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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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臧宮

 趙王・劉良(ちょうりょう劉秀りゅうしゅうに従って来歙らいきゅうを葬送し、城に還って夏城門を入った。


 その時、劉良は城門で中郎将・張邯ちょうかんと道を争った。張邯を叱咤して車を還らせ、更に門候を叱責して罰として前に向かって数十歩走らせた。


 これに対して司隸校尉・鮑永ほうえいが弾劾の上奏を行った。


「劉良は藩臣としての礼がなく、大不敬でございます」


 劉良は尊貴な皇族であったが、鮑永はそれを恐れず弾劾したため、朝廷が粛然とした。


 鮑永は扶風の人・鮑恢ほうかいを招いて都官従事にした。鮑恢も抗直(剛直不屈)で強禦(豪強。権勢がある者)を避けなかったため、劉秀は常に、


「貴戚(皇族)は暫く手を収めて二鮑を避けるように」


 と述べるほどであった。


 そんな鮑永を劉秀は処罰しようとした時があった。


 鮑永が管轄の県を巡行して霸陵に至った時のことである。


 彼は途中で更始帝の墓を通り、そこで下拝(跪いて拝礼すること)して哭泣し、哀情を尽くしてから去った。


 西の扶風に至ると、牛を殺して苟諫の冢(墓)に供えた。以前、父・鮑宣ほうせんを殺し、その子孫を全て殺そうとした王莽から苟諫が守ってくれたからである。


 これらの事を聞いた劉秀は不快になった。彼は案外、別陣営からやってきた者、特に更始帝からこちらに来た者に対して簡単に信用しないところがある。劉秀は公卿に問うた。


「奉使(皇帝の命を受けた者。ここでは司隸校尉・鮑永を指す)がこのようであるが、如何であろうか?」


 すると太中大夫・張湛ちょうたんが答えた。


「仁は行動の宗(宗旨。最も重要なこと)であり、忠は義の主でございます。仁において旧を棄てず、忠において君を忘れないのは、崇高な行動と申し上げることができましょう」


 劉秀は納得して不満を解消した。


 ここでこの張湛という男について紹介する。彼は字は子孝という。彼は王莽の頃に各地の太守を歴任してきた人である。


 矜厳にして礼節に優れ、挙動は規則正しく、家中に在っても佇まいは乱れることがなく、妻子に対しては厳格な君主のようであった。郷里の親しい人に会っても、言動は正しく、厳粛な顔つきであった。故に人々は正に彼こそが手本とするべき人であると感嘆するほどであった。


 そんな彼に対し、彼の所作は偽りばかりであると述べた者がいた。その者に対し、張湛は笑いながら言った。


「たしかに私は偽りを行っていると言える。しかしながら他の者は悪さを為すために偽りをなすにも関わらず、私は善を為すために偽りをなしている。それだけのことではないかね」


 彼が劉秀に仕えたのは劉秀が即位した時のことである。


 劉秀は人と話す時はあまり距離感のある話し方をしないことが多く、朝廷でそのような態度で臣下と話すことがあった。すると張湛は厳しくそれを注意することが多かった。


 また、彼は朝廷にやってくる時、白馬に乗ってやってきたため、劉秀は彼のことを「白馬先生」と呼び、彼の顔を見る度にこう言った。


「白馬先生がまた注意しに来た」


 劉秀の数少ない頭の上がらない文官である。








 劉秀は自ら兵を率いて公孫述こうそんじゅつの征討を行うとして、七月、長安に駐軍した。


 公孫述は自分の将・延岑えんしん呂鮪りょい王元おうげん、弟の公孫恢こうそんかいを派遣し、全軍を動員して広漢と資中で漢軍を防ごうとした。


 また、将・侯丹こうたんに二万余人を率いて黄石で防がせた。


 八月、岑彭しんほうは延岑に対抗するため、臧宮ぞうきゅうに降卒(投降した兵)五万を率いさせ、涪水から平曲に遡らせた。


 岑彭自らは兵を分けて長江を下り、江州に還ってから、都江を遡って西に向かい、黄石で侯丹に奇襲を行い、これを大破した。


 その後、岑彭は昼夜兼行して二千余里進み、直接、武陽を攻めて攻略してみせた。


 更にそこから精騎を駆けさせて広都を襲った。成都から数十里しか離れていない地である。


 漢軍の勢いは風雨のようであり、至る場所で蜀軍が奔散した。


 これ以前に公孫述は漢兵が平曲にいると聞いたため、大軍を送って迎撃させた。


 しかし急行した岑彭が武陽に至って延岑軍の後ろに回っていたため、蜀の人々が震撼し、公孫述も大いに驚いて杖で地を撃ちながら


「何たる神というのか」


 と言った。


 正に神というべき速さであるということである。


 延岑は沈水で大軍を集めた。


 それに対し、輔威将軍・臧宮の軍は兵が多いのに食糧が少なく、輸送も間に合わなかったため、降者(投降した兵)が皆、散畔(離散背反)しようと考え始めていた。


 郡邑の人々もまた堡塁に集まって成敗を観望(傍観)している。


 そのため臧宮は兵を退こうとしたが、ここまで来て、占領した地域を失うことを惜しいと思った。


「でもなあ、このままだと軍内部で反乱が起きるんだよなあ」


 顎をかきながら臧宮は考え込む。


 ちょうどその時、劉秀が謁者を派遣し、兵を率いて岑彭を訪ねさせていた。また、七百頭の馬を連れていた。


「お、これはいいな」


 臧宮はなんと矯制(偽造した皇帝の命令)を使ってそれを奪い、自軍を充たした。


「よし、足を手に入れたぜ。おいお前らいくぜぇ」


 臧宮は朝も夜も兵を進め、多数の旗幟を立て、山に登って戦鼓を敲いたり喚声を挙げた。


 右岸に歩兵、左岸に騎兵が並び、船を牽きながら江を進み、呼声が山谷を震わせた。


「漢軍だと」


 延岑は計らずも漢軍が突然現れたため、山に登って眺望し、大いに震恐した。


「さあ、飯も宝もあそこだぜ」


 臧宮が兵を放って攻撃をしかけ、沈水で延岑軍を大破した。斬首された者や溺死した者は万余人に上り、川の水が濁るほどであった。


 延岑は成都に奔り、その衆は全て投降した。


 臧宮は彼らが持っていた兵馬や珍宝をことごとく奪った。


 更に臧宮は自ら勝ちに乗じて敗北した兵を追撃した。投降した者は十万を数えるようになった。


 臧宮軍が平陽郷に至ると、王元は衆を挙げて降った。


 漢に降伏した後の王元は上蔡県令、東平国相を歴任することになる。しかし墾田の不実により有罪となり、投獄されて死んだ。


 これらの詳報の報告を聞いた劉秀は結果を喜びつつも、


「臧宮は賊であった頃を忘れられないらしい」


 と苦笑した。

 




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