群臣との関係
31年
この年、日食があった。
劉秀は正殿を避けて生活し(天に対する謙虚な姿勢を見せるために正殿から離れて起居した)、兵を休ませ、五日間にわたって政治を行わず、謹慎した。
その後、彼はこう言った。
「我が徳が薄いため災を招き、讁(譴責)が日月に現れた。戦慄恐懼して何も言うことがない。今、愆(過失)を念じてその咎が消えることを願うだけである。よって、有司に命じてそれぞれの職任を修め、法度を奉遵し、元元(民衆)を恵茲させることとする。百僚は各々封事(密封した上書)を提出し、避けることがあってはならない。上書する者は『聖』と言ってはならない(上書で「聖」という文字を使ってはならない)」
最後の聖を使ってはならないというのは日食があったため「聖」という文字を使うのは相応しくないと考えたためである。
太中大夫・鄭興がそれを受けてこう上書した。
「国に善政がなければ、謫(譴責)が日月に現れるものです。要は適切な人選をして官位を与えることが大切なのです。今、公卿大夫の多くが漁陽太守・郭伋を挙げて大司空に相応しいとしていますが、陛下はすぐに決定していません」
前年に大司空であった宋弘は上党太守に問題があるとして弾劾したが、その太守の罪を証明できなかったために解任されていた。それからずっと劉秀は後任を決めてなかった。
「道路では流言があり、皆が『朝廷は功臣を用いようと欲している』と申しておりますが、功臣を大臣の官職に相応しいとは限らない時がございます。陛下が上は唐・虞(堯・舜)を師とし、下は斉・晋を観ることで、自分を屈して衆に従う徳を成し、優れた人物に官位を譲るという功徳を成就させることを願います」
劉秀が後任を決めないのは後任に求めている能力が高すぎるのではないかということである。
「近年、日食の多くは晦(月の最後)にあり、時に先んじて(日と月が)合わさっているのは(通常、日食は朔日に起きる)全て月の運行が疾い(速い)からです。日は君の象(象徴)であり、月は臣の象です。君が亢急(急迫)していれば、臣下が促迫(緊迫。切迫)し、そのため月の運行が疾くなります。今、陛下は高明ではございますが、群臣は惶促(恐れて焦ること)しています。柔克の政に留思(留念。関心を抱くこと)し、『洪範』の法に垂意(注意。留意)するべきです」
「柔克の政」というのは柔軟な態度で事を成就させる政治の姿のことである。『洪範』の法は『尚書・洪範』の教えで、『洪範』に「高明柔克(柔克を高揚する)」という言葉がある。
劉秀は自ら勤勉に政事を行っていた。しかしながら群臣たちからするとその政治の進め方が厳急すぎて利を損なうこともしばしばあった。そこで鄭興は上奏文で劉秀の亢急(急迫)に言及したのである。
劉秀はこの上書を受けて大司空の後任として前将軍・李通を任命した。
一見すると鄭興の言うとおりに行動したが、後任にしたのは功臣である李通である。
大司空の後任を急かしたのは儒教思想に長けたこちら側の文官層である宋弘が解任されてしまったためにこちら側の者を据えたいという意図もあっただろう。
そもそもこの上書が劉秀や国のためというのはあるのは確かであろうが、一方で劉秀の独裁的な部分を減らしたいという前漢王朝期における高官たちの思いもあっただろう。
後漢王朝初期においての内政における力関係は独裁を維持して上手く政治を回したい皇帝・劉秀と儒教思想を元にした理想的な国家運営をしたい前漢王朝からの高官たちの主導権争いの色が濃い。
これは劉秀死後も続いたと言ってよく、主導権を握ろうと図る高官たちは外戚の権力を高めて主導権を握ろうとし、外戚を含めて力を持っていく高官らに対抗するために皇帝側は宦官に頼っていく。皇帝と高官の政治における主導権を巡る対立によって権限が強化された外戚、宦官もその主導権争いに参加していくようになり、後漢王朝の歪みとなっていくのである。
そもそも鄭興と劉秀は微妙に相性が悪い。
劉秀は図讖(預言書)を好んでいた。自分の帝位に用いられたというのもあるだろう。
そんなある日、鄭興と郊祀の事について議論したことがあった。その際、彼はこう言った。
「私は讖によって決断したいと思うが、どうだろうか?」
すると鄭興はこう述べた。
「私は讖を為しません」
と答えた。
その態度に珍しく劉秀は怒って言った。
「卿が讖を為さないのは、これを否定するからか?」
鄭興は懼れ慌てて答えた。
「私は図讖は学んだことがないだけで、否定しているのではありません」
その答えによって劉秀は怒りを静めた。
一歩間違えると劉秀には暴君としての面も見えなくはないのである。
ある日、大司農・江馮が上書した。
「司隸校尉に三公を督察させるべきです」
簡単に言ってしまえば、三公の権力を弱めようという意図のある上書である。このような上書が行われたことから劉秀が独裁力を維持させたいという意識が下にも伝わっていることがわかる。
司空掾・陳元(王莽の厭難将軍・陳欽の子)が反論の上書を行った。
「私が聞くに、臣を師とする者は帝であり、臣を賓客とする者は覇者であるといいます。よって武王は太公(呂尚)を師とし、斉の桓公は管仲を仲父とし、近くでは高帝(劉邦)が相国に対する礼を厚くし、太宗(文帝)が宰輔の権を借りました」
劉邦が相国に対する礼儀というのは蕭何への「剣履上殿(剣を帯びて靴を履いたまま殿上に登ること)」「入朝不趨(入朝の際、小走りなる必要がないこと)」の特権のことである。
文帝のは、申屠嘉が文帝の寵臣・鄧通を譴責した時、文帝は人を送って申屠嘉に赦しを請うたというものである。これを「宰相から生殺の権限を借りた」と表現している。
「亡新・王莽に及ぶと、漢の中衰に遭い、王莽が国柄を専操(専断)して天下を偸み(盗み)ましたが、王莽は大臣の身で国を奪ったことを前例としたため、群臣を信用せず、公輔の任を奪い、宰相の威を損ない、刺挙(検挙)を明とし、激訐(他者の隠し事や過失を暴露して譴責すること)を直とし、ひどい場合は陪僕(奴僕)がその君長を告発し、子弟がその父兄の変を告訴したものです。罔(網)が緊密で法が厳しく、大臣は手足を置く場所もなくなりましたが、それでも董忠の謀を禁じることができず、その身は世人の殺戮に遭うことになったのです。今は四方がまだ混乱しており、天下が一つになっておらず、百姓が観聴して皆、耳目を張っています。陛下は文・武(西周文王と武王)の聖典を修め、祖宗の遺徳を受け継ぎ、下士に対して心を労し、腰を低くして賢人を待遇するべきであり、誠に有司を使って公輔の名(三公の名声と実態があっているかどうか)を監察させるべきではありません」
劉秀はこの陳元の意見に従った。主導権を握ろうとする高官たちを排除しようという思いは劉秀には無い。彼の皇帝としての存在の証明を担っているのも彼らだからである。そのための譲歩でもあったのかもしれない。
因みに陳元は親『左伝』派として反『左伝』派である范升と『左伝』を研究する博士の設置を巡って十余回激論したことで有名な人である。
秋、隗囂は歩騎三万を率いて安定を侵し、陰槃に至った。
それを受けて馮異が諸将を率いて隗囂を防いだ。
「貴様、お前らが出撃しないとはどういうことか」
王元が劉林にそう訴える。
「いやあこちらとしても動きたいのは山々ですがねぇ」
(餓鬼が寝ている以上、動けねぇんだよ)
董訢が寝ていて動けないなどとはさすがに言えないため、劉林は言葉を濁して出撃を回避する。
隗囂は別将・牛邯に命じて隴山を下らせ、汧を守る祭遵を攻めさせた。
(強いな)
牛邯は祭遵の軍の強さに対して打開する術がなかった。もちろん馮異に相対している隗囂も馮異のいなし続ける防御を前に打開する術を得ることができず、
「引き上げるぞ」
隗囂は舌打ちしながら引き還した。
劉秀はこの動きに対し、自ら隗囂を征討することにしようとした。まず、竇融に連絡して師期(出征の日程)を約束した。
しかし雨に遇って道が遮断され、隗囂の兵も退いたため、劉秀は征討を中止した。
「隗囂の天命はまだあるようです」
劉秀は来歙にそう苦笑すると別の一手を打つことにした。来歙に命じて隗囂の将の一人である王遵を招くための書を送らせた。
「正義は銅馬帝にある」
王遵は劉秀に帰順することを表明した。
真っ先に帰順を表明した王遵を評価して彼を太中大夫に任命し、向義侯に封じた。
戦だけでなく、謀略で劉秀は少しづつ追い詰めていった。
この時、劉秀の元に嬉しい知らせが届いた。
冬、盧芳がある出来事(詳細は不明)によって五原太守・李興の兄弟を誅殺した。
それに反感を抱いた盧芳の朔方太守・田颯と雲中太守・喬扈がそれぞれ郡を挙げて劉秀側に降ったのである。劉秀は二人の職をそのままにした。
そんなある日、南陽太守・杜詩から上疏がなされた。
彼は南陽太守としての政治は清平であり、利を興して害を除いたため、百姓はそれによって生じた利益を享受することができた。また陂池(溜池)を修築し、広く土田(田地)を開拓したおかげで、郡内の家々が富裕になった。
そのため、当時の人々は杜詩を前漢の名太守の一人である召信臣に譬え、南陽では、
「前に召父がおり、後に杜母がいる」
と歌われた。劉秀はその評価を聞いて、更に大きな土地である汝南を治めさせようと考え、彼を汝南太守にしようとした。
歌われるような内政を成し遂げておきながら杜詩は自己評価が低いのか。自分には功績が無いため、汝南太守への任命を断りたい上疏を行ったのである。
しかしながら劉秀は彼の内政手腕を評価しているため、そのまま彼を汝南太守にした。




