷いていた。


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