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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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公孫述

 各地を平定することに成功した劉秀りゅうしゅうの諸将が京師に帰還した。


 劉秀は宴を開いて彼らに賞賜を与えた。


 彼は長年軍中にいて苦労が続いているため、兵を休ませようとした。当時は隗囂かいごうが子を派遣して内侍させており、公孫述こうそんじゅつも遠い辺垂(辺境)を拠点にしているため、直接の危険がないというのもある。


 そこで劉秀は諸将に、


「暫くこの両子(隗囂と公孫述)を度外に置くべきである」


 と言い、諸将を洛陽で休ませて軍士を河内に分けた。


 また、しばしば隴(隗囂)と蜀(公孫述)に書を送って禍福を告示した。


 それに対し、公孫述はしばしば書を中原に送り、自分に符命があると述べて大衆を惑わそうとした。


 この時代珍しいプロパガンダという名の宣伝合戦が行われていたのである。


 光武帝が公孫述に書を与えて言った。


「図讖が言う公孫とは宣帝である」


 昭帝の時代に「公孫病已立つ」という符命があった。宣帝の名は病已というため彼の即位を預言したものであった。


「そもそも漢に代わる者の姓は当塗で、その名は高である。君が「当塗高」本人だというのか。また、君は掌文を瑞としているが、王莽がどうして倣おうというのか」


 公孫述は掌に「公孫帝」という文字を刻んで符瑞とした。王莽も自ら符命を作って帝位に上り、五威将帥を天下に派遣してその内容を公表したことを倣っているのではないかということである。


「君は私の賊臣乱子ではない。倉卒の時(切迫した時。非常の時)とは、人は皆、国君になろうとするものである。君は日月が既に年老いて、妻子も弱小であるため、早く計を定めるべきだ。天下の神器は力争できるものではない。よく考えた方がいい」


 光武帝は文書に「公孫皇帝」と署名した。


 公孫述はこれに応えなかった。


 この会話に出てきた「当塗高」について簡単に説明する。


 実は『春秋讖』という書物において漢に代わる者は当塗高だとされていた。この『春秋讖』は既に失われているため詳細がわからないが、前漢時代の間には既に書かれた預言書であり、武帝の頃にはあったと言われているが真偽は定かではない。


 公孫述の騎都尉・荊邯けいかんが公孫述に言った。


「漢の高祖は行陳(行陣。行軍)の中で身を起こし、兵が破れて身が困窮したこともしばしばありましたが、軍が敗れようとも復合し、傷が治っても再び戦ったものです。それはなぜでしょうか。死を冒して前に進むことで功を成した方が、退いて滅亡するよりも勝っているからです」


 劉邦があれほど粘れたのは蕭何という化物がいたためなのだが、その辺には触れずに気概の話である。彼はこう続けた。


「これに対して隗囂は、運会(好機)に遭遇して雍州を割有(占拠)し、兵が強く士が帰附し、威を山東に加えております。また、ちょうど更始の政乱に遇って再び更始帝が天下を失い、衆庶(民衆)が首を長くして新たな統治者を望み、四方が瓦解しました。しかし隗囂はその時に及んでも、危難を除いて勝ちに乗じることで天下を争おうとせず、退却して西伯(西周文王)の事を為し、章句(文章)を尊んで習い、処士を賓客や友人の礼で遇し、武を収めて戈(武器)を休めて、腰を低くして漢に仕えるようにし、感嘆して自分を文王の再世だと思っています。そのため、漢帝に関(関中)・隴の憂を解かせ、漢の東伐に専精して天下を四分したらその三を有すようになったのです。また、間使(密使)を発して攜貳(二心を抱く者)を招き西州豪傑を全て山東に居心させたのです。こうして天下を五分したらその四を有すようになったのです」


 ここで「間使」は来歙らいきゅう馬援ばえんらを指し、「攜貳」は劉秀に帰順した鄭興ていこうらを指す。


「もし漢が天水に対して兵を挙げ、兵が至れば必ずや隗囂が沮潰(潰滅)します。天水が平定されば、陛下(公孫述)は蜀から出ることができず、銅馬帝が天下の九分の八を有しれば、陛下は銅馬帝を奉じて彼のために兵を出すことになり、その結果、百姓が愁困して上の命に堪えられなくなってしまいます。やがて王氏が自潰した変(王莽が自滅した時のように内部から発生する変事)が起きるでしょう」


 つまり攻撃こそが最大の防御というものである。


「私の愚計によるならば、天下の望みが絶たれておらず、豪傑をまだ招誘できる時に乗じ、急いでこの機に国内の精兵を発して、田戎でんじゅうに命じて江陵を占拠させ、江南の会(長江と支流が合流する場所)に臨み、巫山の固(堅固な地形)に頼り、塁を築いて堅守なさるべきです。呉、楚に檄を伝えれば、長沙以南は必ずすぐに服従するでしょう。延岑えんしんに命じて漢中から出撃させ、三輔を定めれば、天水、隴西が拱手して自ら服すことになります。こうすれば海内が震搖し、大利を望むことができましょう」


 公孫述がこの意見について群臣に問うと、博士・呉柱ごけいがこう言った。


「武王が殷を征伐した時、八百諸侯が約束しなくとも言辞を同じくしたものです。しかしそれでも軍を還して天命を待ったものです。左右の助がないのにも関わらず、千里の外に出師を欲する者というのは聞いたことがありません」


 荊邯が反論した。


「今、銅馬帝には尺土の柄(権力)もなく、烏合の衆を駆けさせておりますが、馬に乗って敵陣を落とし、向かう所をことごとく平定しています。急いで時に乗じて彼と功を分けようとせず、坐して武王の説を語っていますが、これは隗囂が西伯になろうとしていたことをまた真似しております」


 公孫述はこの荊邯の言に納得した。そこで北軍の屯士や山東の客兵を全て動員した。公孫述は漢制に倣って北軍を置いていた。「山東の客兵」とは山東から蜀に移住して兵になった者のことである。


 彼らを率いさせて延岑と田戎に二道から分かれて出撃させ、漢中の諸将と決戦しようとした。


 しかし蜀の人々や公孫述の弟・公孫光こうそんこうらは、国を空にして千里の外に出撃し、一挙によって成敗を決する方法は採るべきではないと考えた。


 結局、公孫光らが強く反対したため、公孫述は出征を中止した。


 延岑や田戎も功を立てる機会を得るためにしばしば出兵の許可を求めたが、公孫述は最後まで躊躇して同意せず、公孫氏だけが事(大事。兵事)を任された。


 軍事で決断力を見せない公孫述は内政でも問題を起こしていた。


 彼は銅銭を廃して鉄銭を置いていた。しかしこの新貨幣は流通せず、百姓が苦にした。


 公孫述の政治は苛細(厳格で細かいこと)で、清水令だった時のように小事を追求した。また、郡県や官名の改易(変更)を好んだ。


 この二つは秦と王莽の失敗に倣ってしまっていると言えるだろう。


 公孫述は若い頃に漢の郎だったため、漢家の故事に習熟していた。そのため外出する時は法駕(皇帝の儀仗の一種)を用い、鸞旗を立てて旄騎が先導した。


 公孫述は二人の子を王に立ててそれぞれ犍為と広漢の数県を食邑とした。


 ある人が諫めた。


「成敗がまだわからず、戦士が野に曝されているにも関わらず、先に愛子を王に封じれば、大志がないことを示してしまいます」


 公孫述がこの諫言にも従わなかったため、群臣たちは皆怨みを抱くようになった。


 
















 

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