増える敵たち
劉秀は驃騎大将軍・景丹に征虜将軍・祭遵、傅俊を率いて弘農賊を撃たせた。弘農賊を破ると、これを機に祭遵を派遣して蛮中賊(蛮中は地名)・張満を包囲させた。
劉秀が王郎を討った時、漁陽太守・彭寵は突騎を動員して彼を援け、糧食を輸送して前後が絶えることがなかった。
銅馬を追撃して薊に至った時、彭寵は自分の功績を自負しており、官爵や褒賞に対して高い期待を抱いていた。
しかし劉秀は彭寵を接見しても彼の期待を満足させるほどの官職も報賞も与えなかった。そのため彭寵は不平を抱くようになった。
彭寵が不平を抱いていると知った劉秀は幽州牧・朱浮に理由を尋ねた。
朱浮はこう答えた。
「以前、呉漢が北で兵を発した時、王は彭寵に自分が佩している剣を贈り、北道の主人として彼を信頼されておりました。そのため彭寵は自分が陣営に至れば、閤(小門)で出迎えて手を握り、交歓して並んで座るものだと思っていたのでしょう。しかし今、そうならなかったので失望したのです」
これを機に朱浮が続けて言った。
「王莽が宰衡だった時は甄豊が旦夕とも入室して謀議し、当時の人は『夜半の客は甄長伯(長伯は甄豊の字)』と言ったほどでした。しかし王莽が簒位に及んでからは、甄豊の意が不平になり、最後は誅殺されることになりました」
彭寵も同じであると言いたいのである。
劉秀は大笑してそこまでひどくはないと考えた。
彼が彭寵にあって感じたのは、
(この人は上の役職になればなるほど、ダメになる人だ)
というものであった。彭寵は太守になれても王朝の重職を担えるほどの能力は無いと劉秀は判断していた。劉秀は将に対しては甘さがあるが、文官に対しては辛さを持っている。その目が彭寵の能力の限界を見抜いていた。
劉秀が即位すると、彭寵が派遣した呉漢や王梁は並んで三公になったが、彭寵だけは官爵が何も加えられず、漁陽太守のままだった。そのため彼はますます怏怏(不満な様子)として志を得られず、嘆いてこう言った。
「呉漢らが三公になるのならば、私は王になるべきだ。自分の官爵がこの程度でしかないのは、陛下が私を忘れたからではないか」
当時、北方の州郡は破散(破滅離散)していたが、漁陽郡だけはほぼ完全な姿を保っており、かつての鉄官がいた。
彭寵は産出した鉄を穀物に換え、珍宝を蓄積し、ますます富強になっていた。
幽州牧・朱浮は若い頃から俊才で、風迹(教化の迹。品行)を厳格にして士の心を集めようと欲していた。州中の名宿(有名耆宿の士。名声や徳行がある年長者)や王莽時代の二千石の故吏を招いて全て幕府に置き、管轄する諸郡から多数の倉穀を徴発して彼らの妻子を養っていた。
彭寵は天下がまだ安定しておらず、師旅(軍隊)が起きたばかりであることから、多数の官属を置いて軍実(軍事物資)を損なうべきではないと考えた。そのため彼は朱浮の命令に従おうとはしなかった。
彭寵は太守であり、朱浮は州牧であるため、彭寵は朱浮の指示を聞く立場にいる。それにも関わらず、従わなかったことと、朱浮の性格が矜急自多(驕慢かつ性急で自信があること)であったことで彼は激怒した。
まら、彭寵も狠強(屈強。頑固)だったため、双方の間に嫌怨が積もっていった。
しかも朱浮はしばしば彭寵を讒言して陥れようとした。彭寵が多数の兵穀(兵と食糧)を集めており、その意計(意図)は量りがたいと密奏したのである。
(あまり良いことではないな……)
朱浮の性格の悪さを感じながらも劉秀は彭寵を脅恐させるために、すぐに朱浮の密奏を漏泄(漏洩)して彭寵に聞かせた。
その後、詔を発して彭寵を招いた。すると彭寵は上疏(上書)して朱浮と共に招きに応じることを願った。
しかし劉秀はこれに同意しなかった。
(あなた自身の言葉で説明してもらいたい)
劉秀は余計な言葉を間に挟めたくはなかった。
(銅馬帝は朱浮を信用して、私を信用していない)
彭寵はますます疑心を抱いた。
彭寵の妻もかねてから剛毅であり、抑屈(屈服。屈辱)に堪えられず、彭寵に招きに応じないように強く勧めてこう言った。
「天下はまだ定まっておらず、四方が各々雄となっているのです。漁陽は大郡で兵馬が最精(最強。最精鋭)にも関わらず、どうして人の上奏によってこれらを棄てようとしているのですか」
彭寵は親信の吏(信任する官吏。近臣)とも計議した。
官吏も皆、朱浮に対して怨みを抱いていたため、入朝を勧める者はいなかった。
劉秀は彭寵の従弟・子后蘭卿(「子后」が姓)を送って彭寵を諭させた。
ところが彭寵は子后蘭卿を留めて逆に挙兵した。将帥を任命して配置し、自ら二万余人を率いて薊の朱浮を攻撃した。
また、彭寵は耿況と共に重功を立てたにも関わらず、二人とも恩賞が薄かったため、しばしば使者を送って耿況を誘った。
(息子たちが受けている恩顧に背くことはできない)
しかし耿況は誘いを受けず、逆に使者を斬り殺した。
北方の動乱が再び、行われていた頃、漢中にいた延岑が再び反して武安王を自称し、南鄭(漢中の治所)を包囲した。
漢中王・劉嘉は戦に敗れて逃走した。
延岑は漢中を占拠してから武都に兵を進めたが、更始政権の柱功侯・李宝に敗れ、天水に走った。
そこで成家(または「成」)の公孫述が将・侯丹を派遣して南鄭を占領した。
劉嘉は散卒を集めて数万人を得ると、李宝と連携するため彼を相に立てて武都から南下した。しかし侯丹を攻撃しても勝てなかったため、河池(別名を「仇池」という。変わった名前である)、下辨に軍を還し、延岑と連戦した。
延岑は北に引き上げて散関に入り、陳倉に至ったが、劉嘉はしつこく追撃してこれを破ってみせた。
その間に公孫述は将軍・任満を派遣して閬中から江州に向かわせた。東の扞関を占拠し、益州の全領域を支配下に置くことに成功した。
更始政権の諸大将で南方にいる者の多くがまだ劉秀に帰順していないものも多かった。
そこで劉秀が諸将を招いて兵事を議し、檄で地を叩きながら言った。
「郾は最強で宛はその次。誰がこれを撃つ自身がある人はいるかい?」
執金吾・賈復が真っ先に応えた。
「私が郾を撃つことを請います」
劉秀が笑って言った。
「執金吾が郾を撃つのなら、何の憂いもないね。大司馬・呉漢は宛を撃つように」
劉秀は賈復に陰識と劉植をつけて、郾王・尹遵(または「尹尊」)を撃たせた。
「では、行ってきます」
賈復は益々頑強となった鎧をまとい、剣を持ってそのまま敵陣へ突っ込んでいった。
「あの方、総大将ですよね。なんで指揮をそっちのけで突撃仕掛けているんですか?」
初めて彼の戦い方を見て、目を丸くする陰識に対し、もはや慣れたようなものである劉植は指揮を代行する。
「まあまあ、彼の指揮下の兵がしっかりと追いかけているので、戦死することがありませんから、大丈夫です」
「いや、敵に囲まれて、剣やら槍やらで四方八方から叩かれているんですが……」
しかしながら賈復は相手の攻撃を受けながらも全く前進を止めず、そのまま敵陣を崩した。
「化物か……」
尹遵はたまらず、降伏した。
「では、次ですね」
賈復はそう言うと東に向かって更始政権の淮陽太守・暴氾を攻めた。ここでも賈復の驚異的な戦い方により、暴氾もたまらず投降した。
また、賈復は傷の治療を行いながら降伏させた地域の文官の配置替えを行い、事務処理を的確に行っていった。そのため民衆からは大いに慕われた。
戦場では鬼人の如く、政においては聖母の如しと讃えられた。
劉秀はこの評価を聞いた後、劉植を河南密県の密賊を撃たすために派遣したが、そこで訃報が届いた。
劉植が戦没してしまった。
「劉植が……」
劉秀は悲しみ、彼の後を弟の劉喜に受け継がせた。
四月、虎牙大将軍・蓋延が馬武、劉隆、馬成、王覇の四将軍を率いて劉永討伐を命じられた。
蓋延は戦勝しながら劉永を睢陽で包囲した。
そこへ援軍として蘇茂が派遣された。
「では、後方で控えておれ」
蓋延は包囲している中、蘇茂を後方に置くばかりで前には出さなかった。
「我が軍を信用しないとは……おのれぇ」
蘇茂は憤った。そう蓋延は元々更始政権の将であった彼を一切信用しておらず、彼を露骨に遠ざけたのである。蓋延は人に対しての好き嫌いがはっきりしており、それを露骨に見せるという欠点を抱えている。また、あまり諫言を聞かないところもある。
馬武も同じように嫌われて、後方に置かれている。彼の場合は特に気にしていないが元々血の気が多い蘇茂はこの状況に大いに憤り、なんと勝手に軍を撤退させた。
そのことを知った劉隆が事情を聞くため本陣を尋ねた。
「ふん、邪魔なやつがいなくなった。この後、処罰を申し入れれば死刑となるだろう」
この蓋延の態度に劉隆は舌打ちした。
撤退した蘇茂は淮陽太守・潘蹇を殺し、広楽を占拠して劉永に臣服した。
劉永は蘇茂を大司馬・淮陽王にした。
「余計な敵を作ってしまった」
劉隆は劉秀に報告を行う。劉秀も報告を受けて舌打ちしたが、蓋延への処罰は行わなかった。
「お優しいことで……」
舌打ちしながら劉隆は目を細めた。




