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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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江・淮・山東の平定

 王莽の末年、交趾諸郡は境界を閉ざして守りを固めていた。


 岑彭しんほうは以前から交趾牧・鄧譲とうじょうと厚い親交があったため、書を送って国家の威徳を述べた。


 また偏将軍・屈充くつじゅうを派遣して江南に檄文を送り、詔命を実行させた。


 その結果、鄧讓と江夏太守・侯登こうとう、武陵太守・王堂おうどう、長沙相・韓福かんふく、桂陽太守・張隆ちょうりょう、零陵太守・田翕でんおう、蒼梧太守・杜穆しゃぼく、交趾太守・錫光じょうこうらが相次いで使者を送って朝廷に貢献した。


 劉秀りゅうしゅうは彼ら全て列侯に封じた。


 交趾太守・錫光は漢中の人であったが、自ら進んで交趾に住み、自ら民夷(漢人や少数民族)に礼義を教えていった。


 また、劉秀はこの活動を聞き、宛の人・任延じんえんを九真太守に任命し、民に耕種(農耕)・嫁娶(婚姻)を教えた。


 嶺南における華風(中原の風習)はこの二守(錫光と延任)から始まることになる。


 この年、劉秀は詔を発して處士で太原の人・周党しゅうとうを京師に招いた。


 しかし周党は入見しても伏せるだけで謁しなかった。


 入朝して天子に謁見した時は必ず拝礼稽首し、自ら姓名を名乗るのだが、彼はそれをしなかったのである。


 周党は自分の志(隠居すること)を守ることを願い、それを劉秀に話した。


 博士・范升はんしょうが上奏した。


「伏して太原の周党、東海の王良おうりょう、山陽の王成おうせいらを見るに、厚恩を蒙り受け、使者が三聘してから(三回招いてから)やっと招きに応じました。しかし帝廷(朝廷)で陛見(謁見)しても、周党は礼に従って屈することなく、伏して謁せず、偃蹇(傲慢)・驕悍(驕慢横暴)であり、同時に王良、王成らと共に去りました。周党らは、文においては義を広めることができず、武においては君のために死ぬことができず、華名(美名)をつかみ、三公の位を得ることを望んでいるのです。私は彼らと共に雲台(雲台は周王室が建てたものから始まり、図書、術籍、珍玩、宝怪が所蔵される)の下に座り、図国の道(国を図る道)を考試(試験)することを願います。私の言のようでなければ(虚名を得て三公の高位を望んでいるのではないのなら)、私が虚妄の罪に伏します。しかしもし秘かに虚名を窺い、自分を誇大して高位を求めているのならば、皆、大不敬に当たります」


 上奏文が提出されると、劉秀は詔を発してこう言った。


「古から明王、聖主には必ず不賓の士(服従しない士)がいた。伯夷と叔斉は周の粟(食糧)を食べず、太原の周党は朕の禄を受けず、どちらにも志があったのだ。よって帛四十匹を下賜して還らせることにする」


 劉秀は上手く事を処理したと言っていい。ここで范升の考え通り、試すような真似をすればそれはそれで非難を浴び、試した上で虚でなかった場合、范升を処罰しなければならなくなる。周党の意思を尊重し、范升の言い分を元に周党らを遠ざけた。


 しかしながら王良だけは後に沛郡太守と大司徒司直を歴任することになる。官位に就いても恭敬倹約で、布被(布の布団)や瓦器(粗末な陶器)を使い、妻子も官舍に入れることがなかった。


 後に病のために帰郷したが、一年後に再び招かれた。しかし滎陽で病が篤くなり、道を進めなくなったことがあった。それで死が近いことを感じたのか王良は旧友を訪ねた。しかしながらその旧友は会おうとせずこう言った。


「忠言や奇謀があって大位を取ったのではないのに、なぜこのように慌ただしく往来して面倒だと思わないのか?」


 王良自身には大した功績もないにも関わらず、官位を得るために往来を繰り返していると風刺しているのである。


 友人に拒絶された王良は慚愧し、病が完治した後、何回も朝廷に召されたが全て応じず、家で余生を終えたという。


 元帝の時代、莎車王・延が侍子として京師に行き(恐らく王になる前の事)、中国(中原)を愛して敬慕した。


 王莽の乱が起きてから、匈奴は西域諸国を攻略するようになったが、延だけは附属しようとせず、常に諸子を戒めた。


「漢家を代々奉じ、裏切ってはならない」


 延が死ぬと子の康が立った。


 康は旁国(隣国)を率いて匈奴に対抗し、かつての西域都護の吏士や妻子千余口を保護した。


 やがて莎車王・康は檄書を河西の竇融とうゆうに送って中国の動静を訊ねていた。


 そこで竇融は劉秀に状況を伝え、承諾を得た上で承制(皇帝の代理としての命令)をもって莎車王・康を漢莎車建功懐徳王・西域大都尉に立てた。西域五十五国が全てこれに属した。


 30年


 揚武将軍・馬成ばせいらによってついに舒が陥落し、李憲りけんは斬られた。李憲が滅んだことによって江・淮は平定された。


 一方、二月、大司馬・呉漢ごかんの苛烈な攻撃は連日続き、ついに胊は陥落した。董憲とうけん龐萌ほうぼうは逃走したが、董憲の妻子は捕らえられた。連れてこられた妻子を見て呉漢はなんの躊躇もなく、殺害した。胊の城中にいた者たちも誰一人降伏を許さず、城壁の赤い染みと化した。


(こういう男だったのか……)


 王常おうじょうは冷や汗をかきながらそう思う。呉漢は口数は少ないながらも忠義心に厚い男であると思っていたが、龐萌の劉秀への裏切りに対してこれほど激怒するとは思っていなかった。


「妻子が死んでいることは伝えず、捕らえたとのみ周囲に伝えよ」


 呉漢はそう指示を出した。

 

 これを聞いた董憲は涙を流しながら部下に謝罪し、降伏することを望んだ。


「汝は元は銅馬帝の配下だった者だ。そのつながりをもって降伏を伝えてはくれないか」


 董憲は龐萌にそう願うと龐萌は躊躇しながらも同意した。


 しかしながら逃走した彼らを呉漢は兵を出して、探し回っていた。そしてその時、彼はこう指示した。


「見つけ次第、殺せ。挑んで来るのであれば八つ裂きにせよ。逃走するならば、腰斬し生きたまま馬で引きずり回せ。降伏するならば、舌を抜き、目を抜き、首をかっ切れ。特に龐萌はそうせよ」


 凄まじい憎悪と残酷な指示である。


 その指示に眉一つ動かすことなく実行に移すのが呉漢の兵である。その一人である校尉・韓湛かんじんは二人を見つけ、二人が行動に移す前に殺した。ある意味、彼なりの慈悲であったかもしれない。


 これによって山東は全て平定された。







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