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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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名声ある者の死

 劉林りゅうりんが戻ると趙匡ちょうきょうが迎え入れた。


「お怪我はございませんか?」


「ああ、大丈夫だ。董訢とうけん様もご無事である」


「そうでしたか……実はお話したいことがございます」


 意味深な表情を浮かべる趙匡の話を眉をひそめて聞くとみるみるうちに眉は上がり、目を見開かせた。


「それは誠か」


「誠でございます。隗囂かいごうが死にました」


 劉林が離れていた頃、隗囂は長い篭城戦の影響か病を患った。普通の病ではなく、必要以上の飢餓に襲われるという病である。長い篭城戦での飢餓状態が祟ったためであろう。


「食べものを、食べものを……」


 しかしながら食料の備蓄は干糧しか無い状態で新たな食料を得るには時間がかかった。


「この私が、好きに食べることもできないとは」


 異常な飢餓の訴えから一気に怒りを顕にし、血が頭に登った結果、頭の血管から血が噴き出し、そのまま死んだ。


 彼はこの時代において天下第一の名声を持ち、多くの豪傑、賢者が彼の元に集まった。それにも関わらず、彼は天下を得ることはなく、最後はあまりにも哀れな姿であった。


「それで後継者はどうした?」


「隗囂の将・王元おうげん周宗しゅうそうが少子・隗純かいじゅんを王に立て、兵を指揮して冀を拠点にするとのことです」


 劉林は顎を撫でる。


(隗囂が死んだとはな……)


 隗囂の少子の器量は未知数である。その彼の元で隗囂の諸将は一致団結して劉秀りゅうしゅうと対峙できるとは思えなかった。


(信者の数を大きく減らしてしまったからな……)


 劉林は公孫述こうそんじゅつの元に戻ることにした。そこで彼は隗囂の死を伝え、まだ若い少子である隗純が跡を継いだことを伝えた。


「そうであったか。次にはどうするべきか?」


「すぐに支援を送られては如何でしょうか。趙匡は辺の地域に詳しく将として任命するのは如何でしょうか?」


「それで良い」


 こうして公孫述は趙匡と田弇でんえんを派遣して隗純を援けることにした。


 この動きを察知した劉秀は馮異ふういに冀を攻撃させた。


「趙匡……責任は私が取る……」


 馮異は敵軍を見据えながらそう呟いた。


 北へ軍を派遣した公孫述は翼江王・田戎でんじゅう、大司徒・任満じんまん、南郡太守・程汎ていほんに数万人を率いて江関から東進させた。


 田戎らは以前、岑彭しんほうが守りとして置いていた威虜将軍・馮駿の江州、都尉・田鴻の夷陵、領軍・李玄の夷道と巫を攻めて破り、全て占拠した。


 更に荊門と虎牙(どちらも山の名前)を占拠してから、江水をまたいで浮橋を造り、関楼(または「闘楼」)を築き、欑柱(密集した木の柱)を立てて水道を塞ぎ、船が川を通れないようにした。また、陸路を塞ぐために、山をまたいで営を結んだ。こうして漢兵の進軍を防いだ。


 一方、劉秀は大司馬・呉漢ごかん王常おうじょうら四将軍と兵五万余人を率いさせ、盧芳ろほうの将・賈覧からん閔堪びんじんと高柳で戦った。


 しかし匈奴が盧芳軍を援けたため、漢軍が不利になった。


 これがきっかけで匈奴が勢いを増し、鈔暴(略奪暴行)が日に日にひどくなっていった。


 劉秀は匈奴に備えるために詔を発した。朱祜しゅうゆうを常山に、王常を涿郡に、破姦将軍・侯進こうしんを漁陽に駐屯させ、討虜将軍・王霸おうはを上谷太守に任命した。


「匈奴は後回しだな……」


 劉秀は中郎将・来歙らいきゅうに命じて長安に駐屯している諸将を全て監護させた。太中大夫・馬援ばえんがその副(副官)になった。


 来歙が上書した。


「公孫述は隴西と天水を藩蔽としていますので、延命して息を繋げることができています。今、二郡を平蕩(平定)すれば、公孫述の智計が窮することになりましょう。更に多くの兵馬を選び、資糧を儲積(蓄積)するべきです。今、西州(隗囂)は死んだばかりであり、兵も人も疲饉(疲労飢餓)しているので、もしも財穀によって招けば、その衆を集めることができましょう。私は国家が出費とするところが一つではなく、用度(費用)が不足していることを知っています。しかし西征のために財穀を使うのはやむを得ないことです」


 劉秀は納得して詔を発し、汧に六万斛の穀物を蓄えさせた。


 八月、来歙が征西大将軍・馮異ふういら五将軍を監督して天水の隗純を討伐を行った。


 しかし隗純は守りを固めたため破ることができなかった。


 一方、匈奴が盧芳の将・賈覧と共に攻めてきたため、驃騎将軍(驃騎大将軍)・杜茂ともが繁畤で賈覧と戦ったが、杜茂は敗北した。











 この頃、盗(盗賊)が陰麗華いんれいかの母・鄧氏と弟の陰訢を殺した。


 劉秀はとても悲傷し、陰麗華の弟・陰就を宣恩侯に封じた。更にこの時、陰麗華の父・陰陸を追封して宣恩哀侯としている。まだ皇后ではなく貴人の陰麗華の父を追封するのは異例なことである。


 続けて劉秀は陰就の兄に当たる侍中・陰興も招いて封侯しようとした。しかし印綬を陰興の前に置くと、陰興は固辞した。


「私にはまだ先登陷陳の功(先に城壁を登ったり敵陣を落とす功)がないにも関わらず、一家数人が並んで爵土を蒙えば、天下を不満にさせるため、誠に願うところではありません」


 劉秀は陰就を称えてその意志を尊重した。


 そのことを知った陰麗華が陰興に封侯を断った理由を問うた。


 陰興はこう答えた。


「外戚の家とは謙退を知らないことに苦しむもの。娘が嫁ぐ時は侯王(王侯)に配すことを欲し、息子が婦人を娶る時は公主を待ち望んでいるため、私の心は実に不安です。富貴には極(際限)があり、人は満足を知るべきです。夸奢(驕慢奢侈)はますます観聴(世論)に譏られるところとなります」


 陰麗華は弟の言葉に感じ入り、この後、自分を抑えて深く謙譲し、終生、宗親のために官位を求めることがなくなった


 劉秀は寇恂こうじゅんを招いて潁川から帰還させ、漁陽太守・郭伋かくきゅうを潁川太守に任命した。


 郭伋は山賊の趙宏ちょうこう召呉しょうごら数百人を招いて降し、全て帰郷して農籍に附かせた。


 その後、郭伋が自ら専命の罪(勝手に命令を出した罪。投降した山賊を放ったことを指す)を弾劾したが、劉秀は咎めなかった。


 後に趙宏、召呉らの党人が郭伋の威信を聞いて、遠く離れた江南や幽州、冀州からも期することなく続々と投降していった。


 




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