劉紆
建義大将軍・朱祐は黎丘を急攻した。
六月、窮困した秦豊は妻子を連れて城を出ると肉袒して降った。朱祐はこれを受け入れ、彼を轞車に入れて洛陽に送った。
それに対し、呉漢が朱祐を弾劾した。詔命を廃して秦豊の投降を受け入れたという内容である。
実は前年、劉秀が自ら黎丘に至った時、御史中丞・李由に璽書(詔書)を持って秦豊を招かせたことがあったが、秦豊は悪言を吐いて投降を拒否したことがあった。その後、劉秀は朱祐に対して方略を与えたと『後漢書』において書かれているが、これは恐らく秦豊の投降を許してはならないということを命じたのだと思われる。
そのため劉秀の命令を無視した行為であるとして呉漢は弾劾したのである。
しかしながら劉秀は秦豊を誅殺したが、朱祐の罪は罰しなかった。いや罰しなかったというよりはそれよりも優先するべきことがあったということの方が強かったかもしれない。
董憲が劉紆、蘇茂、佼彊と共に下邳を去って蘭陵に還った。
その後、蘇茂と佼彊には龐萌を援けて桃城を包囲させたのである。
劉秀はその時、蒙を行幸していた。そこで龐萌、蘇茂等の動きを聞いた。
(諸将を動かす前に自分で動く方が早いか)
彼はそう考えると蒙に輜重を留め、自から軽兵を率いて昼夜兼行した。
亢父に至った時、ある人が、
「百官が疲倦しております。暫く宿をとって休むべきです」
と言ったが、劉秀は進言を聞かずにまた十里を進み、任城で宿泊して兵を整えた。桃城から六十里離れている地である。
強引に亢父を進んだのはこの地が険しく休むにしても守るにしてもやりづらい土地であったため、通過したのである。
翌日、諸将が進軍を請い、龐萌らも強引に進んだことから自ら戦いに来るだろうと考え、兵を率いて戦いを挑んだ。
しかし劉秀は諸将に令を下して出陣させず、士を休めて鋭気を養い、敵の鋒(鋭鋒。鋭気)を挫くことにした。劉秀は守りの戦は相当に上手い。
その間、劉秀は東郡にいる呉漢らに使者を送り、こっちに来るように命じた。
一方の龐萌らは劉秀が全くこちらと戦おうとしないため、驚いてこう言った。
「数百里にわたって晨夜(朝から夜まで)行軍したために、到着すれば、すぐに戦うものだと思っていたが、逆に任城の守りを堅めて鎮座し、人を城下に招いた。我々は進むべきではない」
それよりもこのまま桃城を攻める方が良いと考え、任城への攻撃を避けて全軍で桃城を攻めた。
しかし城中では車駕(皇帝の車)が至ったと聞いたため、衆心がますます固くなっていた。劉秀の狙いはそれであり、自分を攻めている間に一休みできたのも大きかった。
龐萌らは二十余日に渡って桃城を攻め、衆兵が疲労困憊したが、攻略することができなかった。
劉秀一人が動くだけでこれほど戦の状況は一変させることができたのである。
そこに呉漢、王常、蓋延、王梁、馬武、王霸らがそろって到着した。
「陛下、早く龐萌を殺しましょうぞ」
蓋延は鼻息を荒くしてそう述べると呉漢は目を尖らせ怒鳴った。
「汝は黙っておれ」
呉漢は劉秀を見る。
「皇帝陛下にわざわざ御足労頂き、誠に感謝申し上げると共に、我々の無能さに唯々反省申し上げる所存でございます」
呉漢が頭を下げるのに対し、劉秀は特に気にしない旨を伝えた。
「とりあえず、賊は桃城の攻略に苦戦して、疲弊している。この隙に賊を打ち破り桃城を救援する」
劉秀は彼らを率いて桃城救援のために任城から兵を進め、自ら搏戦(搏闘。戦闘)した。
「兵の疲弊があまりにも大きすぎる」
龐萌、蘇茂、佼彊は劉秀軍との戦いにおいて、兵の疲弊により、大破された。そのため三人は夜の間に逃走して董憲の元に逃れた。
「逃がすな」
劉秀は董憲討伐のため、更に湖陵に進んだ。
董憲と劉紆は数万人の兵を総動員して昌慮に駐屯した。
同時に董憲は五校の余賊を招いて誘った。五校は董憲を援けて建陽を守り、劉秀軍に備えた。
劉秀は蕃に至った。
諸将が進軍を請いましたが、劉秀は同意しなかった。
劉秀は五校の食糧が欠乏していると考え、暫くすれば退くと思ったのである。そのため劉秀はそれぞれに営壁を堅めて敵の疲弊を待つように命じた。
やがて、劉秀が予期した通り、五校は撤兵した。
(食料援助すらできないようだな)
劉秀は自ら戦陣に臨んで四面から昌慮の董憲に攻めかかり、三日後に大勝した。佼彊がその衆を率いて投降した。
蘇茂は張歩を頼って奔り、劉紆、董憲と龐萌は逃走して郯を守った。
劉秀は呉漢を留めて郯城の劉紆、董憲らを攻撃させ、自らは彭城と下邳を攻略した。
呉漢は苛烈に攻め続け、郯を陥落させた。
「ふむ、龐萌はいないな」
赤く染まった郯城を捜索しながら呉漢はそう呟いた。
董憲と龐萌は逃走して胊を守ることにした。
逃走する途中で劉紆は軍士の高扈に斬られた。高扈は劉秀に降伏した。
呉漢は兵を進めて胊で董憲、龐萌を包囲した。




