大晦日~ふりがなさんなんとなく神を語る
かつて、私ことふりがなは、論理の最小単位とは神であり、また、穢れや畏れの最小単位も同一の定義、即ちは神である、それは伝染する権威のようなモノに近い、という作品を書きました。
そして、神へと至る思考過程を、神との対話と呼んだのです。
さて、結局、神とはいったい何なのか?
今回は、そんなお話になります。
アナロジーによる宗教の最低限の必要十分条件は、戒律、己に何かしらの制限を課すこと、となっております。
宗教の条件を満たす最小単位は戒律である、ということです。
では、宗教の中でも、限られた宗教に見られる神とはいったい何なのか、と問うてみると、もしかして、ただの戒律の塊なのかという話になりますよね。
しかし、神という定義は、必ずしも人に戒律を課しません。
邪神悪神なんて特にその類で、戒律には関係なく、神という分類に属しています。
伝染する権威のようなモノという性質から、神とは、感情という伝染するモノに近いのでは、と手繰ってみますと、神の最小単位、最低限の十分条件に突き当たる事が出来ます。
それが、言語化です。
元となった伝染性のあるものが感情であれ、普遍性であれ、何であれ、神という定義は、それ単体で成立し得る感情や普遍性だけでは、どうしても要素が足らず、言語化による概念化が必要になるのです。
つまり、言語にこそ神は宿るという事です。
言葉を話さない家畜に神は居ない。
ある種の統一言語とも呼べるであろう論理、ことわりの統一神が、人によっては異神となる理由がここにあります。
一般人が、言語は何かと聞かれたならば、日本人なら日本語、アメリカ人なら英語と答えるでしょう。
そして、人は、母国語以外にも、複数の言語を持ちます。
ボディランゲージ=肉体言語、感情という言語化しなくとも言語となり得る要素を持つ物、そして、一般的には言語の外側にある理の言語=論理、何らかの対象のイメージが持つハロー効果。
それら言語外の言語を、言語化し、概念化した時に、始めて神は姿を現すのです。
元となった言語外の言語によって、そして、言語そのものによって、神はその性質を変えます。
結果、信仰する神が人それぞれ違う事で、仮に同じ言葉を話していても、時に話は通じずに、認識そのものが統一されないままに進むのです。
それは、言語化に使った言語が違うのなら尚更顕著です。
これらの共通点からすれば、神とは、言語化そのものである。
言霊。
過去の日本人は、言語の持つ呪力について、注目していました。
それは、現代人よりも、昔の日本人の方が、神性の本質を理解していたからかもしれません。
言語外の言語を、より人に伝わる言葉に変えた時、伝染性を持っていたそれらの言語外の言語は、概念的な補助を受け、神へと昇華していくのです。
現代では、その呪力は忘れ去られ、一般的な神は半ば力を無くし、本質的に神と言える存在は、尚も悪用され続けています。
ですから、私たちは言葉で遊ぶべきではないのかもしれません。
言葉の持つ強力な呪力は、時に悪い方向へと働くのですから。
来年は、言語化に気をつけてみましょう。