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銅馬が征く  作者: 大田牛二
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反乱の高まり

 緑林兵が疾疫に遭い、死者が半数近くに上ったため、それぞれ分散し、兵を率いて去った。


 王常おうじょう成丹せいたんは西の南郡に入って「下江兵」を号し、王鳳おうおう王匡おうきょう馬武ばぶおよびその支党・朱鮪しゅい張卬ちょうこうらは北の南陽に入って「新市兵」を号した。


 各々将軍を自称した。


 王莽おうもうは司命大将軍・孔仁こうじんに豫州を指揮させ、納言大将軍・厳尤げんゆうと秩宗大将軍・陳茂ちんもに荊州を攻撃させた。


 それぞれ吏士百余人を従え、船に乗って渭水から黄河に入り、華陰に至ってから河を出て伝に乗り、管轄の地で士を募った。


 厳尤が陳茂に言った。


「将を派遣しながら兵符を与えず、必ず先に請うてから動かすのでは、韓盧を繋いで獲物を獲らせるようものである」


 韓盧とはかつての韓の名犬のことである。


 七月、新市賊(新市兵)の王匡らが隨に進攻した。


 平林の人・陳牧、廖湛も衆千余人を集めて「平林兵」と号し、王匡らに呼応した。


 この平林に劉玄りゅうげんがいた。彼の字は聖公といい、劉秀りゅうしゅうの族兄にあたる。族兄というのは、曾祖父が兄弟の関係にある親戚のことで、年上の者を指す。



 劉玄は弟が人に殺されたため、客と結んで仇に報いようとした。


 しかし客が法を犯してしまった。


 その罪というのはこういうものである。


 ある時、劉玄が客を集めた時のこと。家に酒があったため游徼(盗賊を取り締まる下級官吏)を招いて酒を勧めた。すると賓客が酔って歌を歌った。


「朝、両都尉を煮る。游徼が遅れて来た。それを使って羹の味を調える」


 激怒した游徼は賓客を縛って数百回打ったというものである。


 そのため劉玄は官吏を避けて隠れた。


 劉玄が逃走したため、官吏が劉玄の父・劉子張りゅうしちょうを捕えた。


 劉玄は偽って死んだふりをし、人に喪(霊柩)を運んで舂陵に帰らせた。それを見た官吏は劉子張を釈放した。


 劉玄は逃走して隠れていたが、この年、平林の陳牧が挙兵したため、そこに投じたのである。


 王莽が詔書を発して廉丹を譴責した。


「倉廩が尽きた。府庫が空になった。怒るべきだ。戦うべきである。将軍は国の重任を受けたにも関わらず、中野に身を棄てなければ、恩に報いて責(譴責)を塞ぐ術がない」


 恐慌した廉丹は夜の間に自分の掾を勤める馮衍を招き、詔書を示した。


 馮衍がこれを機に廉丹に言った。


「張良は五世にわたって韓の相となりましたので、博浪の中で始皇帝を椎(槌)で襲いました。将軍の先祖は漢の信臣でした(廉丹の先祖・廉褒は襄武の人で、宣帝時代に後将軍に任命された)。新室が興きてから、英俊が附いていません。今、海内が潰乱(壊乱)し、人が漢の徳を懐かしむのは、周人が召公を思った時の様子よりも勝っています。人が歌舞するところに、天は必ず従うものです。今、将軍のために計るならば、大郡に屯拠し、吏士を鎮撫し、その節を磨き、雄桀の士を納れ、忠智の謀を聞いて求め、社稷の利を興し、万人の害を除くべきです。そうすれば福禄が無窮(永遠)に流れ、功烈が不滅に著されましょう。どうして軍を中原で覆滅させ、その身を草野の肥料され、功が敗れて名を喪い、恥を先祖に及ぼす必要があるのですか」


 廉丹は進言を聞かなかった。


 馮衍はかつての左将軍・馮奉世の曾孫である。


 冬、無鹽の人・索盧恢らが挙兵し、城を拠点にして賊(反乱軍)に附いた。


 廉丹と王匡がこれを攻めて攻略し、斬った首は一万余級に上った。


 王莽は中郎将を派遣し、璽書を奉じて廉丹と王匡を慰労させ、爵を公に進めた。功績を立てて封爵された吏士も十余人いた。


 この人の特徴は褒める時は奇妙なほど大人数を大勢やるところがある。彼は多数を満足させようとさせて、大多数を不満にさせる天才である。


 この時、赤眉の別校(別部隊の長)・董憲らが率いる衆数万人が梁郡にいた。


 王匡が梁郡への進撃しようが、廉丹は城(無鹽)を攻略したばかりで士卒が疲労しているため、暫く士を休めて威を養うべきだと述べた。


 しかし王匡はこれを聴かず、兵を率いて単独で進んだ。


 廉丹は見捨てることができないため、結局それに従った。


 両軍は成昌(地名)で合戦したが、新軍が敗れて王匡は逃走した。


 廉丹は官吏に自分の印韍と符節を渡して王匡に届けさせ、


「小児は走ってもいいが、私はそう言えない」


 と言ってその場に留まった。廉丹は戦死した。


 校尉・汝雲、王隆ら二十余人は別々に戦っていたが、廉丹が死んだと聞くと


「廉公が既に死んだ。私は誰のために生きるのか」


 と言い、賊軍に向かって奔走した。


 二十余人とも戦死した。


 王莽はこれを痛んで書を下した。


「思うに公は多くの選士精兵を擁し、衆郡の駿馬・倉穀・帑藏(財物の倉庫)を全て自調(自由に調達すること)できたにも関わらず、詔書をおろそかにし、その威節から離れ(印韍と符節を王匡に送ったことを指す)、騎馬して呵譟(喚声を上げること)し、狂刃に害されることになった。ああ、哀しいことである。諡号を下賜して果公とする」


 新軍を破った樊崇はその兵十余万を率いて莒を包囲したが、数カ月経っても下せなかった。


 ある人が樊崇に言った。


「莒は父母の国です。どうしてこれを攻めるのですか?」


 樊崇は包囲を解いて去った。


 赤眉は東海を侵して王莽の沂平大尹(王莽が東海郡を沂平に改めた)と戦ったが、敗れて数千人の死者が出たため、引き返して楚、沛、汝南、潁川の地を侵し、戻って陳留に入った。


 魯城を攻略してから転じて濮陽に至った。


 国将・哀章が王莽に言った。


「皇祖考黄帝の時は中黄直(人名。中黄が氏、直が名)を将にして、蚩尤を破って殺しました。今、私は中黄直の位に居るので、山東の平定を願います」


 王莽は哀章を東に駆けさせて、太師・王匡に協力させることにした。


 また、大将軍・陽浚に敖倉を守らせ、司徒・王尋に十余万の兵で雒陽に駐屯して南宮を鎮守させ、大司馬・董忠に中軍北塁で士を養って射術を習わせ、大司空・王邑に三公の職を兼任させた。


 司徒・王尋は長安を発ったばかりの時、霸昌厩(霸昌観の馬厩)に泊まった。そこで黄鉞をなくしてしまった。


 王尋の士・房揚はかねてから狂直(度を過ぎた実直)だったため、哭泣してこう言った。


「これは経が言う『斉斧を失う』というものだ」


 これは『易』の言葉で、鋭利な斧を失って断斬できなくなったことを意味する。


 房揚は自らを弾劾して去った。


 王莽はこれを知り、房揚を撃殺した。


 反乱が更なる高まりを見せる中、ついに劉秀が立ち上がる時がきた。




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