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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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諸将の奮闘

台風の中を歩いてはやっぱいけないと感じた今日このごろ

 延岑えんしんは赤眉を破ってから自ら牧守を任命して関中を占拠しようと欲した。


 当時、関中の衆寇(諸勢力)はまだ旺盛であり、延岑が藍田を占拠し、王歆おうきんが下邽を占拠し、芳丹ぼうたんが新豊を占拠し、蒋震しょうしんが霸陵を占拠し、張邯ちょうかんが長安を占拠し、公孫守こうそんしゅが長陵を占拠し、楊周ようしゅうが谷口を占拠し、呂鮪りょいが陳倉を占拠し、角閎かくこうが汧を占拠し、駱延らくえんが盩厔を占拠し、任良じんりょうが鄠を占拠し、汝章なんしょうが槐里を占拠し、それぞれが将軍を称していた。


 多い者は万余人の兵を、少ない者でも数千人の兵を擁して互いに攻撃し合っていた。


 馮異ふういは赤眉との戦いの後、それらの勢力と戦いながら西に向かって進軍し、上林苑の中に駐軍した。


 延岑が張邯、任良を率いて共に馮異を攻撃したが、馮異が迎撃して大破したため、諸営保(営堡)で延岑に附いていた者達は全て馮異に投降した。


 延岑は武関を出て南陽に走った。


 当時の百姓は飢餓に苦しんでおり、黄金一斤で豆五升と交換するほどであった。


 しかも道路が断隔(断絶。隔絶)して委輸(輸送)ができないため、馮異の軍士は皆、果実を糧にする状況であった。


 劉秀りゅうしゅうは詔を発して南陽の人・趙匡ちょうきょうを右扶風に任命し、兵を率いて馮異を助けさせ、併せて縑(絹の一種)・穀を輸送させることにした。


 馮異は兵穀(兵糧。または兵と食糧)に余裕が出ると豪傑で令に従わない者を徐々に誅撃し、降附(投降帰順)して功労がある者に褒賞を与えていった。諸営の渠帥を全て京師に送り、兵衆を解散して本業(家業。または農業)に還らせた。


 こうして馮異の威信が関中に行き届き、呂鮪、張邯、蒋震だけは蜀に使者を送って公孫述こうそんじゅつに降ったが、他の勢力は全て平定されていった。


 西方の情勢が落ち着いたと判断した劉秀は呉漢ごかん杜茂とも陳俊ちんしゅんら七将軍を率いて広楽にいる劉永りゅうえいの将・蘇茂そもを包囲した。


 劉永の将・周建しゅうけんは兵を招いて十余万人を集め、蘇茂を助けた。


 呉漢はこれを迎え撃ったが、彼らの軍の勢いに負け、逆に馬から落ちて䣛(膝)を負傷したため営内に還った。


 周建らが兵を連ねて広楽城に入った。


 諸将が呉漢に言った。


「大敵が前にいるにも関わらず、あなたが傷臥(怪我のため横になること)していれば、衆心が懼れを抱いてしまいます」


「わかっている」


 呉漢は身を起こして傷を包み、発奮して立ち上がり、牛を殺して士卒にふるまい、将兵を慰労して励ました。そのため士気が倍増していった。


 翌日、蘇茂と周建が兵を出して呉漢を包囲したが、呉漢は耐えに耐え、奮撃してこれを大破した。


 蘇茂は逃走して湖陵に還った。


 この時、睢陽が反乱を起こし、劉永を城内に迎え入れた。


 虎牙大将軍・蓋延がいえんが諸将を率いてこれを包囲すると、呉漢は杜茂と陳俊に広楽を守らせ、自身は兵を率いて睢陽を包囲している蓋延を助けに向かった。













 その頃、岑彭しんほう傅俊ふしゅん臧宮ぞうきゅう劉宏りゅうこうら三万余人を率いて南の秦豊しんほうを攻めた。


 その隙をついて、延岑が南陽を攻めて数城を得た。


 それに対し、建威大将軍・耿弇こうえんが穰で延岑と戦い、これを大破してみせた。


 延岑は数騎と共に東陽に走り、秦豊と連合する旨を伝えた。秦豊は劉秀の勢力に対抗するため、自分の娘を延岑に嫁がせる約束を行い、同意した。


 連合したことを知った劉秀は建義大将軍・朱祜しゅゆう祭遵さいじゅんらを派遣した。彼らは東陽で延岑と戦い、また破った。延岑の将・張成ちょうせいを斬った。


 この勝報を聞いた劉秀は笑った。


「珍しく仲先(朱祜の字)が戦で勝った」


 延岑は逃走して秦豊の拠点(黎丘)に入った。


 朱祜は南下して岑彭等の軍と合流した。


 延岑の護軍・鄧仲況とうちゅうきょうが兵を擁して陰県を占拠した。彼の下にはかつて王莽の重臣であった劉歆りゅうきんの孫・劉龔りゅうきが鄧仲況の謀主(参謀)を勤めていた。


 かつて侍中だった扶風の人・蘇竟そきょうが書を送り、二人を説得した。


 蘇竟は字を伯況といい、扶風平陵の人である。平帝の時代に、『易経』に明るいことから博士になり、『書』を講じる祭酒(講書祭酒)になった。


 蘇竟は図緯(予言や易占)を得意とし、百家の言(学説)に通じることができ、王莽の時代、劉歆らと共に書物を典校(整理校定)した。


 後に代郡中尉に任命された。当時は匈奴が擾乱しており、北辺の多くの地がその禍を被っていたが、蘇竟は最後まで一郡を保った。


 劉秀が即位してからも蘇竟をそのまま代郡太守に任命し、辺塞を固めて匈奴を防がせたという人である。


 ちょうどこの時、蘇竟は当時、南陽におり、同僚の孫であった劉龔と鄧仲況に書を送って諫めたため、鄧仲況と劉龔は投降した。


 蘇竟は生涯自分の功績を誇って自慢せず、隠居して道術(道義、学術)を楽しみ(潜楽道術)、『記誨篇』やその他の文章を書いて世に伝えた。


 七十歳になって家で亡くなったという。


 秦豊は大将・蔡宏さいこうと共に鄧で岑彭の軍を対峙した。


「中々に堅牢な陣形だ」


 攻めてに欠けると判断した岑彭は数カ月経っても打ち破ることができなかった。それがわざとであるというような内容の讒言があったのか劉秀から対峙している理由について求める譴責が行われた。


 これを受けて岑彭は夜の間に兵馬を指揮して軍中に申令(号令)し、翌朝、西進して山都(県名)を撃つと宣言した。


 同時に捕虜の監視を緩めてわざと逃亡できるようにした。


 脱走した捕虜が帰って秦豊に報告したため、秦豊はすぐに全軍で西に向かって岑彭を迎撃するため陣を構えようとした。


 すると岑彭は秘かに兵を発して沔水(鄧の南にあります)を渡らせ、阿頭山で秦豊の将・張楊ちょうようを撃ってこれを大破した。川谷の間で木を伐って道を開き、直接、黎丘へ進撃し、秦豊の諸屯の兵を撃破していった。


 秦豊はそれを聞いて大いに驚き、馳せ帰って黎丘を援けにいった。


 岑彭と諸将は東山を利用して営を造った。


 夜、秦豊と蔡宏が岑彭を攻撃したが、岑彭があらかじめ備えを設けていたため、兵を出して逆に秦豊らを返り討ちにし、秦豊は敗走、蔡宏は追撃に遭って斬られた。


 劉秀はこの勝報に喜び、岑彭を舞陰侯に改めた。


 秦豊の相・趙京ちょうきょうが宜城を挙げて投降し、そのまま彼は成漢将軍に任命され、岑彭と共に黎丘で秦豊を包囲した。




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