敵を作りし失政
ちょっとしばらく劉秀が出てこないのでサクサクと進めます。
紀元18年
琅邪の人・樊崇が莒で挙兵した。彼は字は細君という。
樊崇の衆は百余人で、移動して太山に入った。そこで樊崇は自ら「三老」と号した。
当時、青州と徐州は大飢饉に襲われたため、寇賊が蜂起していた(前年挙兵した呂母も琅邪の人である)。
樊崇が勇猛だったため、群盗が皆帰附して一年で一万余人に膨れ上がった。樊崇の同郡の人・逄安(字は少子)、東海の人・徐宣(字は驕稺)、謝禄(字は子竒)、楊音もそれぞれ挙兵し、合流した。これらの勢力を合わせると数万人になった。
この勢いにより、他も衆を率いて樊崇に従うようになっていった中、樊崇が喜ぶことが起きた。呂母が世を去った後、主導者を失った呂母の配下の一部が合流を求めてきたのである。
樊崇は彼らを尊重した。なぜなら彼らの挙兵理由は有名であり、正義がある。また、庶民にわかりやすさが良かった。新王朝の政治のわかりにくさが起こした復讐劇であり、呂母には正義があった。そのことがわからない庶民はいなかった。
樊崇は自分の挙兵に彼らを交えることで、正義を与えることができると考えたのである。
彼は莒を攻めたが、勝てなかった。軍隊経験の無い素人集団としての弱さがあった。しかし、勝てる勝てないはともかく皆を食べさせていなかればならないため樊崇は移動しながら略奪し(転掠)、姑幕(県名)に至った。
そこで王莽の探湯侯(王莽が北海益県を探湯に改名した)・田況を派遣してきたため、樊崇の群は大破され、万余人が死んだ。
その後、北上して青州に入り、通った場所で虜掠(人や物を奪うこと)した。青州・徐州一帯で移動しながら略奪を繰り返していった。
東海の人である力子都が郷里で挙兵して徐州・兗州一帯を鈔撃(略奪・攻撃)した。
王莽は使者を派遣し、郡国の兵を動員して撃たせたが、勝てなかった。
『資治通鑑』は「力子都」を「刀子都」としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、「刀」は印刻時の誤りのようです。「刁子都」と書くこともあります。
力氏は黄帝を輔佐した力牧の後代です。
この頃、匈奴の烏累単于が死に、弟の左賢王・輿が立った。呼都而尸道皋若鞮単于という。
輿は即位してから新朝の賞賜による利を貪るため、大且渠・奢と伊墨居次・云の妹の子・醯櫝王を長安に派遣して貢物を献上した。
王莽は大且渠・奢等と長安から王歙に送らさせて、制虜塞まで行くと、そこで伊墨居次・云と須卜当の二人と会見した。新はこの機に兵を使って云と当を脅迫し、長安に連れて行った。
云と当の小男(少子)は塞下から脱出して匈奴に帰った。
須卜当が長安に入ると、王莽は須卜単于に任命し、大軍を匈奴に出して須卜単于の即位を助けようとした。しかし兵の準備ができなかった。
一方の匈奴は激怒して、北辺に並進し、寇略を為した。
紀元19年
北方では匈奴による辺境への侵攻がますますひどくなることになった。
そこで王莽は天下の丁男および死罪囚、吏民の奴を大いに募り、「豬突豨勇」と名づけて鋭卒にした。「豬」も「豨」も「猪(野豚)」のことである。
その天下の吏民全てに税をかけて訾(財産)の三十分の一を取り、縑帛(絹織物)を全て長安に運ばせた。
公卿以下、郡県の黄綬の官に至るまで、全てに軍馬を保養させた。馬の数は秩によって決められていたが、官吏はこの任務を全て民に転嫁した。
更に特殊な技術を持っていて匈奴を攻撃できる者を広く募集し、不次の位によって待遇することにした。「不次の位」というのは秩序を無視した官位という意味で、奇術がある者は経歴に関係なく大抜擢されることになった。
その結果、便宜(国にとって有利な事)を述べる者が万を数えた。
ある者は舟楫を使わなくても川を渡る術があるため、騎馬を連ねて百万の群を渡河させることができると言い、ある者は一斗の食糧も持つ必要がなく、薬物を服食すれば三軍が飢えなくなると言い、ある者は空を飛べるため、一日に千里飛んで匈奴を窺えると言った。
王莽が空を飛べるという者をさっそく試してみると、その者は大鳥の翮(「翮」は本来、羽毛の幹の部分のことだが、ここでは恐らく羽、翼の意味)を両翼とし、頭にも体にも羽毛をつけて飛んだ。
紐で取り付けた翼を動かして飛んだ男は数百歩で墜落した。
王莽はこれらに実用性がないことを知っていたが、その名声(人材を大切にしているという名声)を強く欲したため、全て理軍(官名)に任命し、車馬を下賜して出撃を待たせた。
逆にこのような滑稽な者ばかりを集めたために名声はますます下降することに気づいていないところに王莽という男の盲目さが伺える。
王莽が須卜当を誘い出そうとした時、大司馬・厳尤が諫めていた。
「須卜当は匈奴の右部(西部)におり、彼の兵は辺境を侵さず、単于の動静を全て中国に語っているため、一方面(西部)の大助となっています。今、彼を迎えて長安槀街(異民族の館舎がある街)に置いても、一胡人に過ぎなくなります。匈奴に留めて益(利)がある方が優っています」
王莽はこれを聞かなかった。
王莽は須卜当を得てから、厳尤と廉丹を派遣して匈奴を撃たせようとした。二人に「徵(「懲」に通じます。懲罰の意味)」という氏を下賜して二徵将軍と号し、単于・輿(呼都而尸道皋単于)を誅殺して須卜当を立てることを任務にした。
しかし、軍が城西横厩(長安城西の馬厩)を出たにも関わらず、遠征を開始しなかった。
厳尤はかねてから智略があり、王莽が四夷を攻伐していることにしばしば諫言していたが、王莽は聞き入れなかった。そこで古の名将・楽毅や白起が用いられなかった教訓や辺境の事について著作し、併せて三篇を上奏して王莽を風諫(婉曲に諫めること)した。
今回、出撃することになると、厳尤は朝廷での議論で頑なに、
「匈奴はとりあえず後まわしにできます。先に山東の盗賊を憂いるべきです」
と主張した。
王莽は激怒して厳尤に策書を下し、こう述べた。
「視事(着任)して四年経つが、蛮夷の猾夏(中華への侵略)を遏絶(根絶)できず、寇賊・姦宄(奸邪)も殄滅(消滅)できず、天威を畏れず、詔命を用いず、頑迷がその顔に表れているのに自らを善とし(「容貌に凶暴で頑固な様子が現れている」という意味)、意見を固辞して変ず、懐に異心を抱き、軍議を非沮している。しかし理に到らせるのは(法に基づいて裁くのは)忍びないため、大司馬・武建伯の印韍を返上して故郡に帰れ」
こうして王莽は彼を降格させて、降符伯・董忠を大司馬に任命した。