表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銅馬が征く  作者: 大田牛二


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

59/98

赤眉の滅亡

 年が明け、27年


 正月、劉秀りゅうしゅうが赤眉と対峙している馮異ふういを征西大将軍に任命し、杜茂ともを驃騎大将軍に任命した。


 大司徒・鄧禹とううは大任を受けたにも関わらず、功がないことを慚愧し、しばしば飢えた士卒を指揮して赤眉に戦いを挑んだが、勝利を得ることはできなかった。


 鄧禹は馮異と共に赤眉を攻めるため、車騎将軍・鄧弘とうこうらを率いて河北から黄河を渡り、湖県に至った。


 合流した馮異は鄧禹に言った。


「私は賊と対峙して数十日になり、確かに敵の雄将を捕虜にすることができましたが、余衆はまだ多く、徐々に恩信によって傾誘(勧誘)するべきであり、急いで兵を用いて破るのは困難と考えます。陛下は今、諸将に赤眉が東に帰る道を塞がせて、邀撃の準備をしております。そこで私がその西(赤眉の後ろ)を撃ち、一挙してこれを取れば、万成(万全)の計となると考えます」


 無表情で淡々と述べる彼に対し、鄧禹は、


(馮異は功績を独占しようとしている)


 と考え、


「陛下と諸将のご苦労をお掛けするよりも我々で赤眉を打ち破れば良い。将軍の策は臆病な策であると考える」


 そう言って鄧弘と共に馮異の意見に従わず、軍を動かし赤眉に挑んだ。


 しかしながら馮異は強くは止めなかった。彼はこの時代、最高の将軍の一人だが欠点を上げるならばこういうところである。


 先鋒の鄧弘が赤眉と大戦した。長い時間が経過し、赤眉は引いた。しかしこれは赤眉は敗れたふりであり、彼らはわざと輜重を棄てて逃走した。鄧弘の兵は今までの披露と長時間の戦闘で、飢えていたため争って輜重を奪い始めた。しかし車には全て土が積まれており、その上を豆が覆っているだけであった。


 そこを赤眉が引き返して反撃した。鄧弘軍は攻撃を受けて潰乱した、馮異と鄧禹が兵を合わせて救援したため、赤眉がわずかに撤退した。


 馮異は改めて士卒が飢倦(飢餓疲労)しているため、暫く休ませるべきだと述べたが、鄧禹はこの意見も聞かず、また回溪(『「回谿」は「回坑」ともいう)で赤眉と戦った。


 回溪は長さ四里、広さ二丈、深さ二丈五尺の道である。軍を展開するには狭く、守りやすい地形である。


「銅馬軍は頭が無いなあ」


 赤眉の諸将はそう嘲笑いながら、決戦し、その結果、鄧禹とそれを補助しようとした馮異の軍は大敗して死傷者が三千余人に上った。


 鄧禹は二十四騎を率いて脱出し、宜陽に帰った。


「どういう顔で謁見すれば良いのか」


 鄧禹は大いに嘆き、自ら大司徒と梁侯の印綬を返上した。


「戦での勝敗は兵家の常さ」


 劉秀は詔を発して梁侯の印綬を鄧禹に返し、右将軍に任命して、彼の戦での敗戦を責めなかった。


 一方、馮異は馬を棄てて奔走し、回谿阪を上り、その後、麾下数人と共に営塁に帰還し、散卒を集めて再び堅壁自守(営壁を固めて守ること)した。


「久しぶりに敗戦したか」


 馮異は立て直しを行いながら赤眉に対し、明日決戦しようと申し込んだ。


「剛毅なことよ」


 赤眉側は会戦の期日に同意した。


 馮異は壮士に服を換えさせて赤眉と同じ姿にし、道の側に伏せさせ、翌日、赤眉が一万人の兵に命じて馮異の前部を攻撃させると馮異はわざと少数の兵を出して援けさせた。


 赤眉は馮異軍の勢いが弱いのを見て、全軍に馮異を攻撃させた。馮異も兵を放って対戦していく。


 馮異の戦は言うなれば、柔の戦である。相手の攻めてをいなし続け、相手の疲労を誘う。


 日昃(太陽が西に傾く頃)、赤眉の気(士気)が衰えた。


「今だ」


 馮異は赤旗を掲げた。それにより、馮異が置いた伏兵が突然現れ、赤眉は漢軍の伏兵が同じ衣服だったため、混乱して識別できなくなった。大軍が驚乱潰散していった。


 馮異は赤眉を追撃して崤底(「崤谷の底」、または「崤阪」を指す)で大破し、男女八万人を降した。


 報告を受けた劉秀は璽書(詔書)を下して馮異を慰労した。


「始めは回谿で翼を垂らしたが(失意したが)、ついに澠池で翼を奮うことができたようでなによりである。『東隅(朝)に失って桑楡(日暮れ)に収める』というものである。功賞を論じて大勳(大功)に答えん」









 破れた赤眉の余衆は東の宜陽に向かった。


 赤眉の動きを聞いた劉秀は宜陽に行幸し、自ら六軍を指揮して大いに軍馬を並べた。大司馬・呉漢ごかんの精卒(精兵)が前に当たり、中軍が次になり、驍騎(勇猛な騎兵)・武衛(戦士)が分かれて左右に陣を布き、充分な準備を整えて赤眉が東に帰る道で待ちかまえた。


「このような名誉を頂き、感謝致します。しかしながら私で誠によろしいのですか?」


 呉漢が劉秀にそういった。自分に対して何も処罰しないことは鄧奉とうほうを刺激することになるのではないかということである。


「確かにお前を用いることは、鄧奉は不満に思うだろう。でも、この期待にお前が答えてくれるとも信じている。それだけさ」


「はっ必ずやそのご期待にお応え致します」


 呉漢は拝礼を行った。


 赤眉は遠くでこの陣容を眺め見た。


「このようなところに銅馬帝の軍だと」


「どうすれば」


「降伏すれば良いさ」


 突然、この大軍に遭遇したため、驚震してどう対応すべきか分からなくなった赤眉の諸将に対し、明るい声が響いた。劉盆子りゅうぼんしの声である。


 劉恭りゅうきょうは慌てる。


「投稿するということは相手に己の命を自由にしても良いという証明になりますよ。むやみに言ってはいけません」


「大丈夫さ、あの人はみんなを許してくれるよ」


 劉盆子の言葉に諸将は従い、劉恭を派遣して投降を請うた。


 劉恭が劉秀に劉盆子の言葉を伝え、


「私が百万の衆を率いて陛下に降れば、どのように待遇しますか?」


 と問うと、劉秀は、


「命が助かるだけ良いと思うべき」


 と答えた。


 赤眉の主将・樊崇はんすうが劉盆子や丞相・徐宣じょせん以下三十余人を引き連れ、君臣ともに肉袒面縛(「肉袒」は上半身を裸にすること、「面縛」は手を後ろに縛ることで、どちらも投降の姿)して劉秀に降り、高祖の璽綬(伝国の璽綬)を献上した。


 劉秀は詔を発して赤眉の君臣を城門校尉に属させた。


 更に更始帝の七尺の宝剣と玉璧も一つずつ得て、また、赤眉の兵甲(武器甲冑)を宜陽城の西に積み重ねたところ、熊耳山と同じ高さになったという。


 赤眉の衆はまだ十余万人いた。劉秀は県厨(宜陽県の厨房、厨官)に命じて食事を下賜させた。


 赤眉の兵衆は困餧(疲労と飢え)がたまっていたが、十余万人が全て飽飫(満腹)を得られた。


 翌朝、劉秀が雒水に臨んで大数の兵馬を連ねた。劉盆子の君臣を並べて大軍の陣容を観させた。


 劉秀は劉盆子に問うた。


「自分が死ぬべきだと知っているかな?」


 劉盆子はにこやかに答えた。


「罪は死に応じるに値するものだと思っているよ。しかしながら、お幸いにも陛下が憐れんで赦すことを願っているよ」


 劉秀は大いに笑い、


「君は大黠だ。宗室(劉氏)に蚩者(痴者)はいないみたいだ」


  「黠」は聡明かつ狡猾という意味があるが、ここでの狡猾というのはからかい混じりがあると思われる。


王朗おうろうもこのようであれば、許したのになあ)


 そういう意味ではやはり劉秀から見て、劉盆子は聡明に見えた。


 劉秀は樊崇らに言った。


「あなた方は投降したことを後悔しているのではないかな? 私はこれからあなた方を営に帰らせるから、兵を指揮して戦鼓を鳴らし、ここに攻めて来い。勝負を決しようではないか。私はね。服従を強制したくはないのだよ」


 人が悪いとはこのことである。


 徐宣らが叩頭して言った。


「我々は長安東都門を出てから君臣で計議し、聖徳に帰命することにしました。しかし百姓とは成果を共に楽しむことはできても、始めを共に図るのは困難ですので、敢えて衆人に告げなかったのです。今日、降ることができたのは、虎口を去って慈母に帰したようなものなので、誠に歓喜しており、恨むことはありません」


 劉秀は笑って言った。


「卿は鉄の中の錚錚(「錚錚」は金属がぶつかる音であるが、ここでは優れた金属を意味する)、凡人の中の佼佼者(優秀な人物という意味)というものである」


 続けてこう述べた。


「汝らは大いに無道を為し、通過した場所全てで老弱を夷滅したり(皆殺しにしたり)、社稷に尿をしたり、井竈(井戸や竈)を汚した。しかしそれでも三つの善があった。城邑を攻め破って天下に周徧(普遍、普及)したが、本故の妻婦を改易しなかった(元からの妻を棄てなかった)。これが一目の善である。君を立てるのに宗室(劉氏)を用いることができた。これが二目の善である。余賊が君を立てたとしても、迫急したら皆、その首(主君の首)を持って降り、自らそれを功としたが、汝らだけは劉盆子の安全を保って私に付いた。これが三善である」


 劉秀は赤眉の諸将に命じて妻子と共に洛陽に住ませ、一人当たりに一区の邸宅と二頃の田を下賜することにした。


 その後。宜陽から洛陽に還り、約束通り樊崇らを妻子と共に洛陽に住ませて田宅を下賜した。


 しかしこの年の夏、樊崇と逢安ほうあんは謀反して誅殺されることになる。


 楊音ようおんは長安にいた時、趙王・劉良りゅうりょうに遇った。劉良は楊音に対して恩があったため、劉秀は楊音に関内侯の爵位を与えた。


 その後、楊音は徐宣と共に郷里に帰り、二人とも最後は家で死ぬことができた。


 劉秀は劉盆子を憐れんで厚い賞賜を与え、郎中にした。


 その後、劉盆子は後に病を患って失明してしまったが、劉秀は滎陽の均輸官が管轄する地を下賜して市に店舗を開き、終生その税収で生活させた。


 劉秀は彼の純粋さを誰よりも尊重したと言える。


 劉恭が更始帝の仇に報いるために謝禄しゃろくを殺した。その後、自ら獄に繋がれた。劉秀は劉恭の罪を赦して誅殺しなかった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ