宋弘
更始政権の鮑永と馮衍は更始帝・劉玄が確かに死亡したと知り、喪を発して劉秀の使者である儲大伯らを釈放した。
鮑永らは印綬に封をして献上し、全ての兵を解散させ、幅巾(頭巾)を被って劉秀が行幸している脩武県を訪ねた。
戦国時代、趙・魏一帯では頭巾を「承露」といい、庶人から軍旅(軍人)に及ぶまで皆、頭巾を被っていた。これが後漢末になると、王公や卿士の多くが王服(冠を被ります)を身につけず、頭巾を雅と考えるようになった。そのため、袁紹や崔鈞らは将帥になっても縑巾(絹製の頭巾)を使った。
劉秀は鮑永に会って問うた。
「卿の衆はどこに居る?」
鮑永は席から離れて叩頭し、こう答えた。
「私は更始に仕えても全うさせることができませんでした。その衆によって富貴を望むことに対して誠に慚愧しましたので、全て解散させました」
劉秀は、
「卿の言は大きいものだ(偉大だ。崇高だ)」
と言ったが、心中では喜ばなかった。早々に降伏せずにこちらの使者を捕らえた態度が気に入らなかったのである。
暫くして鮑永は功を立てて重用されるようになることになる。
当時、董憲の裨將が魯に駐軍し、百姓を侵害していた。そこで劉秀は鮑永を魯郡太守に任命した。
鮑永は魯郡に至ってから董憲を討伐して大勝。董憲の衆数千人が鮑永に投降した。
しかし別郡の彭豊、虞休、皮常らだけはそれぞれ千余人を率いて将軍と称し、降ろうとしなかった。
そこで鮑永は衆人を集めて郷射の礼を修め(射術を競う大会を開き)、彭豊らも共に観視(見物)するように誘った。その機に捕えるためである。
一方の彭豊らも鮑永を害しようと欲していたため、兵器を隠し持って参加し、牛酒で労饗(慰労)した。
それを察した鮑永は自らの手で彭豊らを格殺(撃殺)して党与の者を逮捕してみせた。
劉秀は鮑永のこの功績を褒めて彼を関内侯に封じ、揚州牧に昇格させた。
鮑永は時間はかかったが重用されるようになった一方で馮衍は積極的に仕官しなかったため用いられなかった。
鮑永はそんな彼に同情しながら言った。
「昔、高祖は季布の罪を賞し、丁固(丁公)の功を誅したものだ。今、明主に遭遇したにも関わらず、何を憂いているのか」
馮衍はかつて戦国時代、陳軫が秦王に語った話を引用して答えた。
「ある人が隣人の妻を誘ったところ、長者(年長の婦人)は罵り、少者(若い婦人)誘いに応じた。後にその夫が死ぬと、隣人の妻を誘った男は長者を娶った。ある人が彼にこう聞いた。『あなたが選んだのはあなたを罵った者ではありませんか?』と、するとその男はこう答えた。『人の家にいるのならば、私に報いることを欲するが、私の家にいるのならば、人を罵ることを欲する』。天命は知るのが難しく、人の道とは守るのが容易なことである。守道の臣(道義を守る臣)がどうして死亡を患いるだろうか(自分は旧主のために帝に対抗した守道の臣であるため、死ぬことも恐れない。よって現状を憂いることもない)。」
大司空・王梁がしばしば劉秀の詔命に逆らうことがあった。
以前、王梁は大司馬・呉漢らと共に檀郷兵を攻撃した。この時、劉秀の詔があり、軍事は一括して大司馬に属すことになっていたが、王梁は勝手に野王の兵を動員した。
王梁が詔敕に従わないため、劉秀は所在していた県で止まるように命じたが、王梁はまた自分の判断で進軍した。
王梁が詔に従わないことにいつも珍しく激怒した劉秀は尚書・宗広を派遣し、符節を持って軍中で王梁を斬るように命じた。
しかし宗広は彼が長年の功臣であることを配慮して、檻車で王梁を京師に送った。
王梁が京師に到着すると、劉秀は一転してその罪を赦し、中郎将に任命して北の箕関を守らせることにし、大司空の職は罷免した。
その後任として劉秀は太中大夫・京兆の人・宋弘を大司空に任命した。
宋弘は字は仲子といい、彼の父は成帝の頃に少府となり、哀帝の時は董賢と対立して処罰された人である。彼は哀帝から平帝までの間に侍中となり、王莽の頃には共工(少府の改名した官職)となった。
王莽滅亡後、長安を占領した赤眉によって強制的に召喚され、長安に向かう途中で入水自殺を図った。配下によって助けられたが、入水自殺によって死んだことを長安に伝えて、長安に向かわずに済んだ。
その後、劉秀に仕えた人であるため、はっきり言えば、劉秀の部下の中では新人であるため大抜擢とも言えた。
大司空になった宋弘には有名な話がある。
沛国(劉秀によって沛郡は沛国に改められた)の人・桓譚を推挙したことがある。
桓譚は議郎・給事中に任命された。
劉秀は桓譚に琴を弾かせ、奏でられる繁声を愛した。
繁声は複雑な音楽、または中身がない軽薄な音楽のことを言うが、ここでは淫蕩な音楽を指す。
淫蕩な音楽の代表とされているのは「鄭声」、周代の鄭の歌である。この歌は男女の関係を歌った歌詞が多く、知識人からは淫蕩な音楽とされていた・
宋弘はそれを聞いて不快になった。
ある日、宋弘は桓譚が宮内から出た機会を伺い、身なりを朝服に正して府上(大司空府)に坐り、官吏を派遣して桓譚を招いた。桓譚が来ると席も与えず譴責し、
「自分で改めることができるか。それとも法によって相(大臣)に検挙されるか?」
と問うた。桓譚は頓首して謝罪した。
宋弘は反省したと判断してやっと桓譚を去らせた。
後に劉秀が群臣を集めて大きな宴会を開き、桓譚に琴を弾かせた。
桓譚はその場に宋弘がいるのを見ると常度(常態。普段の様子)を失った。
劉秀は怪しんで理由を問うと、宋弘が席を離れて冠を脱ぎ、謝罪した。
「私が桓譚を推薦しましたのは、忠正によって主を導くことができると望んだためです。それにも関わらず、朝廷を鄭声に耽悦させているのは私の罪です」
劉秀は様相を改めて謝った。
この話以上に彼の名を不朽のものとした話がある。
劉秀の姉である湖陽公主・劉黄は夫を亡くして、未亡人となっていた。そのため劉秀は彼女と一緒に朝臣について議論をする振りをしながら再婚についてどのような方がいいのかを聞いた。
劉黄はこう言った。
「宋公(宋弘)の威容徳器は群臣で及ぶ者がいません」
劉秀は案外、面食いだなあと思いながら頷いた。宋弘は美丈夫で、年齢が合わさって、渋さと美しさが同居した容貌をしている。
「わかりました。宋弘との婚姻を進めてみましょう」
宋弘を招き、劉秀は姉を屛風の後ろに坐らせて隠しながら、宋弘に問うた。
「諺にはこうある。『貴くなれば友人との交わりを換え、富を得れば、妻を換えるものだ』これは人情というものではないだろうか?」
宋弘は劉秀の言葉から、
(陛下の御親族の方を私に嫁がせようとしているのか)
と考え、こう答えた。
「私は『貧賎の知人は忘れることができず、糟糠の妻は堂(正堂)から下げないものである』と聞いています」
劉秀は後ろを向いて姉に、
「事はうまくいかず」
と言った。
この故事から「糟糠の妻」という言葉が生まれた。
「糟糠」は「酒かすや米ぬか」のことで、粗末な食事のことである。「堂から下げない」というのは「座敷から下ろさない」という意味で、「正妻の座を奪わないこと」を指す。
つまり「糟糠の妻」とは「貧しい頃に苦労を共にしてきた妻」という意味で使われることが多く、不朽の言葉となった。




