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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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侯霸

 帝を称していた劉永りゅうえい董憲とうけんを海西王に立てた。


 劉秀りゅうしゅうが前年に伏隆ふくりゅうを光禄大夫に任命し、態度を曖昧にしていた張歩に派遣する使者にしていた。張歩を招いて帰順させ、東莱太守に任命するのが任務でまた、新たに任命された青州牧、守、都尉も伏隆と共に東に向かっていた。更に詔を発して伏隆に令・長以下の官員を任命する権限を与えていた。


 その送った伏隆が劇(県名)に入ったと聞いた劉永は使者を送って張歩を斉王に立てることにした。


 張歩は王爵を貪りたいため、躊躇して劉秀に附くか劉永に附くか決断できないでいた。


 そこを伏隆が曉譬(諭すこと。導くこと)して張歩に言った。


「高祖が天下と約束し、劉氏でなければ王になれなくなったものの、今ならば十万戸侯になることができます」


 しかしながら張歩は態度を保留にしたまま、伏隆を留めて共に二州(青州と徐州)を守ろうと欲した。伏隆はこの意見を聴かず、洛陽に還って報告すると述べた。


 それに怒った張歩は伏隆を捕え、劉永の封爵を受けた。


 伏隆は間使(密使)を送って劉秀に上書した。


「私は使者の任務を奉じたにも関わらず成果がなく、凶逆に捕えられてしまいました。しかし困阨の中にいても、命を授かったら顧みることがありません。また、吏民は張歩の反畔を知り、心中では帰附していません。すぐに兵を進めることを願います。私の安否を考慮する必要はありません。私は使者の職務を全うできなかったので、朝廷に還って官員によって誅殺されるならば、それは私の大願というものです。もし反徒に殺されれば、陛下に家族を託させていただきます。陛下と皇后、太子が永遠に万国を享受して天と共に無限であることを願います」


 伏隆の奏書を得た劉秀は伏隆の父・伏湛ふくじんを招き、涙を流して奏書を見せた。


 劉秀が言った。


「とりあえず張歩を封王することに同意して伏隆を帰らせるように求めるべきであった」


 後に張歩は伏隆を殺した。


 当時、劉秀は北の漁陽(彭寵)を憂いており、南の梁(劉永)への対応にも追われていたため、張歩が斉地を独占して十二郡で得ることに成功、こうして彼は独立を果たした。











 劉秀は呉漢ごかん耿弇こうえん蓋延がいえんの二将軍を率いさせ、軹西で青犢を撃ち、大破して降した。


 三月、大司徒司直・伏湛を大司徒に任命した。鄧禹とううの代わりである。


 涿郡太守・張豊ちょうほうが劉秀から離反して無上大将軍を自称し、彭寵と連合した。


 薊を守っている朱浮しゅふは劉秀が自ら彭寵を討伐しないため、上書して救援を求めた。


 しかし劉秀は詔を発して朱浮にこう答えた。


「往年(昨年)、赤眉が長安で跋扈したが、私は彼らには穀物がないから必ず東に向かうと判断し、実際に彼らは東に来て帰附した。今、この反虜(彭寵)を度す(計る)に、威勢を久しく保つことはできず、途中で必ず互いに斬る者(裏切る者)が現れると考えている。今は軍資がまだ充実していないため、後の麦(の収穫)を待たなければならない」


 救援を拒否した。


 やがて薊城の食糧が尽きて、人が人を食べるほどの飢餓に襲われた。


 劉秀は救援を自ら行わなかったが、上谷太守・耿況こうきょうへ要請を出し、彼が騎兵を派遣して援けさせたため、朱浮は脱出して逃走することに成功した。


 薊城は彭寵に降った。


 彭寵は燕王を自称し、右北平や上谷の数県を攻略した。


 また匈奴に賄賂を贈って彭寵を助けるための兵を借りたり、南の張歩や富平、獲索の諸賊と結んで交流した。


 朱浮が薊から逃走して南の良郷に至った時、兵長が謀反して道を塞いだ。彼の嫌われ具合は相当である。朱浮は脱出できなくなることを恐れ、馬を下りて足手まといになるとして妻を殺害して、単身でやっと逃れた。


 侯霸こうはは劉秀に上奏した。


「朱浮は幽州を敗乱させ、彭寵に謀叛させ、軍師を徒労したにも関わらず、死節を守ることができなかったので、その罪は伏誅(死刑)に値します」


 しかし劉秀は朱浮を処刑せず、賈復の代わりに朱浮を執金吾に任命し、父城侯に遷した。


 さて、侯霸という人物にして説明しなければならない。


 彼は字は君房といい、成帝の頃に太子舎人となった。王莽が新を創建すると、五威司命・陳崇が侯覇を徳行が優れているとして推薦したため、侯覇は随県(南陽郡)の宰(新制における県令)に任命された。


 当時、随県は亡命者の多くが盗賊となって潜んでいた。侯覇が着任すると、直ちに有力な盗賊らを誅殺し、山賊を捕えたため、県内は平静さを取り戻した。


 その後、執法刺姦に任命され、高位の者も容赦なく査問し、疑惑があれば憚ることはなかった。


 侯覇は淮平大尹(新の臨淮太守)に移り、その治績の優良さで名を知られるようになっていった。更始帝により王莽が滅ぼされた際には、侯覇は臨淮の保全に専念した。


 更始帝は謁者・侯盛と荊州刺史・費遂に璽書を持たせて派遣し、侯覇を召還しようとしたが、臨淮の民衆が、


「あと一年だけ侯君(侯覇)をその地位に留めて下さい」


 と大挙して懇願したため、この騒ぎに二人は、侯覇が召還を受ければ臨淮が混乱すると懸念し、璽書を渡さず、そのまま引き返して更始帝に事態を報告した。


 その後、劉秀が帝につくと侯覇を召還し、自ら寿春で侯覇に面会して、尚書令に任命した。


 当時、朝廷にはかつての典籍が無く、また新以前の旧臣が乏しかった。侯覇は故事(旧制度)に通暁しており、遺漏していた文献を収集し、旧法令の中から有益なものを尽く奉呈し、施行に移していった。


 後漢王朝における礼式における基礎は彼によって築かれたと言っていいだろう。


 但し彼が仕えた時期に関しては諸説あり、朱浮への処罰を求めた上奏ももっと後のことであるという説もある。













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