ⅱ(3)
この国家の繁栄を語るにおいて、奴隷(※抑圧によってその社会で永続的に生き方とあり方を縛られたもの)というものを欠かすことはできない。
それはこの街が、かつての都市国家連合の一つであったころに遡り、やがて征服地から流入する民族や人種を内包する過程において、生じる軋轢と労働力の不足を、階級という一方的価値観によって役割を分けることで生まれた。
彼らの曰くに奴隷とは生ける道具であり、生まれながらに卑しき存在だという。
そして、その中でも不可触民とは主に屠畜人(※食用家畜を殺し処理するもの)や皮革加工職人、清掃人、洗濯人、貧農など不浄にかかわることを専業とする最下層以下のものたちであり、その多くは世襲を義務付けられ、決められた狭い土地に住み、人権を与えられていない貧者であった。
自由に水を飲むことも許されず、強制によって屍肉や腐肉を食らい、ときに徒な虐殺にあうこともあった。
始まりは遠い空に夕暮れの迫る中だった。大勢の人間の怒鳴り合う声が聞こえる。
それは街の西側から押し寄せて、次第に通りを埋め尽くすようなものへと変わっていく。「お前たちは俺たちを皆殺しにするつもりなのか! この黒い斑点をみろ、もう何人も死んだぞ、毒だ、お前らが井戸に毒を流しやがったんだ!」彼らは不可触民であった。老若男女のものたちが口々にそう叫びながら雪崩れ込んでくる。手当たり次第に破壊と暴力、そして略奪を繰り返していく。
彼らのいうに最近になって彼らのスラムのとある一角で、突如として高熱と皮膚に黒い斑点を伴う症状が蔓延し、それは瞬く間に彼らの中に広がったという。そして一切、原因も分からぬまま死者が徐々に出だすようになった頃、何者かが井戸に毒をまいたという噂がどこからか伝わり始める。
全ては根も葉もない流言に過ぎなかったが、日常的な抑圧と困窮も相まって、偏見は憶測を呼んで確信へと変わっていく。そうして死者の数がさらに増した頃に怒りはとうとう弾けた。彼らは巨大な暴動の波となって街に迫っていったのだった。
「お前たちは自らの汚穢(※排泄物の意)を見ず、それを処理してきたものを人としなかった! そして今お前たちは気ぐるいにもそのものたちを殺そうとしている!」高々と拳を突き立て気勢を上げながら行進する。いつしかその憤怒の声はおびただしい数となり、支配制度への不満と怨嗟の塊となって、街の一角を飲み込まんとしていた。
息を殺した高窓の向こう。次第に大きく響く群衆の声。それらはやがてある頂点に達し、何か一つの地鳴りのようになって大気を真っ二つに引き裂いた。どす黒いうねりは夕暮れの街の均衡を完全に破壊してしまった。
あたりの様子は最早、昨日までと同じものではない。界隈は異様なほど静まり返り、娼婦酒場の中もまたすでに閑散としていた。
色町を仕切っていた連中は誰もいない。金目のものが多い商店や邸宅、モラルのない遊戯場や娼館などは必然的に狙われることを知ってか、彼らは少し前に私たちを置いて逃げ出してしまった。
ここの主人もまた、子供らをあの地下の食糧庫に閉じ込めていなくなってしまっていた。ただしそれは彼女の為業だろう。
だから仕方なく私たちはあの地下室にこもって身を潜める。買収されたのか元々グルだったのか、どちらにしてもそれもまたマハの仕組んだことの内だということは直ぐに理解できた。
沈黙した地下室の中で私たちは固まらず、お互いバラバラに散っている。
平静を装うもの、身を強張らせるもの、他人を気遣おうとするもの、様子は様々だ。
ただ誰しも視界の端に扉を気に留めている。何が起こっても見逃さないように、常にそれが映るように位置取っている。
そして、私もまた同様にしていた。一人離れたところでじっとしている。うずくまっている。だけどその理由は彼らとは少し違っていた。単純に一人になりたかったからだ。
何故だか分からないが、気分がひどく優れなかったのである。
一体いつからそうだったのか、原因は何だったのか、はっきりとしたことはよく覚えていない。でも恐らくはマハがやってきた日のあたりか。多分その晩の頃から、ずっと不調が続いている。何か感じたことのないような気怠さに長く見舞われている。そして、それはさらに日を追うごとに悪化していった。そんなことは今まで一度もなかったことだ。第一、病を感じるという経験すらしたことがない。
だけど、このような娼窟で、子供が一人身体の不調を訴えたからって何の意味があるというのか。誰も気遣いやしないし、せいぜい隅で休んでろと言われるのがオチだ。
だからもう気分は最悪だった。常に纏う吐き気とムカつき、眼球の奥を押し潰すような頭痛、加えて何もかも放り出したくなるような倦怠感で、真面に歩けもしないという有様でもあった。
もう先ほどからずっとそうだ。手足の感覚がぼんやりとして鈍い。身動きするのも億劫だ。それで仕方なく酒甕に寄りかかっている。長細い甕の首のところに頭を蕩けさせている。何かが変だとはよく分かっていた。それが急速に体を蝕みつつあるということも。
あるいは客に何かをうつされたか。それがとんでもない病とでも? ああ、そうだろう。娼館ではありがちなことだ。その手の病で毎年、何人かは使い物にならなくなる。そうして用済みになったら、どこかへ捨てられてしまう。そんなのは別に珍しいことでも何でもない。現に女衒が自分を拾ったときもそうだった。彼の本当の目的はそっちの方だったのだ。
でも今は、そんなことすらどうでもよかった。考えられることは限られている。よく熟した葡萄酒の、甘く豊かな香りだけが、気分をほんの少し和らげてくれる。心地よくさせてくれる。そして眼球の先をキョロキョロさせ続けるので実に急がしかったのだ。
「今なら外に誰もいない、ここを出られるかもしれない」
換気用の高窓に背を伸ばし、外の様子を窺っていた一人が囁く。
真下で聞いていたもう一人は微動だにせずに、しばらく干し肉をかじり続けた。そして、出よう、と唐突に言い出した。
その言葉によって全員が明らかにたじろいだ。それから素早く彼らの方へと目を向けた。
確かにこの場にいても不安は増すばかりでもある。そのことを考えないものはなかっただろう。だけど、口には出すまいと考えている。自分たちには、それほどの力も勇気も持ち合わせていないと知っている。
すると、その中にあって真っ先にアンナが声を上げた。待ちなさい、と彼らを引き留める。
「行くべきじゃない、外が危ないと言っていたでしょう」
「あの女のいうことを信じるってのか? よく考えろよ、こんなところにいても希望はないぞ」
「さっきから悲鳴が何度も聞こえてくる。ありゃそんなに遠くはない。見つかったらきっとヤバいことになる。俺たち全員皆殺しだ」
「だけど彼女の言ってたことは当たったわ。少なくとも嘘はついていなかった」
「それで言われたとおりに従うって? 馬鹿げてるぞ、そんなのは」
「ああ、全くその通りだ。信じる理由にすらなってないよ」
「いい? 考えなさいよ、彼女は隠れろと言ったのよ。何故そんな風に言ったの? 逃げろと言わずに? つまりこのことを全部分かってたのよ。もし最初からそのつもりなら、そういう手はずになるはずだわ」
「いや、分かってないのはお前だ。そう言わなかったのは俺たちが金蔓だからだ。みすみす逃がすわけがない。見つかる見つからないに拘わらず閉じ込めておくさ」
「そうだな。アイツらは俺たちを逃がしたくないんだ。また慰みものにするつもりだ。それでなくてもここがどういう場所か分かるだろう。見つかれば今よりもっと酷い目に合う。ほどなく奴隷どもの最後尾に回るのさ」
そう言って、茶化して唇をプーと鳴らしてみせる。
「どうして? どうして彼女を信じないの?」
「いいや、信じる信じないはお前の勝手だ。好きにすればいいさ。でもいいか、こんな機会は滅多にないんだ。もう一生ないかもしれない。でも、ここを出られれば自由になれる。それは今しかないんだよ。もうオカマ野郎の恰好でジジイの前で踊ったり、気の狂った女に殴られたりしなくて済むんだ」
延々と言い争いが続いている。その様子がぼんやりと見える。どうやらそれはアンナと別の二人らしい。
でも頭が回らなくて、どちらの言い分が正しいかも分からなかった。
ただ二人は比較的に健常な方だ。この中でも年上のものたちでもある。彼らは自分たちが先導するなら、この混乱の中でも街の外まで逃げることができるだろうという。そういう話みたいだ。
あるいはその通りかもしれない。ただし、ここにいる多くは年端のいかないものか、もしくは不具者(※体の一部に障害などがあるもの)でもある。
「あなたたち二人はいいかもしれない。でも私たちには無理よ。ここにいる子たちのことを考えたら、どうやっても上手くいきっこない。第一逃げられるわけもないわ」
彼女は弱者を代弁する。彼女の話にも一理ある。今この場にいるのは、右も左も分からぬうちに連れて来られて、ここしか知らないようなものばかりだ。ろくにこの辺りから出たこともない。たとえ逃げ出せたところで、その先は? 上手くいくワケもないともいえる。
「いや、そうでもない。もう日が暮れだしている。知ってたか、一日のうちで今が一番暗いんだ。目が慣れてないからな。おっと、お前には分からないか。とにかく今は月のある夜より暗い。どうにかすれば全員でも逃げられるはずだ」
「そうさ。言っただろう。俺たちが手伝ってやるよ、ここを出よう」
「彼女はきっとこうなることを全部分かっていたんだわ。だから話したがらなかった」
「おい、あの女の話は気にするな、どうせデタラメだ。アイツが怪しいのは皆だって分かるだろう。どうして今日に暴動が起こるって知っていたんだ? アイツは金持ちの女のはずだぞ。とんでもない身分だとも聞いた。それがどうしてそんな話を知っていて、わざわざ俺たちを助けようとする? それも娼館の子たち全員だぞ? なにか企んでなきゃ変だぜ。アイツがただの善人には俺には思えないね。だいたいこの街の善人ってのはみんな嘘つきのことだしな」
それでも他のものがまだ渋る様子を見せるので、二人はとうとう焦れだしてきた。振り向いて、ラーズ、お前はどう思う?と一人が尋ねてくる。それで彼は私の異変に初めて気が付いた。
「おい、お前、大丈夫か? すごく顔色がおかしいぞ」
彼は私に近寄ってくる。指先を鳴らしながら、頬を何度か叩く。けれど何故だろうか。音が一つ遠いのだ。頭の骨の裏側に綿でも敷いたみたいだ。ポンポンと反響してうまく聞こえない。
「なんだか汗もひどいな。目もイカれちまったみたいだ。おい、大丈夫なのか?」
「ああ、いいさ、そいつは放っておけよ。どうせ、いつもそんなだ。物狂いみたいに隅っこで縮こまっているだけなんだから」
「いや、そうじゃないぜ、なんかが変だ。すごく震えてるんだ」
「放っておけってば。今はそんな場合じゃないだろう」
「そうじゃないんだって、なんか変なんだ。一体どうしたってんだ? ああ、いや、そうだ、こいつ口がきけないんだったな。おい、誰か知らないか? 変だぜこいつ。酒甕にでも頭から突っ込んだのか?」
しきりに彼は語りかけようとしている。だが、ほとんど音が間延びして何を言っているのか聞き取れない。口元も何だか遅くて、ねちゃねちゃとした動きをしている。それでもしつこく声をかけてくる。次第に何も感じなくなってきていて、脈拍も弱ってきているのか、自分でも寒いのか熱いのかもよく分からなくなってくる。
薄暗い部屋の中をただ目を忙しなくさせ続けている。ぽーんぽーんと弾む音。これは何の音だったか? 彼の声らしきものだとは思う。心配そうな顔が異様に遠くに映っている。ずっと向こうにある。よくできた置物みたいな表情でこちらの奥側を覗き込んでいる。他の奴らも寄り集まってくるが、全部が並んだ豆粒みたいに小さい。なんだか面白かった。気が付くと笑いが込み上げてくる。ケタケタと止まらなくなる。全員の方を指さして見せる。なんておかしな光景だ。まるでこっちが大きくなりすぎたのか、部屋全体が大きく膨らんだのか? 見えてるものの距離が途方もないほど間遠くて、近くにあると思っている自分の手すらも何メートルも先にあるみたいだ。それで楽しくなって、グルグルと目だけで辺りを見回してみる。部屋にある全部のものを注意深く見ていく。するとだ。ふと、壁だか床だか視界の端に一つの黒い点を見つけた。それは何だったのだろうか? カビか。いや、皺があるな。しなびた果実の皮? いいや、どれも違うな。穴だ。多分きっとそうだ。ああ、それだ。だけど何の穴なのか? ネズミだかが空けたにしては奇妙な穴だった。あるいは元々そこにあったのか。ひどく気になって、じっと見つめると、どうやら奥は深そうだ。途中で先が急に狭くなっている。入り口はぬるぬると白く光っていた。なんだか女の湿った穴ぼこのようだった。そのせいか蠢いても見える。どれほど目を凝らしても、一番奥がどうなっているのか分からない。よく見通せない。まるで生き物みたいだなと思った。だけど生きてるほどには熱量はないように見える。ほとんどそれは死んでいる。あるいは実際に死んでいるのか、死んでいて動いているのかどちらかだ。ただその向こうに何かがあるのは分かった。熱のない死の冷たい先にある大事な何か。
それで家に帰るんだよ。
「なんだって?」
家に帰るんだ。
「何を見ているんだ、お前?」
〝彼女〟を守るんだよ、家に帰りたければ〝彼女〟を。
「ラーズ、ラーズ、そこにいるの? どこにも行かないで、手を握っていて」
向こうではギーギーと二人がまだ言い争っている。ここはどこだったか。
いや、地下の食糧庫だ。日暮れは近い。もう十分に暗くなっている。染み付く肉の臭いが気にならないのは既に鼻が馬鹿になっているからだ。
ラーズ、ラーズとアンナがしきりに私を呼んだ。そして、すぐ近くで手を探している。焦点のずれた美しい瞳がこちらを見つめる。目の中よりずっと先の方を覗き込んでいた。
私は一瞬ほど彼女の顔を眺めた。それから、その手をさっと取る。握り締める。大丈夫だと平然を装いながら、手の力を強くする。
「もういくよ、俺たちだけでな、来たい奴だけ来ればいい。じゃなきゃ、もうやり損なう。お前らは隠れるなりなんなり好きにしたらいいよ」
そして別の一人の方を振り向く。彼も軽く頷いて干し肉を放り捨てた。そのままベタベタの手で鼻をかんだ。それからひょいと腰を上げる。結局、話し合いはまとまらなかったようだ。
彼らが別の方に立つと、そのあとについて五、六人が彼らの側に歩み寄った。私とアンナたち、その他の子供らはその場に座ったままだ。
周りを一瞥して、これで決まりだな、と彼が告げた。もはやこれ以上は誰も引き留めようとはしなかった。
じゃあな、と短く別れの言葉を吐いたあと、一人が窓際に立って足をかける。彼らは出るにあたって、扉ではなく高窓の方を使うようだった。もちろんそれは我々が残るからだ。わざわざ施錠された方を開けて出るわけにもいかない。
ただ、高窓の方を越えることはさほど難しくもないようでもあった。すぐ向こうは路地裏に面している。半分地下に埋まっているせいで路地との落差もまるでない。むしろ逃げようとする彼らにとっては、様子の分からない酒場の中を通るよりもマシかもしれない。
まずは、一人目が高窓によじ上った。そして、そこを身軽に乗り越える。しばらくしたあと、外から壁を叩いて合図を送ってくる。それから、二人目、三人目と飛び出していく。
小さいものは下から押し上げられて、なんとか縁を越えていく。私たちは彼らの脱出が無事にやり遂げられるのを静かに見守った。
ただし、ぼんやりとしているワケでもない。彼らが見つかれば自分たちも終わりなのだ。それが何事もなく過ぎ去るのを必死に祈り続けるしかない。
やがて順調にして、最後の一人となった。あとは彼が足をかけさえすればいい。それで全て終わる。誰もが無事を確信し、緊張が緩められようとした、そのときだった。
不意に、ゴトっと物音がした。
一瞬で全員が固まる。動きをぴたりと止める。
それは何の音だったか。明らかに上の階からしている。
すぐ目の前のものが、ゆっくりと顔を見合わせようとしてくる。だけど私は首を振った。彼を制止する。
そして代わりに注意深く耳をそばだててみた。
体の不調は相変わらずだが、耳の鋭さは失われてはいない。誰よりも音を聞きつけられる自信がある。
あらゆる方向に向けて感覚をやってみた。
だけどだ。それ以降、音はしてこない。
どれだけしても無音が跳ね返ってくるのみだ。せいぜい誰かが、息を飲み込むようにするのが分かった程度か。
鼠か何かだったのか?
そう単純に思い込んで緊張を緩めかけた次のとき、再び別の場所で足音がした。
さらに、それは間髪を容れずに変化する。何かドタドタと駆け込むような音へと変わる。
皆の心臓が一気に跳ね上がった。同時に扉の方に目を向ける。
もう直ぐそこに、この地下室の前まで向かってこようとしているのが明らかとなった。
それによって全員に戦慄が走る。途端に慌てふためくみたいになる。なんということか、恐ろしい速度でそれはもう扉の前までやって来ている。
確かに施錠は外側からだが二重になっている。鍵がなければ開けようもない。だけど、扉自体は見るからにオンボロだ。壊そうと思えば大したこともないのだ。適当に積んだ木箱や甕などで塞いではいるものの、心許ないものでしかない。
手を伸ばせ、死にたいのか! 彼が声を荒げ、残っていた奴の手を強引に引き上げた。「お前らもだ、早くしろ!」それから続いて、こちらに向かって手を差し出してくる。
一瞬、誰もが躊躇する。だけど、そうしているほどの暇も最早ないのだ。ガタガタと扉は揺らされている。間もなく何者かがここに入ってくる。我先にと皆は立ち上がり、彼の声のする方に殺到していく。群がるように手を伸ばしていく。
もう窓の向こうは日が落ちようとしていた。夕暮れと夜の狭間に闇が下り始めている。
私は少し離れて、その様子を漠と眺めた。あることを思い出す。あの暗闇の森で平穏が破綻した日のことを。
その情景が俄かに重なろうとしていた。高窓の少年と手を伸ばす子供たち。怒鳴られながら次々と彼らは引き上げられていく。縁の奥へと子供らが何人も呑み込まれていく。やがて一人の少女が手を掴まれる。彼女が一瞬、悲鳴を上げる。引き裂かれて騒ぎ立てる。だけど少年は少女を強引に引っ張り上げた。
それは一体誰だったのか。影となって見えない。闇がうまく見通せない。その顔の部分はよく分からない。黒い靄に塗り潰されたような光景だ。喚き散らすようにしながら、彼女は高窓と戸板の隙間に消えていった。
そうしてだった、とうとう扉はこじ開けられる。塞がれていたものを荒々しく押しのけて、何か大きな人影が、ぬうっと中に入り込んでくる。
まだまだほとんどの子供は中に残されていた。あるいは、あと一人程度なら引き上げられたかもしれない。でも高窓の僅かな逆光の中で、もうダメだな、と少年が呟く。消え去っていくのが分かった。
程なくして人影は目の前まで迫ろうとする。怯える子供らに近づいてくる。唐突にこちらに向かって、怒鳴り散らすみたいな声を上げた。
「お前ら、早く部屋に戻れ、何もなかったようにしていろ。他の奴も自分の店に戻るんだ」
その正体とは不可触民ではなかった。なんと、ここに我々を閉じ込めた酒場の主人その人だった。
「ほら、行くんだ。モタモタしてんじゃねえぞ、さっさとしろ。それからあの女のことは忘れろ、いいな? このこともだ、誰にも言うんじゃない。いいか、必ずだぞ」
わけも分からずに、子供の一人が、何があったの?と思わず聞いた。すると彼はますます苛立った。終わったんだ、と短気に吐き捨てた。
「あの女は殺された、首謀者として捕まった。さあ、もういいだろ、さっさとしろ、これ以上は余計なことを言うんじゃない、言われたとおりにするんだ、さもなきゃ俺は今すぐお前らを殺さなきゃならん」
そしてあからさまに急き立てる。彼女の手を無理やり掴む。元いた場所に連れ戻そうとする。
そのとき主人はたまたま焦りのせいで不注意だった。だから戸口のところで何かに躓いた。
それは一匹の鼠の死骸だ。積まれた木箱の端にでも引っかかっていたのだ。クソっと小さく毒づいて、面倒くさそうに足で押し除ける。そして足早に立ち去っていく。
そのことは大したことではなかったのだ。何故なら食糧庫で起きたことでもあったのだから。一見にも値しない、日常の些事のようにも映った。
だが、あらゆる事柄は既に繋がりつつあった。まだ誰一人気づいてはいない。人々に蔓延る安閑と享楽の習慣。街中で過剰に虐殺されたであろう奴隷たち。真昼の裏に紛れて異常なほど鼠共は増え続ける。
比較をするまでもなく全てこの街から出された膿汁だ。たとえば一つ一つのことを深く鑑みれば誰かは気が付いたかもしれない。これが最初の兆候でないと知り得たかもしれない。
だけど誰一人それを知ろうとしない。皆が無関心であり続ける。ならば誰が初めにそれを叫ぼうか。
つまりは、たとえこのとき主人が今後のことを予期できなかったとしても、彼のせいではなかったのだ。
やがて悪意は濃縮されていく。最もドス黒いものへと最純されていく。あるときに一気に事態は表面化する。
この街を統治するものにまず異変が訪れた。黒い斑点の病によって最初の死を迎えた。彼の今際は壮絶だった。まるで強力な呪詛にでも見舞われたような顛末だった。壊死によって臓腑は腐り、腫れたリンパが拳ほどに肉を押し上げる。絶え間なく続く激痛にのたうち回るように。