劉玄
長安に入った赤眉が書を下して逃亡中の更始帝・劉玄に告げた。
「聖公(劉玄の字)が降れば、長沙王に封じよう。但し、二十日を過ぎたら受け入れない」
劉玄は劉恭を派遣して投降を請うた。赤眉は将・謝禄を送ってこれを受け入れた。
劉玄は謝禄に従い、肉袒(上半身を裸にすること。降伏時の姿)して長楽宮を訪ね、璽綬を劉盆子に献上した。
赤眉は約束を守らず、劉玄を庭の中に坐らせて殺そうとした。しかし劉恭と謝禄が命乞いをしたため手を出せず、劉玄を外に連れ出した。外で殺すつもりである。
劉恭がそれを追って叫んだ。
「私は誠に尽力しました。先に死なせてください」
劉恭が剣を抜いて自刎しようとしたため、赤眉の帥・樊崇らが急いで止めさせて劉玄を放った。
赤眉は劉玄を畏威侯に封じたが、劉恭が元の約束を守るように強く求めたため、最後は長沙王に封じられた。
劉玄は常に謝禄に頼って居住し、劉恭も劉玄を擁護した。
赤眉の皇帝・劉盆子は長楽宮に住んでいた。
諸将が日々集まって功を論じるが、言を争って喧噪し、剣を抜いて柱を撃ち、一つになることはなかった。
三輔の郡県の営長(当時は三輔の豪傑が各所で屯聚しており、それぞれに営長がいた)が使者を送って貢献すると、兵士がいつもそれを剽奪(略奪)し、しかもしばしば吏民に暴掠(暴行略奪)したため、三輔の人々はまた堡塁・営壁を作って武装し、守りを固めた。そのため百姓は誰に帰順すればいいのか分からなくなっていた。
この頃、鄧禹だけが連戦連勝しており、しかも軍隊に規律があるという評判が流れた。そのため鄧禹軍が迫っていると聞いた人々は老弱援けあって迎え入れた。投降する者は一日に千を数え、鄧禹の衆は百万を号するほどになった。
鄧禹は停留した場所でいつも車を止めて符節を持ち、帰順した者を慰労した。
父老、童穉(子供)、垂髪(子供)、戴白(老人)が車の下に集まり、感悦しない者はいない。
こうして鄧禹の名が関西を震わせた。
諸将豪桀がそろって鄧禹に長安をすぐに攻撃するように勧めた。しかし鄧禹はこう言った。
「そうするべきではない。今、我々の衆は多いが、戦える者は少ない。前には頼りになる蓄積がなく、後ろにも輸送する物資がない。赤眉は長安を抜いたばかりであり、財穀が充実し、その鋒鋭に当たることはできない。しかし盗賊が群居しても終日(長久)の計はなく、財穀は多くても変故(変事、事故)が万端(混乱のきっかけが多いこと)になるため、堅守できるものではない。上郡、北地,安定の三郡は土地が広くて人が少なく、穀物が豊かで家畜が多い。我々は暫く兵を休めて北に道をとり、食糧が多い地域に移って士を養い、赤眉の疲弊を観察しようではないか。そうすれば図る(狙う)ことができよう」
鄧禹は軍を率いて北の栒邑に至った。
鄧禹が至る場所では諸営堡や郡邑が全て門を開いて帰順していった。
三輔の人々は赤眉の暴虐に苦しみ、皆、更始帝・劉玄を哀れんでいた。哀れんだというよりはまだマシという意識の方が強いだろうが、それでも人々は劉玄を秘かに脱出させたいと思うようになっていた。
張卬らはこの状況を深く憂慮し、謝禄にこう言った。
「今、諸営長には聖公を奪おうとしている者が多数おります。一旦これを失えば、兵を合わせてあなたを攻めるので、自滅の道となりましょう」
張卬らは更始帝を攻撃し、裏切った。そのため更始帝が位を得れば、禍が自分に及ぶことになると恐れて深く憂慮したための発言である。
あれほど劉玄を庇っていた謝禄は恐れて、従兵を派遣して劉玄と共に郊外で牧馬させ、それを機に縊殺(絞殺)させた。
劉恭が夜を通して劉玄の死体を引き取りに行き、保管した。後に劉秀がそれを聞くと心を痛め、鄧禹に詔を発して霸陵(文帝陵)に劉玄を埋葬させた。
更始政権の中郎将・宛の人・趙熹(または「趙憙」)が武関を出ようとした時、道で更始帝の親属に遭遇した。皆、裸跣(裸足)で歩いており、飢困していた。
哀れんだ趙熹は全ての資糧を彼等に与え、保護しながら前に進んだ。これを聞いた宛王・劉賜が更始帝の親属を迎え入れて郷里に還らせた。
最後に『後漢書』での更始帝・劉玄の評価を述べる。
「周の武王は孟津で観兵(閲兵)したが、退いて軍を還した。紂王はまだ討伐できず、その時がまだ至っていないと判断したためである。漢(劉玄)が起きてからは、軽黠(敏捷狡猾)な烏合の衆を駆けさせ、その勢力は天下の万分の一にも当たらなかったが、旌旃(旗)を立てて及び、書文(文書)が届いた場所では、戈(武器)を折って頓顙(膝を屈して拝すこと。投降の意味)しない者はおらず、争って職命(任務・職責の命令)を受けたものである。これは人々が漢に対して余思(懐かしむ気持ち)を抱いていたからだけでなく、元々幾運(気運)が結合したからである。しかしながら権首(首謀。最初に起ちあがった者)になったら、禍が及ばない者は少なくない。陳・項(陳勝・項羽)でもなお興隆できなかったのだから、庸庸(凡庸)の者ならなおさらである」
時流に乗った凡人というのが後世の評価であった。




