探り合いの始まり
蓋延の元に呉漢が合流した。
「この戦いは私の戦いだ。私に任せてもらおう」
「それは構わんよ」
大司馬である呉漢に対してそのようなことを言う蓋延の指揮の元、劉永らが篭る睢陽を包囲して百日が経った。
「中々落ないものだな」
「ふん、全く無駄なことよ。連中の食料ももはや無いだろう。降伏するしかない」
もうすぐ降伏すると述べた彼であったが、劉永、蘇茂、周建は降伏せずに包囲を突破して脱出し、酇に走ろうとした。
「むう、突破されようとも途中で斬れば良いのだあ」
蓋延は急速に追撃を行った。
「絶対に逃げ切ってやる」
劉永はなおも逃走を図ったが、
「陳勝の末路を知っておられますか?」
「何?」
劉永がその言葉を聞いて振り切った瞬間、彼の将の一人である慶吾が劉永の首を斬った。そして彼はそのまま降伏した。
「ふん、手こずらせおって」
「まだ終わってないぞ」
呉漢は劉永の首を得て、喜ぶ蓋延に対して釘を刺す。
だが、呉漢の言葉も意味なく、蘇茂と周建は逃走に成功し、垂恵に奔り、そこで共に劉永の子・劉紆を梁王に立てた。
佼彊は西防に奔って守りを固めた。
「劉永の残党は未だに抵抗を続けるものの、あのような連中など無意味でございます」
劉秀の元に蓋延は勝報を届けた。
劉秀は相変わらずな彼に少し呆れつつも劉永を殺した慶吾を列侯に封じた。
「政治というものはろくなやつではない者も評価せねばならないものだねぇ」
彼は朱祜に言った。
すると耿弇がやってきた。
「やあ、どうしたんだい?」
劉秀が問いかけると耿弇は自信を持って劉秀に進言した。
「私自ら北に向かい、まだ動員されていない上谷の兵を集め、漁陽で彭寵を定め、涿郡で張豊を取り、還って富平・獲索の勢力を収めて、東の張歩を攻めて斉を平定したくございます」
「いやあ雄壮な計画だねぇ」
劉秀は大いに彼の計画に評価して同意した。
その後、劉秀は太中大夫・来歙を招いて言った。
「今、西州(隗囂)がまだ附かず、子陽(公孫述の字)が帝を称し、道里は阻遠(険しくて遠いこと)であり、諸将は関東の事に務めている。西州に対する方針を考えたいと思っていますが、どうなっているのかが分かりません。あなたの見解をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
来歙は自分にはもっと臣下として扱ってもらいたいと思いながら言った。
「私はかつて隗囂と長安で共に過ごしたことがあります。彼が始めて起った時は、漢朝復興を名分として掲げておりました。私は天子の使者になって、丹青の信(明確な約束)によって道を開くことを願います。隗囂は必ずや手を縛って自ら帰順することになりましょう。そうなれば公孫述は自滅する形勢になりますので、図るに足りません」
劉秀は納得して来歙を隗囂に送る使者にした。
来歙から劉秀の言葉を伝えられると隗囂は腹心を集めて議論した。
(即答しないのか……)
来歙は目を細めながらその議論の場から退去させられた。
隗囂は漢に対して功績があり、また鄧禹の爵署を受けていたため、議論した腹心の多くが使者を送って京師(洛陽)と通じるように勧めた。
隗囂は上奏文を奉じて洛陽の宮闕を訪ねた。
劉秀は殊礼(特別な礼)をもって隗囂を遇し、話をする時は実名ではなく字を呼び(実名を避けるのは礼儀の一つ)、対等の国に用いる儀礼を使い、慰藉(慰労)を甚だ厚くした。
その様子を来歙は冷ややかに見る。
(いずれ隗囂はこちらを裏切る可能性の方が高い、しかしながら外交戦略が行いづらい相手だ……)
やがて劉秀の敵となるだろう隗囂とどのように相対していくべきかと考えながら来歙は自室に戻った。
今後、劉秀と隗囂の間で互いの腹の底の探り合いが始まることになる。
年が明け、28年
延岑が再び順陽一帯を侵した。そのため劉秀は鄧禹を派遣することにした。赤眉との戦いであれほどの失敗をしたにも関わらず、機会を与えた劉秀に鄧禹は感動して、復漢将軍・鄧曄と輔漢将軍・于匡を率いて、鄧で延岑を撃破した。
「まだまだよ」
鄧禹は追撃して武当に至り、また破った。延岑は漢中に奔り、余党は全て鄧禹に下った。
延岑はこのままでは劉秀に勝てないどころか孤立してしまうと考え、公孫述に下ることにした。公孫述は彼を快く迎え入れ、彼を大司馬に任命し、汝寧王に封じた
一方、延岑と同じく秦豊から彼の娘との婚姻を結んでいる田戎は秦豊が破れたと聞いて恐懼し、劉秀への投降を欲し始めた。
すると妻の兄・辛臣が彭寵、張歩、董憲、公孫述らが得た郡国を図示して田戎に言った。
「洛陽の地は掌に過ぎません(狭いという意味)。暫く兵を止めて(按甲)変化を観るべきです」
田戎が言った。
「秦王(秦豊)の強をもってしてもまだ征南(征南大将軍・岑彭)に包囲されている。のだわしの投降は既に決定したことである」
田戎は辛臣を留めて夷陵を守らせると、自ら兵を率いて長江に沿って下り、沔口から沔水を遡って黎丘に至った。黎丘では東漢の岑彭が秦豊を包囲している。
ところが田戎が出ていくと辛臣が田戎の珍宝を盗み、間道を通って先に岑彭に投降してしまった。
しかも辛臣は田戎を招く書を送ってこう告げた。
「速く降るべきである。前計(以前に定めた方針)にこだわる必要はない」
田戎は辛臣が自分を売ったと疑い、亀の甲羅を焼いて投降するべきかを卜った。その結果、甲羅の真ん中で割れた。凶兆を意味するものであった。
そのため田戎は再び反して秦豊と連合した。
しかし岑彭がこれに対応して攻撃して破ったため、田戎は夷陵に逃げ還った。
劉秀は呉漢に陳俊及び前将軍・王梁を率いて五校賊の討伐を命じ、呉漢は臨平で撃破し、追撃して東郡箕山に至り、これを大破した。
この時、鬲県の五姓(鬲県の「強宗豪右(強郷。豪族)」で、五氏いた)が共に守長を駆逐し、城を占拠して反乱を起こした。
諸将が争って攻撃しようとしたが、呉漢がこう言った。
「鬲を背反させたのは守長の罪である。敢えて軽率に兵を進める者は斬る」
呉漢は郡(鬲県は平原郡に属す)に檄文を送って守長を捕えさせ、人を送って五姓に謝った。
城中の五姓は大喜びして次々に投降していった。
諸将が感服して言った。
「戦わずに城を降すのは、衆(常人)が及ぶことではございません」
王梁が呉漢に言った。
「前は随分と苛烈な戦をしていたが、あなたも変わったものだ」
かつて城内の人々をなで斬りにして血祭りにした男の戦とは思えなかった。
「必要ではない以上はやる必要はあるまい」
呉漢はそれだけ言った。




