ⅱ(5)
湿った確かな香りがする。体の上を冷たい靄が這うように漂っている。森にいた。朝日の射す真っ白い森。恐らく最初にいた森だろう。「お前の全身に回ったものは、やがてお前を確実に殺すだろう」頭のずっと上の方で男の声がする。そこからあったのは現実なのかどうなのか定かではない。数々の断片でしかない。いえることはそれだけだ。「私が憎いか? いや、聞かずとも違いないな、なにせ大事なものを殺されたのだからな」その言葉で一つの感情が思い起こされる。この身を従わせるたった一つの感情だ。男への激しい怒りである。奴を今すぐ殺してやりたい。同じように首を落としてやりたい。だけど手足がほとんど動かない。まるで皮膚の真下で一切がドロドロに溶解したみたいだ。肉が腐り腸が腐り、骨まで腐って全てが一緒くたになる。全身が重たい革袋にでも変容したみたいだ。何一つ思い通りにならない。這いつくばって無様に身を捩らせるぐらいしかできない。「今はいい。その憎悪をひたすら思い起こせ。それが辛うじてお前を繋ぎ止めてくれる」もう鼓動は絶え間なく追い立てる銅鑼のように早い。定期的に脳天をカチ割られるみたいな頭痛もある。空気は吸うよりも圧倒的に足りなくて、全身が酸欠を起こしている。そのせいで発作的に四肢が異常なひきつけを起こしている。動かせるのは口だけ。死にかかった魚みたいにパクパクとその部分だけを動かし続ける。「しばらくすれば戻る。私を殺したければそれまで絶え抜け」男が立ち去っていくのが見えた。意識も再びどこかへいった——。
また森の中だった。粗末なシーツだけの寝台が一つある。柔らかな陽が小さなそこを俄かに温めている。こぼれるように陽だまりが下へと流れ出している。少女がずっと私を見ている。非の打ちどころのないその輪郭。奥の先までも覗き込めるほど深い眼球。私は彼女と向き合っている。鏡を見るように互いに眺め合っている。彼女はアンナだ。「あなたには目隠しをして、私は口を隠せばいいわ」彼女はそう言って、シーツの裾を包帯みたいに細長く引き裂く。それから私に近寄った。頭のところで一周だけ巻き付ける。そっと目隠しをする。鼻の頭をふと彼女の胸元がすれた。一瞬いい匂いがする。女の子のとてもいい匂いがする。ふわふわとした気持ちにさせられる。これだ。この匂いだった。ずっと不思議だったのだ。声も聞こえない。姿も見えない。どうやって彼女は私を見つけた? 私は彼女を見つけたのか? それが今ようやく分かった気がする。「これで私とあなたは一緒、永遠に一緒…」彼女もまた口を覆って隠した。それで時間が止まる。もう何もない。それだけだ。たぶん。いや、偶然。彼女の必要とする側に、たまたま自分がいただけだった。ただそれだけだ——。
「あの女は私たちを売り払った、自分たちが食い繋ぐためだけに! もうアイツのことをいうんじゃない!」母親に対する激しい憎悪。私はいない。どこにもない。あるのは夕闇に憤怒に歪む姉の表情だけ。母親のことを口にする妹を下敷きに容赦なく殴り続けている。「アイツは子供が連れて行かれたといっている、無理やり誘拐されたといっている。嘘つきめ! 卑怯者だ、それほど同情がほしいのか、それほど金がほしいのか? アイツらは全員卑怯者だ!」幼い妹は寝台の上で小さく身を丸め、ただ全てが過ぎ去るのをじっと耐えている。たった一人の家族だから。本当は愛情深い姉だと分かっているから。彼女はずっと耐えていた。いつまでも、ずっと——。
どす黒い闇の森の中。もう誰もいない。何もない。煌々と燃える寝台だけがある。そして私たちは家を失った——。