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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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決裂

 馮異ふういが長安から洛陽に還って入朝した。


 劉秀りゅうしゅうが公卿に言った。


「彼は私が起兵(挙兵)した時の主簿である。私のために荊や棘の道を切り開き、関中を定めてくれた」


 謁見が終わると珍宝と銭帛を下賜し、詔を発してこう述べた。


「倉卒(緊迫した時)の蕪蔞亭での豆粥と虖沱河での麦飯に対して、久しく厚意(厚情)に報いなかったため、ここで報いることとする」


 劉邦も細かいことをよく覚えている人であったが、劉秀も案外細かいことを覚えている。


 馮異が稽首して謝辞を述べた。


「私が聞くには、管仲が桓公にこう申しました。『君(桓公)が鉤を射られた事を忘れず、臣が檻車を忘れないことを願います』と、斉はこの言葉を頼ったために覇を称えることができました。私も今また国家(天子)が河北の難を忘れないことを願います。私は巾車の恩を忘れることがありません」


 巾車の恩とは馮異は巾車郷で捕えられて劉秀に帰順したことを述べている。


 馮異は洛陽に十余日滞在した。


 その後、劉秀が馮異に命じて妻子と共に西に還らせた。


 また、この時、申屠剛しんとごう隗囂かいごうから離れて劉秀に帰順した。彼は隗囂に常に劉秀に帰順するように勧め、別れ際までそのことを主張続けた。それでも受け入れられることがなかったため、劉秀に帰順したのである。


 彼と同じく帰順した者で杜林とりんという人がいる。


 杜林は幼い頃から学問を好み、節義のある人であると讃えられていた人である。王莽の混乱期に弟の杜成、同郡の范逡、孟冀らと共に家族を率いて、河西へ避難した際に盗賊に襲われた。


 衣服を剥ぎ取られ、殺されそうになった時、孟冀がこう言った。


「一つ言わせてもらってから殺してもらいたい。あなたは天に神があると知っておられるか。あなたは盗賊をやり、赤眉をくりかえされるのか。天の神をあなたは恐れないのか」


 この言葉に盗賊たちは共感したらしく杜林たちを逃がした。


 隗囂は彼をうやまい治書にしようとしたが、杜林は断る。しかしながら隗囂は強引に就官させようとした。それでも就官しないため、隗囂は言った。


「杜林は天子が臣とできず、諸侯が友とできない。伯夷と叔斉と同じようだ」


 しかしながら彼はその後もしつこく迫った。それでも杜林は同意しなかった。当初相当な名声の持ち主であった隗囂の誘いをここまで断り続けたのは彼ぐらいである。


 その後、弟が死んだため杜林は喪に服すために三輔へ帰還することを求めた。隗囂はこれを許したが、その後に後悔し、なんと刺客の楊賢ようけんに隴坻で杜林を殺害させようとした。ここに彼の度量の小ささが見える。


 命令を受けて楊賢は杜林を殺害しようとしたが、弟の喪に服す杜林の姿を見ると溜息をついて、任務を放棄した。


 弟の喪が終わると杜林は劉秀に帰順したのである。


 劉秀は二人とも侍御史に任命した。


 また、昨年、河南に来た鄭興を太中大夫にしました。


 三月、公孫述こうそんじゅつ田戎でんじゅうの説得があったのか。彼を江関から出撃させた。また、任満じんまんを派遣して南郡を侵させた。


 田戎は故衆(旧部下)を招いて荊州を取ろうとした。しかし荊州を守る岑彭しんほうの守りは硬く、田戎は荊州を攻略できなかった。


 この動きに対し、蜀の敵対の意思はもはや明らかとし、劉秀は隗囂に詔を下し、天水から蜀を討伐させようとした。


 しかし隗囂は上書してこう述べた。


「白水(白水県の関の名)が険阻で桟閣(桟道。崖に造られた道)が敗絶しています。また、公孫述の性は厳酷であり、上下が互いに嫌っていますので、その罪悪が孰著(熟著。顕著)になるのを待って攻めるべきです。これが大呼響応の勢(形勢)でございます」


「大呼響応の勢」とは、人が大呼したら響いて必ず応じるという意味である。ここでは公孫述の上下が乖離するのを待ってから攻めれば、必ず内応する者が現れるということである。


 龍種はこの上書から隗囂を用いることができないと知り、討伐を謀り、長安へ行幸した。


 劉秀は耿弇こうえん蓋延がいえん祭遵さいじゅん王常おうじょう馬武ばぶ劉歆りゅうきん(劉植の従兄弟)、劉向りゅうこうら七将軍を派遣し、隴道から蜀(公孫述)を討たせることにした。名目上はそうしつつも実際は隗囂を討伐のための準備である。


 その前に、中郎将・来歙らいきゅうに璽書(詔書)を持たせ、隗囂に諭旨(皇帝の命令)を与えに行かせた。


「皇帝陛下よりの命令を伝える。蜀を討伐するため軍を編成し、従軍なされよ」


「蜀を今、攻めますと……」


 しかし隗囂はまた多数の疑故(疑惑や困難等を理由にした口実)を設け、久しくしても決断しようとしなかった。


(こいつは……)


 乱世が続くことを望んでいる。己の野心のためにである。許されることではない。劉秀は乱世を終わらせようとあらゆる努力を行ってきている。果たして隗囂も公孫述も劉秀ほど努力を行っているだろうか。いな、行ってはいない。ただただ自分たちのことばかりを考え、行動しているだけである。


(あの優しさあふれる少年の努力をこのような男に邪魔されてたまるか)


 来歙はそう思い、激怒した表情で隗囂を問い正した。


「国家(天子)はあなたが臧否(善悪。得失)を知っており、廃興に通暁していると判断したため、手書によって心意を現してきたのだ。あなたは忠誠を推し、すでに伯春(隗囂の子・隗恂の字)を派遣して委質(忠誠を誓うこと)したにも関わらず、逆に佞惑の言を用いることを欲して、族滅の計を為そうというのか」


 来歙は皇帝の使者であるため、剣を帯びたまま拝謁することが許されている。そのためこの時、剣に手をかけて、前に進み、隗囂を刺そうとした。


 隗囂は立ちあがって朝堂の中に逃げ込むと兵を指揮して来歙を殺そうとした。


「喝」


 迫ろうとしてきた兵たちに一喝し、来歙は隗囂が逃げ込んだ朝堂を見る。


(我らの友誼もここまでだ)


「皇帝陛下にあなたの態度をお伝えする。殺したければかかって参れ、私は逃げも隠れもしない」


 来歙はゆっくり符節を持つとそのまま歩き去っていった。その間、兵たちは彼の周りを囲みつつも襲いかからなかった。そのため来歙は車に乗って去っていった。


「おのれぇ」


 隗囂は牛邯ぎゅうかんに兵を率いて来歙を包囲させようとした。牛邯は元々群雄の一人であったが、隗囂のことを知ると帰順した男である。


 勇敢であり、文にも通じた人である。


 しかしこれを隗囂の将・王遵おうじゅんが諫めた。


「君叔(来歙の字)は単車で遠方の使者になられましたが、陛下(光武帝)の外兄でございます。殺しても漢にとって損はありませんが、族滅を招くことになります。昔、宋が楚使を捕えたため、析骸易子の禍(人骨を薪の代わりに焼き、子を交換して食すこと。大飢饉の意味)を招いたのです。小国でも辱しめてはならないのですから、万乗の王に対してならなおさらです。伯春を命を重んじるべきです」


 春秋時代、宋が楚の使者を殺したため、楚が宋を包囲し、飢餓に陥らせることがあった。その故事をもって諌めたのである。


 彼は若い頃から侠気を謡い、漢王朝復興のために隗囂に帰順した男である。また、来歙とも大いに親しみ、尊敬していた。


 来歙の為人は信義があって言行が違えることがなく、往来遊説した内容は全て納得できるものであった。そのため西州士大夫は皆、来歙を信じて尊重していたため、多くが来歙をとりなす発言を行った。


 そのおかげで来歙は危険から逃れて東に帰ることができた。まさしく彼の徳が彼を守ったのである。


 これにより、もはや劉秀と隗囂の関係は決裂は完全なものになった。



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