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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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更始政権の終焉

 七月、劉秀りゅうしゅうは使者を派遣した。


 使者は符節を持って西征中の前将軍・鄧禹とううを大司徒に任命し、合わせて酇侯に封じて食邑を一万戸にする旨を伝えた。鄼侯は蕭何しょうかが封じられた侯位である。


 この時、鄧禹は二十四歳という若さであり、大出世というべきものである。


 また、大司空の選出について、劉秀は『赤伏符』に書かれた一文である「王梁が衛を主管して玄武を作る」という言葉を元にして王梁おうりょうを選んだ。


 この時、王梁は野王令を勤めていた。


 この野王(地名)は戦国時代末期に衛君が遷った場所であるため、野王令を勤めていた王梁は「王梁が衛を主管する」に符合し、玄武は亀と蛇が一体になった北方の神であり、北は五行の水徳に当たるので水神でもある。司空は水土の官であることから「玄武を作る」に符合するのである。


 続けて劉秀は讖文(予言)を元に平狄将軍・孫咸を行大司馬(大司馬代行)にしようとしたが、衆人が悦ばなかった。


 そこで大将軍・呉漢ごかんを大司馬に任命した。その他、偏将軍・景丹けいたんを驃騎大将軍に、大将軍・耿弇こうえんを建威大将軍に、偏将軍・蓋延がいえんを虎牙大将軍に、偏将軍・朱祐しゅゆうを建義大将軍に、中堅将軍・杜茂ともを大将軍とした。


 かつて更始帝は琅邪の伏湛ふくじんを平原太守に任命した。彼は始皇帝が行った焚書坑儒の際、儒教の書物を壁に埋めて守った済南の伏生の子孫で、父である伏理は漢の成帝に『詩経』を教えた名儒である。


 彼も父と同じく名儒として知られ、尊重されてきた人物である。


 当時は天下で兵が起きていたが、伏湛だけは晏然(安定。安寧)として百姓を撫循していた。


 門下督(諸郡に門下督がいて兵衛を管理した)が伏湛のために挙兵を謀ったが、伏湛はこれを捕えて斬ったという。


 吏民は伏湛を信頼して帰心し、平原全域が伏湛に頼って安全を保つことができた。


 その話を前々から聞いていた劉秀は伏湛を招いて尚書に任命し、旧制の整理校定を担当させた。


 また、大司徒・鄧禹が西征していたため、伏湛を大司徒司直に任命して大司徒の政務を代行させ、車駕(皇帝の車)が征伐に出るたびに、伏湛が拠点に留まって鎮守を任されるようになる。


 劉秀から大きな期待を受けている鄧禹は汾陰から渡河して夏陽に入った。


 更始政権の左輔都尉・公乗歙こうじょうきゅうが十万の衆を率いて左馮翊の兵と共に衙(県名)で鄧禹に対抗した。鄧禹はこれを破って敗走させた。


 宗室の劉茂りゅうもが京と密の間(京も密も河南郡に属す県名)で衆を集め、自ら厭新将軍を称した。


 劉茂は潁川、汝南を攻めて攻略し、衆が十余万人になった。


 劉秀はこれに対し、驃騎大将軍・景丹、建威大将軍・耿弇、強弩将軍・陳俊ちんしゅんに劉茂を攻撃させることにした。


「銅馬帝には正義がある」


 劉茂は彼らが来るとあっさりと衆を率いて投降した。劉秀はこの劉茂の潔さを気に入り、彼を中山王に封じた。


 その後、劉秀は懐を行幸し、そこから耿弇を派遣し、彊弩将軍・陳俊を率いて五社津に駐軍させ、滎陽以東に備えさせた。


 そして、呉漢に建議大将軍・朱祐しゅゆう、廷尉・岑彭しんほう、執金吾・賈復かふく、揚化将軍・堅鐔けんたんら十一将軍を率いて洛陽の朱鮪しゅいを包囲させた。


(まああまり苦戦しないだろう)


 そう思っていた劉秀であるが、 洛陽攻略にてこずることになる。


 劉秀は河陽に進み、更始帝の廩丘王・田立でんりつを投降させた。







 




 李松りしょうが掫から兵を率いて帰還し、新豊に逃走している更始帝に従って趙萌ちょうぼうと共に長安の王匡おうきょう張卬ちょうこうを攻めた。


 一月余連戦して王匡等が敗走し、更始帝は長信宮に住居を遷した。ところが赤眉が高陵まで来ると、王匡、張卬らがこれを迎え入れて投降し、共に兵を連ねて東都門に進攻した。


 更始帝が城を守り、李松が出撃したが、李松は敗戦して赤眉に生け捕りにされ、死者が二千余人に上った。この時、李松の弟・李汎りぼん(または「李況」)が城門校尉を勤めていた。


 そこで赤眉は使者を送って、


「城門を開けば汝の兄を生かそうではないか」


 と伝えたため、李汎はすぐに門を開いて赤眉軍を中に入れた。


 九月、赤眉が長安城に入った。


 更始帝は単騎で逃走し、厨城門から外に出る。すると諸婦女が後ろから、


「陛下、馬から下りて城に謝すべきです」


 と連呼したため、更始帝はすぐに馬から下りて拝礼し、再び馬に乗って去った。


 これ以前に、侍中・式侯・劉恭りゅうきょうは赤眉が弟の劉盆子りゅうぼんしを皇帝に立てたため、自ら詔獄に繋がれていた。


 更始帝が敗走したと聞くと獄から出て定陶王・劉祉りゅうしに会いに行き、劉祉は劉恭の刑具を解き、共に渭浜に行って更始帝に従った。


 右輔都尉・厳本げんぼん(または「厳平」「厳丕」)は、更始帝を失えば、赤眉に誅されることになると恐れ、更始帝を連れて高陵に行った。劉恭も徒歩で従い、一行は高陵の伝舍で宿泊した。


 厳本は兵を率いて外を囲み、これを宿衛、屯衛と述べたが、実際は更始帝を逃がさないための囚禁であった。


 長安に残った更始政権の将相は全て赤眉に降ったが、丞相・曹竟そうきょうだけは投降せず、手に剣を持って格闘し、殺された。


 赤眉が長安に入り、更始帝が高陵に奔ったという情報が劉秀にも伝えられた。そこで劉秀は詔を発して更始帝(劉玄)を淮陽王とすると述べ、吏民が劉玄を賊害(殺害)したら罪を大逆とみなし、劉玄を官府に送り届ける者がいれば、列侯に封じると宣言した。


 史書において、この時点を持って、更始政権は滅亡したとする。



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