田況
紀元21年
正月、王莽の妻が死んだ。孝睦皇后という諡号が贈られ、渭陵長寿園西(渭陵は元帝陵、長寿園は王政君の陵園)に埋葬された。永遠に文母(王政君)に侍らせ、陵を「億年」と命名した。
この裏側で事件が起きていた。
王莽という男は過去に二回も自分の子を殺しており、妻は涕泣によって失明してしまいた。
王莽は太子・王臨を宮中に住ませて母を養わせていた。王莽の妻の傍に侍者・原碧という者がおり、王莽の幸を受けていた。
これにややこしい状況となったのは王臨も原碧と姦通したことである。若い方がいい原碧と彼女に惚れている王臨は事が漏れることを恐れ、王莽を殺す方法を謀った。
王臨の妻・劉愔は国師公・劉秀(劉歆)の娘で、星の観測ができた。劉愔が王臨に、
「もうすぐ宮中で白衣の会があります」
と言ったため、王臨は喜んで謀が成功すると信じた。
「白衣」は喪服で、「白衣の会」は葬儀を指す。木星と金星が重なれば、白衣の会があり、土星と金星が重なっても白衣の会があるとされていた。宮中というのは星が会った場所から占ったようである。
王臨は後に太子を廃されて統義陽王になった。宮内から出されて外第(外邸)に住むようになり、ますます憂恐した。
王莽の妻の病がひどくなった時、王臨が母に書を送った。
「陛下は子や孫に対して至厳ですので以前、長孫(王宇の字)と中孫(王獲の字)(どちらも兄)は共に三十歳で死にました。今、臨もちょうど三十ですので、一旦にして中室を保てず、死命がどこにあるのか分からなくなることを誠に恐れています」
しかしながら母が失明していることを知っているにも関わらず、書を送るとはこの男は何を考えているのだろうか。
王莽が妻の病を看に行った時に王臨の書を発見した。王莽は激怒して悪意があるのではないかと疑い、母が死んでも喪に参加できないようにした。
皇后が死んで埋葬が終わると、王莽は原碧らを捕えて審問した。原碧は通姦と謀殺の事実を認めた。
王莽はこれを秘密にしようと欲し、人を送って案事使者(取り調べ担当)を勤めた司命従事(司命の属官)を殺し、獄中に埋めてしまった。家人でも司命従事の居場所が分からなくなった。
王莽が王臨に薬を下賜した。しかし王臨は飲もうとせず、自分を刺して死んだ。
王莽は侍中・票騎将軍・同説侯・王林(王舜の子)を派遣して魂衣・璽韍を贈り、策書を発してこう言った。
「符命の文が臨を統義陽王に立てた。これは新室が即位して三万六千歳後に、臨の後代となった者が、龍が飛翔するように興隆することを言っていた。しかし以前、誤って議者の意見を聴き、臨を太子にしたため、列風の変があった。そこで符命に順じて統義陽王に立てたのである。それ以前もそれ以後も、臨は信順せず、その佑(福)を蒙らず、若くして命を落とした。ああ、哀しいことである。行跡を考慮して諡号を下賜し、諡して繆王とする」
王莽は国師公・劉秀にも詔を下して、
「臨は本来、星を知らなかった。事は愔から起きたのである」
と言った。
王臨の妻である劉愔も自殺した。
この年、荊州牧・某(姓名が伝わっていないため、史書は「某」としている)が奔命二万人を動員して緑林賊(緑林兵)を討伐した。
賊の王匡らがそれぞれ部衆を率いて雲杜で迎撃し、荊州牧の軍を大破してみせた。数千人を殺して輜重を全て奪った。
荊州牧は北に帰ろうとしたが、馬武らが再び遮撃(迎撃。道を遮って撃つこと)し、荊州牧の車の屛泥(車の前にある泥をよける板)に鈎をかけて驂乗(同乗する者)を刺殺した。但し、荊州牧を殺そうとはしなかった。
自分たちが殺さなくても死ぬだろうという意識があったのだろう。
その後、彼らは竟陵を攻めて攻略し、転じて雲杜、安陸を撃った。多数の婦女を奪ってから還って緑林に入れた。緑林兵は五万余口の勢力となり(元は七、八千人)、州郡が抑制できなくなった。
馬武という男はそれを眺めながら酒を飲む。
(不味い酒だ)
それでも彼は虐殺などを否定はしなかった。それでも酒ぐらいは美味いものを飲みたいと思った。
この年、大司馬士が豫州で按章(「章」は奏章のことである。「按章」は上奏された内容に基づいて任務を行うこと)した時に、賊に捕えられてしまいたが、賊は大司馬士を県に送り帰した。
朝廷に還った大司馬士が上書して捕まってから釈放されるまでの状況を報告すると、王莽は激怒して誣罔(欺瞞)とみなし、獄に下した。
王莽が書を下して七公(四輔三公)を譴責した。
「吏とは理(治理。管理)である。徳を宣揚して恩を明らかにし、こうすることで民を牧養するのが仁の道である。強を抑えて姦を督(監察)し、盗賊を捕えて誅すのが義の節である。しかし今はそうではない。盗が発してもすぐに得ることができず(賊が起きてもすぐに捕えられず)、群党を成すに至り、伝に乗る宰士を遮略している(道を塞いで略奪している)。ところが脱することができた士はまた妄りに自分からこう発言している。『私が賊の罪を並べて譴責し、「なぜこのようにするのか」と聞いたところ、賊は「ただ貧窮が原因になっているだけである」と言った。賊は私を護って出しました(釈放しました)』と、今、俗人で議している者も、多数がこのようである。思うに貧困飢寒が原因で法を犯して非を成す場合、大きなものは群盗、小さなものは偸穴(盗人。「穴」は壁に穴を開けて盗みを働くという意味)となるだけであり、この二科(二種類)に過ぎないのである。しかし今は結謀して党を連ねること千百を数えており、これは逆乱の大きなものである。これでも飢寒が原因だというのか(群盗は飢寒が原因でやむなく起ったのではなく、叛逆が目的であるということ)。よって七公は卿大夫、卒正、連率、庶尹を厳敕し(厳しく訓戒し)、謹んで善民を牧養し、急いで盗賊を捕殄(捕獲殲滅)せよ。同心になって力を合わせようとせず、悪を憎んで賊を除くこともせず、妄りに飢寒が為したと言う者がいれば、全て捕えて繋ぎ、その罪を請え(その者の裁きを求めよ)」
この後、群下はますます恐れ、敢えて賊の真相を述べる者がいなくなった。しかも自由に兵を発することもできないため、賊は完全に制御できなくなった。
その中で翼平連率・田況だけはかねてから果敢な人であったため、十八歳以上の民四万余人を動員し、庫兵(府庫の兵器)を与え、共に石に刻んで約とした(石に刻んで軍令を明らかにした。または、兵と共に石に盟約を刻んだ)。
それを聞いた赤糜(赤眉。樊崇ら。古字において「糜」は「眉」に通じる)は敢えて境界に侵入しなくなった。
田況は勝手に兵を動かししたため、自分を弾劾する上奏をした。
王莽が田況を譴責して言った。
「まだ虎符を賜っていないため、勝手に兵を発した。これは弄兵(兵を弄ぶこと)であり、この辠(罪)は乏興(軍事行動や物資の調達・輸送に遅れたりそれを妨害する罪)に当たる。しかし田況は必ず賊を捕えて滅ぼすことを自分の責任としましたので、暫くこれを治めない(裁かない)ことにする」
後に田況が自ら境界を出て賊を撃つことを請い、向かう所で全ての敵を破ってみせた。
王莽は璽書(詔書)によって田況に青州・徐州の牧の政務を兼任させた。
田況が上言した。
「盗賊が発したばかりの頃は、その原(源。基礎)は甚だ微弱で、部吏、伍人でも捕えられました。咎(罪。問題)は長吏がそれを意と為さず(重視せず)、県がその郡を欺き、郡が朝廷を欺き、実は百なのに言を十とし、実は千なのに言を百としていることがございます(民衆の反発が小さい時に手を打たず、上に対して過少に報告していることが問題です)。朝廷はこれを忽略(おろそかにすること。軽視すること)して、すぐに督責せず、賊が州を連ねて延曼(蔓延)してから、やっと将率(将帥)を派遣し、多数の使者を発して繰り返し互いに監趣(監督催促)させております。郡県は尽力して上官(中央や州の使者)に仕え、詰対(詰問)に応塞(応答)し、酒食を提供して資用を具え、こうすることで自分を断斬(死刑)から救っており、これ以上、盗賊・治官(政務)の事を憂いる余裕はございません(郡県は朝廷や州から来た使者の対応に追われて賊を撃つことも政務を行うこともできません)。将率もまた自ら吏士を率いることができず、戦えば、賊に破られ、吏の気(士気)がしだいに損なわれ、いたずらに百姓の財を費やしています。また、幸いにも以前、赦令を蒙り、賊が解散を欲しても、あるいは逆に遮擊(途中で撃つこと)され、恐れて山谷に入り、それを互いに告げ語っていることで、郡県で既に降った賊も皆、更に驚駭(恐慌)し、詐滅(欺かれて滅ぼされること)に遭うことを恐れています。しかも飢饉のために人心が動じ易くなっていますので、旬日(十日)の間にまた十余万人になります。これが盗賊が多くなる原因なのです」
「今、雒陽以東は米一石が二千銭に値します。詔書を窺い見るに、太師と更始将軍を派遣しようとしておられるようですが、二人は爪牙の重臣ですので、多くの人衆を従える必要があり、そうなれば道上が空竭(涸渇)します(財を使い果たして酒食物資を供給できなくなります)。しかし人衆が少なかったら威を遠方に示すことができません。急いで牧・尹以下の者を選び、その賞罰を明らかにし、離郷(分散した郷聚)を收合させるべきです。小国(諸列侯国)で城郭がないものは、その老弱を大城の中に遷し、穀食を積藏(貯蔵)し、力を合わせて固守なさるべきです。そうすれば賊が来て城を攻めても下せず、通った場所には(略奪できる)食物がなく、賊が群聚(群衆)になれない形勢ができます。このようであれば、招けば必ず降り、撃てば必ず滅ぼせます。今、再びいたずらに多くの将率を出せば、郡県がこれに苦しみ、逆に賊よりひどくなります。伝に乗る諸使者を全て徴集して還らせ、こうすることで郡県を休息なさるべきです。二州の盗賊を臣況に委任すれば、必ずこれを平定することでしょう」
王莽は元々田況を畏れ嫌っていたため、秘かに代わりの者を送り、使者を派遣して田況に璽書(詔書)を下賜した。
使者が到着して田況に会うと、王莽の令によって代わりの者に兵を監督させ、田況を西の京師に向かわせた。
朝廷に還った田況は師尉大夫に任命された。
田況が去ってから斉の地も賊たちに敗れることになっていくことになる。




