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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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帰順

 この頃、後漢王朝は初めて太学を立てた。


 太学とは士人のための学校のことである。洛陽城の旧開陽門外にあり、皇宮から八里離れていた。講堂の長さは十丈、広さは三丈という大きさであったという。


 劉秀りゅうしゅうは東方から洛陽に還り、太学を訪ねた。


 古典に法り、礼楽を修めて明らかにし、文物が光彩を放って見るべきものがあった。


 劉秀は博士弟子にそれぞれ差をつけて賞賜を与えていった。


 彼が東方へ遠征している間、高廟で挙行する蒸祭をめぐって、司隷侯と河南尹が廟内で口論したことがあった。しかしながら大司徒・伏湛ふくじんは劉秀が帰還した後もこれを報告しなかった。それをもって劉秀は十一月、大司徒・伏湛を免官にし、尚書令・侯霸こうはを大司徒にした。


 劉秀は文官に対しては相当に厳しくちょっとした失敗であっても責めることがある。


 君主としての度量は劉邦に似ており、戦における強さは項羽に似ている。しかしながら内政の細かさは始皇帝に似ているのが劉秀という人である。


 大使徒になった侯霸は太原の人・閔仲叔びんちゅうしゅくの名声を聞いて洛陽に招いた。


 しかしながら閔仲叔が来ても侯霸は政事に言及せず、いたずらに辛苦を労うだけであった。閔仲叔はこれを恨み、


「嘉命を蒙ったばかりの時は喜びかつ懼れましたが、あなた様に会うとその喜懼が共に去ってしまいました。私は問うに足らないと思っているのでしょうか。それならば招くべきではないはずです。招いたにも関わらず問わないのは、人才を失うことです」


 と、そのまま別れを告げて退出し、自分を弾劾する文書を提出して去っていった。


 この辺の部分もあってか侯覇は後漢王朝の儀礼の基礎を築いた人でありながらあまり劉秀からは評価されなかった部分がある。


 かつて五原の人・李興りこう隨昱ずいいく、朔方の人・田颯でんふう、代郡の人・石鮪せきい閔堪びんせんがそれぞれ挙兵して将軍を自称した。


 匈奴単于(呼都而尸道皋単于)が使者を送って李興等と和親し、盧芳ろほうを漢の地に還らせて帝に立てようと欲した。


 李興らは兵を率いて単于庭に至り、盧芳を迎えた。


 十二月、盧芳や李興らが共に入塞した。


 盧芳は天子を自称して九原県(五原郡の県です)を都に定め、五原、朔方、雲中、定襄、雁門の五郡を奪い、守(郡守)・令(県令)を置いた。


 この後、盧芳等は胡兵と共に北辺を侵して苦しめた。


 馮異ふういが関中を治めて約三年が経った。上林に人が集まり、都(都市)のように繁栄していた。


 そんな時、ある人が劉秀に奏章(上奏文)を献上して言った。


「馮異は威権が至重であり、百姓は彼に帰心しているため、咸陽王を号しています」


 劉秀は鼻で笑い、この奏章を馮異に示した。


 馮異は驚き、驚いて上書し、謝罪の辞を述べた。


 からかい混じりに送ったにも関わらず、思ったよりも重く受け取られたようだと思い、劉秀は詔を発してこう応えた。


「将軍は国家に対して、義においては君臣となり、恩においては父子のようである。何を嫌い何を疑って懼意(恐れ)を抱く必要があろうか」












 隗囂かいごうは自分の能力を誇って智謀を飾り、いつも自分を周の文王と比べていた。そこで、諸将と議して王を称そうとした。


 それに対し、鄭興ていこうが言った。


「昔、文王は天下を三分してその二を有しましたが、まだ殷(商王朝)に服事しました。武王は八百諸侯が謀らなくとも同会(集合)したにも関わらず、なお兵を還して時を待ったものです。高帝は征伐が累年(連年)に及んだもののが、なお沛公として行師(用兵)しました。今、あなた様の令徳(美徳)は明らかですが、世に宗周の祚(天が周王朝に与えた福)がございません。威略が振るっているものの、まだ高祖の功がありません。それにも関わらず、未可の事(するべきではない事。できない事)を挙げようと欲すれば、明らかに禍患を速めることになります。そのようにしてはならないのではありませんか」


 この言葉を受けて隗囂はあきらめた。


 後に隗囂は広く職位を置いて(大量の官員を任命して)自分の地位を尊高(尊貴・高貴)にした。


 またもや鄭興が言った。


「中郎将、太中大夫、使持節官(皇帝の符節を持つ官員)は皆、王者の器(王者の権利)であり、人臣が制定するものではございません。実に対して益がなく、名において損なうことがありますのは、尊上の意(天子を尊ぶ本意)ではありません」


 隗囂はこれ(実益がなく名を損なうこと)を嫌って中止した。


 当時、関中の将帥が劉秀にしばしば上書し、蜀を撃てる状況にあることを報告した。


 劉秀はこれらの書を隗囂に示し、蜀を撃たせて信義を証明させようとした。


 しかしながら隗囂は上書して、


「三輔は単弱(孤立して弱小)であり、劉文伯(盧芳が劉文伯を自称している名)が辺境にいますので、まだ蜀を謀るのは相応しくないと考えます」


 と盛んに述べた。


(どっちつかずの蝙蝠か)


 劉秀は隗囂がこちらと蜀の双方と関係を保とうとしており、天下統一を願っていないと判断した。そこで今まで隗囂に送る書等で対等な国に対する礼を用いてきたが、今後は君主が臣下に対する礼を用いることにした。


 隗囂が馬援ばえん来歙らいきゅうと仲が善かったため、劉秀は頻繁に来歙と馬援を使者として往来させ、隗囂に入朝を勧めた。入朝すれば、重爵を与えることを約束していた。


 隗囂も立て続けに使者を送ったが、深く謙譲の辞を使って、


「功徳が無いため、四方が平定するのを待って閭里に退伏します(故郷で隠居します)」


 と伝え、入朝を辞退した。


「美言と言えども信義は見えず……ですか……」


 劉秀は来歙にそう言った。


「全くですな。ここは強引な方法も考えなければなりませんなあ」


 来歙は自ら隗囂の元に出向き、自分の子を入侍させるように説得した。


「陛下はあなたとの好を結びたいと思っているのは本当である」


 隗囂は劉永も彭寵も破れて滅亡したと聞いていたため、長子・隗恂を来歙に従わせて宮闕に送ることにした。


 劉秀は隗恂を胡騎校尉に任命し、鐫羌侯に封じた。


 隗恂が洛陽に行くことになった時、鄭興も隗恂について東に向かい、故郷に帰って父母の葬儀を行うことを請うた。


 隗囂は鄭興の帰郷に同意せず、その舍(住居)を遷して秩礼(秩禄と礼遇)を増やした。


 しかし鄭興は隗囂に会いに行ってこう言った。


「今、父母がまだ埋葬されていないため、引退を乞いました。もしも秩を増やし、舍を移されたために途中で考えを変えて留まれば、親を利用して厚遇を求めたことになります。これは無礼の甚だしいものであり、将軍はどうしてこのような者を用いるのでしょうか。妻子を留め、一人で帰って埋葬することを願います。将軍はまた何を猜疑なさっておられるのですか」


 隗囂は仕方なく鄭興と妻子を共に東に向かわせることにした。それによって鄭興は劉秀に帰順した。


 馬援ばえんも同じように家属を連れて隗恂に従い、洛陽に帰順した。馬援に従う賓客が非常に多かったため、上林苑内での屯田の許可を求めた。


 劉秀はこれに同意した。


 一方、隗囂の将・王元おうげんは天下の成敗がまだわからないと考えており、劉秀に専心することを願わず、隗囂に言った。


「昔、更始が西に都を建てると、四方が響応して天下が喁喁(元は魚が上を向いて口を開く様子ですが、人々が恭順するという意味で使われる)とし、これを太平と言ったものです。しかし一旦に壊敗すると、将軍(隗囂)は危うく身を置く場所もなくなりました。今、南には子陽(公孫述こうそんじゅつ)がおり、北には文伯(盧芳)がおり、江湖・海岱(渤海から泰山に至る一帯。または山海各地)の王公は十数人もいます。それにも関わらず、儒生(鄭興や班彪はんひょうら)の説を採用して千乗の基(諸侯、大国の基礎)を棄て、危国(危険な国)に羈旅(寄居。頼ること)して万全を求めますのは、転覆した車の軌跡をたどるのと同じです。今の天水は完富(富裕)で士馬も最強ですので、私は一丸泥(少数の兵力)をもって大王のために東の函谷関を封じることを請います。これは万世における一時の好機なのです。もしも函谷関に兵を出す計を用いないのならば、暫く士馬を畜養(養うこと)し、険阻な地形に拠って自らを守り、長期持久して四方の変を待つべきです。そうすれば、王位を図って成功せず敗れたとしても、なお覇を称えるには足ります。重要なのは、魚は淵から脱してはならず、神龍が勢を失ったら蚯蚓みみずと同じであるということです」


 隗囂は心中で王元の計に納得したため、既に自分の子を人質にして東漢に送っていたが、険阨な地形にたよって一方(一国)で専制することを欲した。


 この動きに対し、申屠剛しんとごうが隗囂を諫めた。彼は前漢の丞相の一人である申屠嘉の子孫である。


「私が聞いたところでは、人が帰す者に天が福を与え、人が叛す者は天に棄てられると申します。本朝(劉秀)は誠に天が福したところであり、人力によるものではありません。今、璽書(詔書)がしばしば到り、国を委ねて特に信頼し、将軍と吉凶を共にしようと欲しています。布衣(庶民)の交わりでも没身(終生)に渡って然諾(許諾)したことを裏切らないという信義がありますので、万乗の者ならなおさらです。漢に従うことに対して何を畏れ、蜀に従うことに対して何の利があると考えて、このように躊躇しているのでしょうか。突然、非常の変があれば、上は忠孝に背き、下は当世に慚愧することになります。まだ実現していない豫言(予言)は元々実態がないものです。しかしながら事が既に至れば、全てが間に合わなくなります。よって忠言至諫を行い、それが用いられることを望みます。誠にこの愚老の言を反覆(熟考)することを願う限りでございます」


 しかし隗囂は申屠剛の諫言を聴き入れなかった。


 周囲の諫言を聞き入れず、自分の野心を表に出す彼に対し、游士や長者たちは隗囂から離れていくようになった。


 


 

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