蠢く西方の絵図
陝賊・蘇況が弘農を攻めて破った。
劉秀は景丹を派遣することにした。しかしながらこの時、景丹は病を患っていた。それでも劉秀は無理にでも起たせて弘農郡の政事を担当させようとし、夜に景丹を招いて入宮させ、言った。
「賊が京師に迫近(逼迫)しているが、将軍の威重を得るだけで、臥したままこれを鎮めるに足りると考える」
つまり何が何でも出陣せよということである。
景丹は辞退することができず、力疾(無理に病の体を動かすこと)して命を受け、軍を率いて弘農郡に入った。しかし十余日で陣没してしまった。
「そうか……」
劉秀は頭を抱えた。いやこうなることはわかっていたはずである。元々病気がちだった者を派遣したのだ。景丹の死は劉秀に責任があり、先の南方での予想外での反乱への焦りが景丹を死に追いやってしまった。
「焦りは禁物……」
そう考えながら劉秀が次に派遣する将として祭遵を選んだ。しかしながら祭遵は現在、蛮中の山賊・張満の包囲を行っていた。
「張満の包囲を傅俊に継続させ、将軍は朱祐、王常、王梁、臧宮らと共に箕関に入り、南に向かって弘農、厭新、柏華と打ち破ってから蛮中の賊を撃つべし」
劉秀はそのように指示を出した。
命令を受けた祭遵は蘇況討伐を行った。
(陛下は素早い鎮圧をお望みである)
そう考えた祭遵は力戦を持って、敵を打ち破ることにし、自ら先頭に立ち、戦った。
その戦いの中、弩から放たれた矢が祭遵の口に命中し、傷から流血した。負傷した祭遵を見た兵は少しずつ退却した。
「何を後退しているか。進め、進めぇ」
しかしながら祭遵は彼らを叱咤してそれを留め、前に進んだ。容貌は婦女の如き彼であるが、血気盛んな人であり、情熱家である。その彼の姿に心打たれた兵たちは皆、倍の力を発揮して戦い、ついに大勝した。
「このまま張満も片付ける」
祭遵は張満包囲に戻った。ここでは彼は力攻めではなく、持久戦で仕留めることにした。
まず張満の糧道を絶った。それを受けて張満がしばしば戦いを挑んだが、祭遵は営壁を堅くして断固として、出ようとしなかった。
王梁、臧宮に事前に命じて、攻撃させ、破れた厭新や柏華の余賊が張満と合流しようとし、霍陽聚を攻めて占拠しようとした。しかしながら既にそこには王常と朱祐の兵が伏せており、それによって彼らは降った。
もはや補給もままならなくなった張満は飢困し、それを察知した祭遵の力攻めによって城は陥落、張満は生け捕りにされた。
以前、張満は天地の祭祀を行って自ら、
「私が王になるはずだ」
と言っていた。失敗して捕えられてからは、嘆いて、
「讖文が私を誤らせた」
と言った。
「己こそが間違いなのだ」
祭遵はそういうと張満を斬り、その妻子も皆殺した。
「攻めても勝ち、守っても勝つ。見事なるかな祭遵」
劉秀は報告を聞き、大いに称えた。
その頃、長安を棄てた赤眉が兵を率いて西に向かい、隴山を登ろうとした。
そこに隗囂が将軍・楊広を送って迎撃、赤眉は敗れた。
楊広はそのまま赤眉を追撃して烏氏と涇陽の間でも破った。
敗戦を重ねた赤眉は陽城、番須一帯に至ったが、そこで大雪に遭って坑谷(溝や谷。渓谷)が全て埋まり、士卒の多くが凍死したため、再び東に戻り、漢帝の諸陵を掘り起こして副葬されていた宝貨を奪った。呂后の屍も汚辱した。
賊(赤眉)が掘り起こした諸陵では、玉匣(宝玉で作った死者の服)をまとって埋葬された者はほとんど全て生きているようだったため、赤眉が多くの婬穢を行った。
この時、大司徒・鄧禹が長安におり、兵を送って郁夷で赤眉を撃ったが、逆に敗れた。
「自ら行くしかないか」
鄧禹は長安を出て雲陽に向かった。
そこに赤眉が回り込んで、再び長安に入り、桂宮に住んでしまった。
「長安を奪還されました」
「いや、長安は守るにはもはや荒廃仕切っている。取り返すことは容易だ」
鄧禹はそう言って気にしなかった。だが、その報告を受けた劉秀からすると強がりにしか見えない。
そもそも先の派遣する上で自ら出陣すれば、ただでさえ隗囂の攻撃に疲弊しているのだから破ることができたかもしれない。それにも関わらず、彼は自ら出陣せずに部下に任せたために負けた。
長安が守りづらいという意見はわかるが、それでも西方における交通の要所である。そこを抑えておかなければ、西方の運営がまた一歩後退してしまう。また、長安は確かに守りが薄いが東からの守りは案外硬いのと西方の交通の要所であるため西方からの救援がやりやすい。
そのため長安の再奪還は難しい。そう考える劉秀からすると鄧禹の動きはじれったく感じる。
「だが、西方は鄧禹に任せたい」
そう思うからこそ劉秀は我慢して彼を使い続けている。
長安に再び戻った赤眉は 当時、漢中で叛した延岑が散関を出て杜陵に駐屯していたため、赤眉の将の一人である逢安が十余万人を率いてこれを撃つことになった。
鄧禹はこれを受けて逢安の精兵が長安の外に出て、劉盆子と羸弱な者だけが城中にいると判断し、兵を率いて長安を襲った。
「そう来ると思ったわ」
しかしながらそこに赤眉の謝禄が長安を援けに来て、両軍は夜間に槀街(長安の街)で戦い、鄧禹は敗戦して逃走した。
「銅馬帝の軍はお坊ちゃんの軍よ」
赤眉の兵たちはそう言って嘲笑った。
赤眉からの軍に晒されることになった延岑は更始政権の将軍・李宝と兵を合わせて数万人を指揮し、逄安と杜陵で戦った。しかし延岑らが大敗して死者が一万余人に上った。李宝は逢安に投降し、延岑は散卒を集めて逃走した。
ところがそこに李宝が密かに人を送って延岑にこう伝えた。
「あなたは努力して還戦(再戦)してください。私が内部で反します。表裏が勢を合わせれば大破できましょう」
「応よ」
延岑はすぐに戻って戦いを挑んだ。彼は戦において無類の強さを発揮するような人ではないが、この敗北しても立て直す速さはこの時代において屈指の才覚を有していると言っていいだろう。
延岑の攻撃に逢安は営塁を空にして出撃すると、李宝が後方で全ての赤眉の旌幟を抜き、自分の幡旗に立て換えた。
やがて逢安が戦に疲れて営塁に還ると、旗幟が全て白くなっているのを見て大驚乱走した。
士卒は自ら川谷に投じ、死者が十余万に上り、逄安は数千人と共に脱出して長安に帰っていった。
同じ頃、赤眉の廖湛が兵十八万を率いて漢中王・劉嘉を攻めていた。
しかしながら劉嘉は谷口で戦い、赤眉を大破してみせ、劉嘉の手で廖湛を殺した。
その後、劉嘉は雲陽に入って穀物を集めた。
「勝利はしたが、このままでは孤立し、やがては敗北することになると考えるがどう思う?」
劉嘉は来歙にそう問うた。
「銅馬帝と連絡を取りましょう。王位は失うかもしれませんが、このままでは孤立して命さえ危うくなります。そこで銅馬帝と連絡を取り、連携を図るべきです」
「受け入れてくれるだろうか?」
「現在、銅馬帝は西方攻略を行っています。我々の存在が加わると知れば喜ぶことはあっても無下にすることはありますまい」
「ふむ、その通りだ」
劉嘉は来歙を通して鄧禹を訪ね、劉秀の勢力に投降する旨を伝えた。
「おお、陛下はお慶びになりましょう」
この時、延岑も劉嘉の相・李宝を派遣した。そもそも先の戦いで李宝と連携して赤眉と戦ったのは和解が成立していたためであった。しかしながら李宝は鄧禹と会った時、倨慢(傲慢)な素振りを見せた。そのため鄧禹は激怒して、彼を斬った。
「斬ったのか……」
来歙は目を細めた。
確かに李宝は傲慢ではあったが、延岑とは気が合い、彼との和解で尽力した人物であった。延岑の元に李宝を派遣し、赤眉と戦ったのもそのためである。延岑が李宝を斬ったと知れば、こちらと対立していくことになるだろう。
それはこちらとしてはあまりよくない行動である。しかし、こちらにそれに対しての反論などはできない。こちらは投稿する側であるためである。更に考えれば、こちらの忠誠心を試す行動にも見えなくはない。
(それほどの疑心を持つように少年はなっているのだろうか……)
親族であっても疑う意識を劉秀が持っているが故に鄧禹の行動があるのではないのだろうか。臣下の行動は君主の写し鏡でもある。
「漢中を放棄しましょう」
「なぜ?」
来歙の進言に劉嘉は首をかしげる。
「今回の鄧禹が李宝を斬ったことで延岑はこちらのことをよくは思わないでしょう。必ずこちらを攻めます。正直、ここを守ることに拘るよりも銅馬帝の元に身を寄せた方が安全に思います」
「なるほど、そのとおりだ。いっそのこと漢中を延岑にやるか」
「その方がよろしいでしょう」
来歙は改めて鄧禹を通じて、劉嘉と共に劉秀の元に行きたい旨を述べ、許されると洛陽に向かった。
(少年は以前の少年では無くなっているかもしれない)
それが怖いと感じながら念のため、劉嘉の代理として劉秀に謁見を求めることにした。
(緊張するものだ)
あの時の少年が今や時の皇帝である。あの時には予想できない高位に至り、どのように変わったのか。それが良い方なのか。悪い方なのか。
そう考え、宮殿前の門に至るとそこには劉秀がいた。
「少年……」
「よく来てくれました」
にこやかに劉秀は彼を出迎えた。
(ああ、少年だ)
かつての元々持っている優しさに強さが加わっているのを感じた。
来歙はその場で跪いた。
「皇帝陛下に、来歙が拝謁致します」
(こう言う人だ)
劉秀はそう思いながら彼を起こす。
「お会いできて良かった」
「陛下、ありがたいお言葉でございます」
二人は過去を思い出しながら大いに語り合い、親交を深めた。
久しぶりの劉秀の愉快な仲間たち紹介
嫌われて生き残る・朱鮪
名儒伏湛
雲台の中の異質・卓茂
厳格・鮑永
謙虚なる義弟・李通
花も恥じらう良い男・宋弘
仁将・来歙




