耿弇
劉秀が劉紆の首を得た頃、耿弇は張歩討伐のため進軍していた。
張歩は耿弇の進軍に対し、大将軍・費邑を歴下に駐軍させ、別の兵を祝阿に駐屯させた。更に泰山、鍾城(または「鐘城」)にも数十の営塁を連ねて対抗した。
「これで守りは完璧よ」
ほくそ笑む張歩であった。耿弇は河を渡ってから先に祝阿を撃った。朝から城を攻め続け、正午になる前に攻略してみせた。彼はこの時、わざと包囲の一角を開き、城内の衆兵が鍾城に逃走できるようにした。
鍾城の人々は祝阿が既に潰滅したと聞いて大いに恐怖し、城を空にして逃亡してしまった。
「なんだともう二つの城が落ちたのか」
この報告を聞き、費邑は弟の費敢に兵を分けて巨里を守らせることにした。
耿弇は兵を進めてまず巨里を脅かした。
「皆、攻城平気の準備を急げ、三日であそこを落として見せるぞ」
軍中に速やかに攻城の道具を準備するように厳命し、諸部(全軍)に対して三日後に総力を挙げて巨里城を攻撃すると宣敕(宣告。命令を告げること)した。
それと同時に秘かに捕虜(生口)の警備を緩めて逃亡できるようにした。警備が緩くなっていることから逃走した捕虜は費邑の陣に逃げ帰り、耿弇が宣言した攻城の期日を報告した。
「ふふ、捕虜の逃亡を許すとはバカめ」
当日、費邑は自ら精兵三万余人を率いて巨里の救援に向かった。
耿弇は喜んで諸将に言った。
「私が攻城の道具を準備したのは誘致したかったため。城外に兵が出て来たのだからこれを撃つべきである」
耿弇は三千人を分けて巨里を包囲させると、自らは精兵を率いて岡の阪を上り、高地を利用して戦を仕掛けた。
「なんだと」
予想外の一撃を受け、費邑軍は大破した。陳俊によって費邑は斬られた。
その後、費邑の首を巨里の城中に見せた。城中は兇懼(恐懼)し、費敢は全ての衆を率いて張歩の下に逃げ帰った。
耿弇は費敢が蓄えた物資を奪い、兵を放ってまだ投降していない者を攻撃させた。
耿弇の兵が四十余営を降し、済南は平定された。
張歩は劇を都としており、この敗戦を受けて弟の張藍に精兵二万を率いて西安を守らせ、諸郡の太守に一万余人を集めて臨菑を守らせた。双方は四十里離れている。
耿弇は進軍して二城の間にある画中に至った。
耿弇は二城の状況を見て、西安は城が小さいものの守りが堅く、張藍の兵も精鋭であり、逆に臨菑は名声が大きくても実は攻め易いと判断した。そこで諸校に命を下して五日後に合流して西安を攻めると宣言した。
これを聞いた張藍は朝から夜まで警守した。
当日の夜半、耿弇は諸将に命じて皆に蓐食(寝床から起きる前に食事をすること。通常より早く朝食をとるという意味)させると空が明るくなる前に臨菑城へ出撃することにした。
護軍・荀梁らが反対した。
「臨菑を攻めれば、西安が必ずこれを救いますが、西安を攻めても臨菑は救えません。西安を攻めるべきです」
耿弇は彼らが自分の作戦を理解していないと思い説明した。
「それは違う。西安は私が攻めようとしていると聞いて日夜備えを為している。そのため自分のことを憂いているだけであり、西安に人を救う余裕はない。臨菑は我々が不意を突いて至れば、必ずや驚擾するだろう。私はこれを攻めて一日で必ず抜いてみせる。臨菑を抜けば西安が孤立し、劇と隔絶することになるため、必ずやまた亡去(逃亡)することになる。これは『一を撃って二を得る』というものだ。もし先に西安を攻めれば、すぐに下すことができず、堅城に兵を留めて死傷が必ず多くなる。もし抜くことができたとしても、張藍は軍を率いて臨菑に奔って還り、大城の臨菑で守りを固めて様子を窺うことだろう。我々は敵地に深入りしており、後ろには転輸(物資の輸送)がないため、旬月の間(一月以内)に戦うことなく困窮することになる」
こうして耿弇は明るくなる前に臨菑へ近づき、空が明るくなったと同時に攻撃を開始し、半日で落として入城してみせた。
臨菑陥落を知った張藍は懼れを抱き、衆を率いて劇に逃げ帰った。
耿弇は軍中に命じて虜掠(略奪)をさせず、張歩が来てから物資を奪って張歩の怒りを誘おうとした。
それを聞いた張歩は大笑した。
「尤来と大彤の十余万の衆をもってしても、私は全てその営に臨んで尤来や大彤を破ってみせた。今、大耿(耿弇のこと耿況の長子だったため「大耿」と呼ぶ)の兵は彼ら(尤来や大彤)より少なく、しかも皆疲労しているのだ。何を懼れるに足りようか」
張歩は三人の弟である張藍、張弘、張寿および元大彤の渠帥・重異らの兵と共に二十万と号して臨菑大城の東に至り、耿弇を攻撃する準備を整えさせた。
張歩の大軍が臨菑大城の東に至ると、耿弇が劉秀に上書した。
「私は臨菑を占拠し、塹(堀)を深くして塁を高くしました。張歩は劇から攻めて来ましたので、疲労飢渴しています。彼が進むことを欲すれば、誘ってこれを攻めます。去ることを欲すれば、後を追ってこれを撃ちます。私は営に依って戦い、精鋭(精気・鋭気)を百倍にし、安逸によって疲労した敵を待ち、実によって虚を撃ちますので、旬日の間(十日間)で張歩の首を獲ることができましょう」
凄まじい自信である。
耿弇はまず菑水の辺に出た。そこで重異が率いる軍に遭遇した。
「さあ、打ち破りましょうぞ」
劉歆が突騎を率いて出陣しようとすると耿弇は止めた。
「我が軍の精兵であればあのような軍を打ち破るのは容易だ。しかし、相手を怖がらせると城に篭ってしまい、攻略に時間がかかる。獣を狩るのに、そこまで時間をかけることもあるまい」
彼は張歩がこちらを恐れて進軍を続けないことを恐れて、わざと弱い姿を見せて敵の士気を盛んにさせることにした。兵を率いて小城に帰り、城内で兵を整え、劉歆と陳俊の軍を分け、城下で布陣させた。
「敵は弱腰だぞぉ」
張歩は士気を盛り上げ、直接、耿弇の営を攻めて劉歆らと合戦した。
耿弇は王宮の破壊された高台に登って城下を眺め、劉歆らの鋒交(交戦)を見て、自ら精兵を率いて出撃した。東城の下で張歩の陣を横から衝き、張歩軍を大破してみせた。
その時、飛矢が耿弇の股に命中したが、彼は素早く佩刀で矢を切断したため、左右で知る者はいなかった。
「極寒の地で生きた我が軍の騎兵の威力はどうだ」
耿弇は笑いながらそう言うと日が暮れたため、兵を収めた。
「さあ昨日に引き続き勝つぞ」
翌朝、耿弇は再び兵を率いて出撃した。
この時、劉秀は魯にいた。耿弇が張歩に攻撃されたと聞くと自ら救いに行くことにした。
劉秀が来ることを知った陳俊は耿弇に言った。
「張歩の兵は未だ盛んだ。暫く営を閉じて士を休め、陛下が来るのを待たれればどうか?」
耿弇は首を振った。
「乗輿(皇帝の車)がもうすぐ到着するのです。臣下は牛を殺し、酒を準備して、百官を待つべきにも関わらず、逆に賊虜を君父にお見せしようというのですか」
耿弇はそのまま兵を率いて張歩と大戦した。
戦いは朝から黄昏に及び、耿弇軍はまたもや大勝した。殺傷した者は数え切れず、溝塹は全て死体で埋まったという。
「そろそろ賊は逃げるぞ」
耿弇は張歩が困窮して間もなく撤退すると判断すると、あらかじめ左右両翼に伏兵を置いて待機させた。
深夜、張歩は撤退を始めた。そこに伏兵が現れて激しく攻撃し、鉅昩水(巨洋水、巨蔑水ともいう)の辺まで追撃を受けた。そのため彼の兵の死体は前後八九十里に連なった。
耿弇は輜重二千余輌を回収した。
張歩は劇に還り、兄弟はそれぞれ兵を率いて分散した。
数日後、車駕(皇帝の車)が臨菑に至り、劉秀自ら軍を労い、群臣は大会(大集会、または大宴会)を開いた。
劉秀は耿弇を招き群臣の前でこう称えた。
「昔、韓信が歴下を破って基礎を開き、今、将軍が祝阿を攻めて発迹(興起。功名を立てること)した。これは皆、斉の西界であり、二人の功は同等というべきである。しかしながら韓信は既に降った者(斉王・田広)を襲撃したが、将軍は単独で勍敵(強敵)を抜いた。その功は韓信よりも難しいものである」
韓信は性格はどうあれ、劉邦旗下において最高の将軍であった。その彼よりも上であると称えたのである。
「また、田横は酈生を亨したが(煮殺したが)、田横が降ると高帝は衛尉(酈商)に詔して仇とはさせなかったものだ。張歩も以前、伏隆を殺したが、もしも張歩が投降するというのであれば、私は大司徒(伏湛)に詔してその怨を赦させよう。そうすれば事がまた韓信の時と同じようになる」
最後に劉秀はこう締めくくった。
「将軍は以前、南陽にいる時にこの大策を建てた。常に落落難合(計画が粗略、または大きすぎて実現が困難なこと)だと思っていたものだが、志がある者は、最後には事を成就するのだと改めて知った」
劉秀は目を細めながら耿弇を見る。
若い頃から常に彼は志を持ち、自分に歩むべき道を示し続けた。若さ故の無鉄砲さを自分の才覚と明るさを元にここまでの実力を示すに至った。なんと誇らしい臣下であろうか。劉秀はそう思った。
劉秀は劇に進み、耿弇は再び張歩を追撃した。張歩は劇を棄てて平寿に奔った。そこに蘇茂が一万余人を率いて救援に来た。
敗北を知った蘇茂は張歩を責めた。
「南陽の兵は精鋭であり、延岑は戦を善くしたが、耿弇に敗れた。あなたはなぜすぐにその営を攻めたのですか。私を呼んでいたにも関わらず、待てなかったのですか」
張歩は悔しそうに言った。
「非常に慚愧している。なんら反論の言葉もない」
しかしながら彼の拳は強く握られていた。
「申し訳ございません。逃げられてしまい、合流を許してしまいました」
「いや、これで二人を得ることができる」
謝罪する耿弇を責めずに劉秀は張歩と蘇茂に使者を送り、どちらかを斬って降った者は列侯に封じると告げた。
「すっかり僕も純粋じゃ無くなったなあ」
そう思いながら結果を待った。
張歩と蘇茂は劉秀からの使者からの提案を受けた後に張歩は素早く行動に移して、蘇茂を斬った。
「愚かな」
(馬武よ、もう一度、お前と一騎打ちしたかったなあ)
蘇茂はそう呟きながら死んだ。歴史上において敗北することの多かった彼であったが、もし劉秀から離反することがなければもしかすれば、劉秀旗下の名将と讃えられ、馬武と双璧の猛将とされたかもしれない。
蘇茂の首をもって、張歩は耿弇の軍門を訪ね、肉袒して投降を申し入れた。
耿弇は伝車で劉秀の元に送り、自らは兵を率いて平寿城を占拠した。
十二郡の旗鼓を立て、張歩の兵をそれぞれ故郷の郡旗の下に向かわせた。張歩の衆はまだ十余万人おり、輜重も七千余輌あった。耿弇ははこれらを全て解散して郷里に送り帰した。
張歩の三人の弟もそれぞれ所在する地の獄に行き、自ら繋がれた。
劉秀は詔を発して全て赦し、張歩を安丘侯に封じ、妻子と共に洛陽に住ませた。
当時、琅邪がまだ平定されていなかったため劉秀は泰山太守であった陳俊を琅邪太守に遷した。
陳俊が入境するとすぐに盗賊が全て解散したという。
因みに張歩は洛陽から妻子を連れて海洋に出ようとしたため、陳俊によって斬られることになる。
耿弇はその後も兵を率いて城陽に入り、五校の余党を降し、斉の地をことごとく平定していった。その後、耿弇は兵を整えて京師に凱旋した。
耿弇は将として四十六郡を平定し、三百城を屠し(皆殺しにし)、挫折したことがなかったと讃えられた。




