それぞれのその後
劉秀は天下統一後、天下統一戦争で活躍した武将を内政に関わらせないようにし、内政に力を入れることを重視した。そのためこちらに敵対関係であった匈奴への侵攻を行わず、防衛に終始することにした。
天下統一後の劉秀たちについて簡単に記す。
鄧禹は37年に賈復と共に将軍位を返上し、特進となった。政治の表舞台から去った。しかしながら彼への信頼は厚く、56年に司徒を代行し、泰山での封禅の儀式に同行した。
劉秀の亡くなった翌年58年に世を去った。
彼には十三人の子がおり、それぞれに一芸を習得させた。家門を正して子や孫を教育する様子は全て後世の法(規範)とすることができると評価された。
鄧禹は必要な費用を全て国邑(封地)からまかない、それ以外の産業によって利益を得ようとはしなかった。彼の子孫は後に後漢王朝の皇帝の外戚となるまでになる。諡は元侯である。
「元」は「義を行って民を喜ばせること」「義を重視して徳を行うこと」という意味が込められているが、彼が中興の元勲であることから「元」が与えられたとされており、後に「徳が盛んで業績が大きいこと」という意味が追加されることになる。
呉漢は42年に起きた蜀での大反乱の鎮圧を行うなど、天下統一後も軍の中枢に居続けた。44年に世を去った。
その際、劉秀自ら病床に臨んで呉漢に言いたいことがないか問うと、呉漢はこう答えた。
「私は愚かで、知識がございません。ただ陛下が慎重にして大赦しないことを願うのみでございます」
呉漢が死んだことを聞いた劉秀は葬送の儀礼を漢の大将軍・霍光の故事と同等にした。
呉漢は性格が剛強(性強力)で、劉秀の征伐に従った時、帝が休まなければ、常に慎重な態度をくずさず立ったままでいた。
諸将は戦陣に利がなくなると、多くが惶懼(恐慌)して常度(常態)を失ったが呉漢の意気(士気)は衰えることなく、器械(武器、道具)を整厲(準備奨励。整えて激励すること。ここでは「準備」の意味)して吏士を激揚(激励)した。
ある時、劉秀が人を送って呉漢が何をしているか確認させると使者は呉漢が戦攻の道具を整えていると報告した。
劉秀は感嘆して言った。
「呉公は人を満足させることができる。呉漢の威重は一国に匹敵すると言えるだろう」
いつも出師(出征)する際は、朝に詔を受けたら夕(夜)には軍を率いて道上におり、辨厳(辨装。準備。旅の仕度)の日もなかった。
朝廷にいたらとても慎重で、その様子は礼儀や外見に現れていた。
呉漢がかつて出征した時、妻子が家で田業(田地)を買った。呉漢は帰ってから妻子を譴責してこう言った。
「軍隊が外におり、吏士が物資に不足しているのに、なぜ多くの田宅を買ったのか」
呉漢は田宅を兄弟や外家に分け与えた。
群臣たちは彼に送る諡を武としようとしたところを劉秀は忠とした。その理由はこのようなところがあったためである。しかしながら彼の息子は奴隷によって殺されるなどにより、彼の家は長生きすることはなかった。
賈復は55年に世を去った。数少ない特進になっても政治への進言を行うことができ、宰相とすることを勧められるほどであった。諡は剛侯である。
耿弇は天下統一後、大将軍の地位を返上し、列侯となった。それでも軍事での意見は求められることは多かった。58年に亡くなった。
諡は愍侯である。「国にいて憂いに遭うことを愍という」とされており、当時は国に大喪(劉秀の喪)があったため、耿弇の諡号を「愍」とし、国の大喪と同じように悲しんでいることを示したという。
彼の兄弟も皆、尊重され国家の重責を担った。
耿舒は異民族討伐に功績を上げ、南方異民族討伐で馬援の下で戦った。しかしながら戦略で馬援と対立し、彼の死後で非難を行ったことで馬援の追い落としに加担することになってしまう。
耿国は匈奴との外交において一歩も引かない外交を展開した。内政面でも高く評価され、大司農にまで登ることになる。彼の子孫は後漢に殉じて、曹操に反乱を起こし殺されることになる。
寇恂は天下統一間近で世を去っており、彼の子孫は宦官との対立の末、殺されることになる。
朱祐は将軍位を返上したあと、儒教の視点で内政面での進言を行う。48年に世を去った。彼は多くの者の投降を快く受け入れ、首級の数を数えることを好まなかったという。
蓋延は39年に世を去った。左馮翊の長の時、法を無視することが多く、配下であった後の後漢の名臣である第五倫がしばしば諌めたが、これを逆恨みして、第五倫を推挙することは無かった。
銚期は34年に世を去っており、亡くなる直前、劉秀は心配し、薬を渡すほどであり、彼の母が彼の子へのどこの領土を与えてもらうのかを聞くと、
「国家の恩を深く受け、常に恥じるところが多かったにも関わらず、死に臨んで国に報じることを知らず、なぜ、子を封じるというのか」
と言ったという。劉秀は彼の死を悲しみ、自ら彼の柩に服を入れた。
耿純は37年に世を去った。
臧宮は列侯になった後も軍人として戦場で活躍した。好戦的で匈奴で疫病にかかっていると知ると匈奴討伐を進言し、却下されている。58年に世を去った。
馬武も天下統一後も戦場を駆け巡った。明帝の頃でも活躍した。61年に世を去った。
劉隆は一時、田邑の不正を行ったとして、処罰を受け庶民に落ちる。しかし、徴姉妹との戦いにおいて馬援の副将として復帰する。呉漢が死ぬと彼の後を引き継ぎ、法を重視して職務を果たすほど8年経った頃に将軍位を返上して列侯となった。57年に世を去った。
馬成は北方異民族との戦いで活躍、北方での防衛に大いに貢献した。しかしながら南方異民族での戦いでは敗北している。56年に世を去った。
王梁は38年に世を去った。
杜茂は北方の守備を担っていたが、横領と部下に人を殺させた罪により、免官された。43年に世を去った。
堅鐔は50年に世を去った。
王覇は匈奴、烏桓と北方の異民族との戦いを何度も行った。匈奴との和親を進言し、北方の安寧を守った。59年に世を去った。
王常は36年に世を去った。
任光は26年に世を去っているが、彼の子・任隗は袁安と共に竇氏と対立することになる。
李忠は内政面で手腕を発揮し、彼の内政は天下一とまで称えられた。43年に世を去った。
邳彤は30年に世を去った。
李通は大司空としての職務を見事に果たしたものの、自分には過ぎた地位であると辞職を願いつつも中々許されず、許されたのは36年の頃であった。42年に世を去った。
竇融は劉秀に大いに尊重され続けた。しかしながら身内が罪を不祥事を行うことが多くなり、明帝に目をつけられたため、自ら辞職を願い出るほどであった。そのため晩年はかつての栄光はなかった。62年に世を去った。
彼の子孫は後々に外戚として後漢王朝に関わっていくことになる。
馬援は西方異民族との関係を取り持つなどの功績を上げた後、南方の異民族との戦いで功績を上げたが、48年に戦の最中に陣没してしまう。彼を憎む者によって彼は汚名をかぶることになったが、彼の娘である馬皇后の努力により、名誉回復が果たされることになる。
彼の子孫は後漢末の動乱で活躍することになる。
郭伋は北方での内政に手腕を発揮し、誰からも尊敬された。47年に世を去った。
杜詩も地方での内政に手腕を発揮し、どこでも結果を出した。38年に世を去った。彼には田宅が無く、埋葬する場所がなく、子孫もいなかったため郡邸(各郡が治所にもうけた出張所)にうめられた。
樊宏は人となりは常に柔く子に対し常に「高貴であるもので成功を続ける者は少ない。歴代の外戚を見ればわかることだ」と述べて謙虚で有り続けた。51年に世を去った。
陰識は朝廷では言葉を尽くして正論を唱えた。しかし、朝廷から離れて賓客と話すときは国事を一切話題にしなかった。劉秀はそんな彼を敬重し、他の皇族・親族に陰識を見習うよう諭し、また左右を激励した。陰識が任用する吏員は優れた人材で、彼らの多くは後に公卿や校尉になった。明帝からも大いに信頼された。59年に世を去った。
陰興も劉秀から信頼されており、呉漢が亡くなった後、大司馬に任命しようとした。すると彼は泣きながらそれを断った。47年に世を去った。
陰麗華は64年に世を去った。彼女は常に謙虚で有り続け、馬皇后と共に中国史上優れた皇后として評価された。
朱浮は幽州から逃げ帰った後は様々な上書を行い、王朝運営、政治改革に貢献し続けた。その功績により、大司空にまで登った。しかしながら彼は同僚と問題を起こした。しかし、劉秀は処罰しなかった。だが、明帝の頃になると彼を讒言する者がおり、彼は死に追い込まれることになった。
張純は宗廟の制度や封禅の儀式を行うように進言を行うなど祭祀面での改革を主に行った。56年に世を去った。
鄭興は蜀討伐の後、讒言を受けて降格処分を受けたが、『左氏伝』などの研究を行い、彼の研究は後世に影響を与えた。
陳元は宗廟の礼儀などの進言を行った。
班彪は太守としての手腕を発揮しながら歴史書についての研究を行った。『史記』は儒教的では無いと述べて、その思いを受け継いだ子供たちによって『漢書』が書かれることになるのである。
侯覇は38年に世を去った。劉秀自ら弔問を行った。
韓歆は直言を好み、劉秀が、隗囂と公孫述が交わした文書を読んだ際、韓歆はこう言った。
「亡国の君にも全て才があったもので、桀・紂にもまた才がありました」
劉秀はこれに激怒したが、皆のとりなしによって許した。
その後、飢餓凶作になることを論証し、天を指したり地に描いて(身振り手振りを加えて語ること。遠慮なく激しく話すこと)、その言葉は甚だ剛切(剛直懇切)であった。
これが原因で劉秀は韓歆を罷免して田里に帰らせたが、まだ赦すことができず、再び使者を派遣して、詔によって譴責した。
その結果、韓歆と子の韓嬰は自殺した。
韓歆はかねてから重名(厚い名声)があり、死に値する罪でもなかったため、多くの人が不服であった。
劉秀はこれには後悔したのか銭穀を追賜し、礼を成して(罪人とみなさず正式な礼を用いて)埋葬した。
『資治通鑑』の編者・司馬光はこの出来事を、
「惜しいことである。光武の世をもってしても、韓歆が直諫を用いて死んでしまった。これは仁明の累(仁徳英明な光武帝時代における欠点。「累」は「過失」「欠陥」の意味)というものではないか」
と評価している。劉秀のことを高く評価していただけにこれだけは擁護できないという悲痛さがある評価である。
馮勤は劉秀と侯覇が対立した時にこれを取りなすなど、政治における潤滑油を努め、大司徒になった時、歴代の大司徒が失態を犯していただけに劉秀は心配して彼に慎むようにと述べて、彼はそのとおりに慎み結果を出した。劉秀の彼への信頼は厚く自ら彼の母を敬ったほどであった。56年に世を去った。
趙憙は更始帝に最後まで尽くした人であったが、劉秀に大いに信頼され、劉秀の葬式においては主催を努めた。
張湛は皇后廃位に反対し、朝廷に出ることを拒み続けた。
杜林は皇太子から廃位された劉彊の傅となった。
馮衍は陰識、陰興に尊重されるが、生涯不遇のままであった。
申屠剛は劉秀は出遊した際に、「隴蜀が未平ですので、遊んではならない」
といい、車輪に頭を入れて、諌めるなど剛毅さを発揮していた。
王朝の內外の群官は劉秀自ら選考を行った。群官にたいし、法理は嚴察に加えた。職事は過苦で、尚書の近臣が、劉秀の前で捶撲・牽曳されても、群臣は正言しなかった。その中で申屠剛は、これを諌めたが、聞き入れられなかった。平陰令に左遷された。
鮑永は劉秀が粛清する者を擁護するなど、劉秀と対立することが多かった。
劉秀は天下統一後も精力的に自ら内政に尽力し、軍旅に久しくいたためか武事を嫌った。
天下の疲耗(疲弊消耗)も知り、休息を思い楽しみ、隴・蜀を平定してからは、緊急の時以外は軍旅について語らなかった。
かつて皇太子(劉彊か劉荘(明帝)かは不明)が攻戦について訊ねたことがあったが、劉秀はこう言った。
「昔、衛の霊公が陳(陣。戦事)を問うたが、孔子は答えなかった。これはお前が口出しすることではない」
劉秀は毎朝視朝(朝政。朝会)して、正午を越えてからやっと解散した。
しばしば公卿や郎将を引見して経理(経典の道理)を講論(議論)し、夜分(夜半)になってやっと眠りについた。
劉秀の勤労で怠らない姿を見た皇太子(同上)は、機会を探してこう諫めた。
「陛下には禹・湯(夏王朝と商王朝の初代王)の明があるにも関わらず、黄・老(黄帝と老子)の養性の福を失っています。精神を頤愛(愛護)し、優游自寧(悠々として自分を安んじること)とすることを願います」
しかし劉秀は、
「私は自らこれを楽しんでいるのだから、疲れることなど無い」
と言った。
劉秀は征伐(戦争)によって大業を完成させたが、いつも足りないことがあるかのように戦戦兢兢として慎重だったため、政体(国家。または政治の要領)に対して明慎(明瞭かつ慎重)で、権網(大権)を総攬して時と力を量り、行動に過失はなかった。
天下が既に定まると功臣を退けて文吏を進め、弓矢をしまって馬牛を解散させた。劉秀の道は古の聖人帝王と比べるには至ることはなかったが、戈を止める武(武器を収めて戦いを止めさせる武功)にはなった。
このようであったため、前烈(前代の功業)を恢復して、その身を太平の世に到らせることができた。
と評価された。
しかしながら劉秀はずっと必死に努力し続けただけであったと答えるだろう。
彼は自分が皇帝という地位に相応しいほどの人物では無いと思っているからである。
それでも彼は驚異的な努力で見事に漢王朝の復興を成し遂げていった。
「ふう」
どれほど努力しても努力しても足りないように感じる。
そう自分は様々な足りない部分を持ちながらもここまでやってきた。あの時、来歙ご会わなければ、あの時、挙兵に参加しなければ、あの時、河北での混乱を乗り越えなければ、あの時、皇帝になることを選ばなければ。
いつでもどこかで死ぬこともあっただろう。それでもここまできたのは多くの人々に支えられたからである。
劉秀は自分の部屋から空を見上げる。
「ああ空のなんと綺麗なことか。雄大なことか……」
まだまだ自分はちっぽけな存在に過ぎない。だからこそ、努力しなければならない。常に前を向いて歩き続けなければならない。
「官に付くなら執金吾、妻を娶らば陰麗華~」
全ての原点の言葉を呟きながら劉秀は椅子に座り、静かに目を閉じた。
これにて完結。明日辺りに『蛇足伝』の方で「劉邦と劉秀」書いてその後で三国志(仮)を近日中にやろうかなって思ってます。




